汝聖母なりや

鏡を愛しているようなものであった。
珠子は自らの夫である与一郎を、珠子と同じだと思っていた。いや、珠子自身だと思っていた。

髪の色も、肌の色も、同じに見えていた。
抱き合って混ざると、どちらがどちらのものだかわからないほどだった。
それが嬉しくて、求められるまま何度も抱かれた。与一郎が怒れば珠子も怒ったし、珠子が笑えば与一郎も笑った。
珠子は与一郎に甘え、与一郎は珠子に甘えていた。
珠子は、「珠子に見える夫」に甘えていた。
彼も同じだったのだろう。自分を映す鏡を愛するように。
今になってしまえば、砂を噛むような虚しい時間だったとしか言いようがない。
しかし、倒錯した甘美な世界は、珠子を確かに支えていた。

その支えを外したのも、珠子自身だった。
鏡に瑕をつけたのは、珠子自身だった。

信じたことは、悪いことだったのだろうか。

与一郎の親友だという右近は優しい声で、教えてくれた。
彼は、与一郎がけして見せてくれないものを見せてくれた。一言の意味も知らない言葉、見たこともない装い。
世界はとても広く、珠子が思いもよらなかった国が、まるで身を寄せ合っているように生きているということ。
そしてそれを創ったのが、主である神であるということ。神は幾度も試練を与えたのち、自らの息子を救世主として遣わしたこと。

珠子は、女子が読むものではないという彼の忠告も聞かず、教えが記されたむつかしい書を繰り返し読んだ。女として身にあまるほどの学はあったから、読むのに時間こそかかったが、理解することには成功したのだ。
その紙束の一頁一頁が、珠子の鏡を静かに割っているとも思わずに。

部屋に篭って教えの世界に没頭する珠子の行動は、夫である与一郎の苛立ちを掻き立てるには十分であったようだ。
この頃から、与一郎の怒りがわからなくなっていった。昔は手に取るようにわかっていたはずの彼の感情が、珠子には一つもわからなくなっていった。
一度割れた鏡はもう元には戻せない。それをたとえ覗き込んでも、歪な姿しか映してくれなかった。

それでも珠子も与一郎も互いを愛そうとしていた。
瑕ついた鏡に指が触れ、鮮血が滲んでも構わなかった。どこかにまだ、瑕のない美しいところがあるに違いないと思っていた。探るように探るように。どこを触っても与一郎を映した鏡は珠子の指を傷つけた。
それでも珠子には、もう一つ、与一郎を愛さねばならない理由ができていた。

汝、汝の隣人を愛せよ……神の教えを全うするために、珠子は与一郎と向き合おうと努力を惜しまず振る舞った。

しかしそれは長くも続かなかった。珠子は次第に疲弊していった。
与一郎の言っていることも、家中の人々が言っていることも、頭では理解していたが納得はできなかった。

そしてとうとう気がついてしまった。
珠子は与一郎を何も知らない。与一郎は珠子のことを何も知ろうとさえしない。
与一郎は珠子になり得ないし、また珠子も与一郎になり得ない。
互いにとても遠くにいて、もう顔どころか影すら覚束ない。途端に、今までの営みの虚しさに気がついた。
楼閣の消えた砂漠の地平線を、呆然と眺めるしかなかった。儚く消えるそれは桜の花の最期を思わせ、涙を誘うが、珠子にはもう流せる涙もなかった。

…この人とわたしは、離れて暮らしたほうがいい…
そう思いがたどり着くまでそこまで時間はかからなかった。

それ以来珠子はつとめて大人しく過ごすようになっていた。
子どもたちの洗礼に関して夫と揉めることはあったが、それも互いに興味を失っていくように消えていった。
新しい側室の顔を見るたびに吐き気がしたが、心はもうこの家にはなかったから、もう何も感じなかった。
与一郎はまだ珠子の事を愛していたようであったが、珠子にそれに応える気は毛頭なかった。
そんな姿を見てさえもこの夫は何かが愉しいようで、こちらがぞっとするような睦言をかけてくることさえあった。
右近の言葉にあった神の存在だけが、珠子の生きるすべてであったし、生きる理由そのものであった。

全知全能の神とその神の子、そして彼を生んだ聖母。
珠子は空想の世界で何度も神の子を産み落とした。
そのたびに与一郎の事も、家族のことも、この世のすべての事も赦せるような気がしていた。
今日も珠子の手元にあるマリア像は微笑んでいる。珠子も微笑んで赦すのだ。全ての業に。全ての罪に。

 

そうやって珠子は新たな鏡を手にしたのだった。