莫迦げた話

莫迦な話だ。
本当に、莫迦げた話。
「忠三殿は長生きに向いておりませんなぁ」
酒の席でのこと。どうしてそんな言葉が出たか覚えていないが、たしかに皮肉を込めて言ったはずだ。老いて死を待つだけの存在になるよりも、忠三郎という男は若いまま、あっさりとこの世を去りそうなそんな気がして。この手を掴んでいないと、ふ、と消えていなくなってしまいそうなそんな絶望感すら覚えていた。だから、掴まなければ、そのための皮肉だった。くれぐれもそんなことになってくれるなよと。なぜそこまで考えていたのかは、知らない。
「俺がそう思うんだからそうなんだろうな」
そう言う何も知らない忠三郎の目が、どこか誇らしげだったのに腹が立ったことは覚えている。だが、顔には出さない。
「もしも私が先に死ぬようなことがあったら、忠三殿は向こうで私を見つけてくださるでしょうか」
つい、閨で女が嘯くようなことを口走る。半分は冗談で、半分は本気だった。いや、ほとんどが本気だ。そのためならばこの場で死ぬことも厭わない。盲目は褒め言葉だ。もうそれくらい引き返せないところに与一郎はいる。それに気がついているのは与一郎だけだ。悲しいことに、この世の誰も、神でさえも、きっとこの想いを知ることはない。
「おいおい、冗談はよしてくれ、お前がいない世界なんてつまらなくて仕方がなさそうだ。俺が何かをやらかした時に笑ってくれるのはもうお前くらいなものだからな」
何も知らない忠三郎が笑う。そんなことは、ない。年上だからと言って年寄りぶる節があるが、忠三郎はまだまだ若く、これからの人間だと思う。
だから、言ってやる。忠三郎の本当の想い人の名前を、やはり皮肉を込めて。
「そんなことを言って、高山の彼はどうなんです」
「お前はすぐそうやって揶揄う」
ため息交じりに目を細め、遠い目をする忠三郎が与一郎にはきらきらと眩しい。ああ、自分ではない人をいま見ているのだ。ここには二人しかいないというのに。引き裂いてしまいたい欲求が、与一郎を襲う。なぜ、という気持ちに苛まれる。悟られぬようにお返しとばかりに大きなため息をつく。
「まあ、かの方はあなたがもし大失態を犯したとしたら火のように怒るでしょうなぁ、怒ると厄介な人ですゆえ」
「それに関しては不本意だが同意だ。件の小田原のことは思い出したくもない」
そう言って忠三郎は胸にかけた十字架を見やる。
それが気に食わなかったが、やはり顔には出さない。
その十字架は右近が忠三郎に贈ったものだということも知っている。なによりも大切にしているものだと。ああ、奪ってしまいたい。壊してしまいたい。そしてなかったことにしてほしい。その思いごと、なかったことにしてほしい。言葉は裏腹に皮肉を混ぜて喉から口へ漏れる。
「あれは…火と言うよりは氷室に閉じ込められたような思いでしたなぁ……まあ、私や右近殿が先に向こうに行っても、遺された貴方はなかなかどうしてうまくやると私は思いますがね」
「それはないな、もう戻れん」
そう言ってまた酒を飲む忠三郎が、艶めかしく見えるのがもう嫌でたまらなかった。
ああ、どこかでもう一度、こんな風に話してみたかったのだった…こんな…会話を、したのだ。

「お前は莫迦だ」
「…そうだな」
忠三郎の体調が思わしくないことは、与一郎にも十分わかっていた。本人は必死に隠しているのだろうが、もう長くないことは、多分彼が一番よく知っていることなのだろう。
だから言ったのだ。なぜこうなるまで周りも、自分をも欺き続けたのかと。
「お前を遺して死ぬのは惜しい」
そう言って、与一郎の手を取った。ああ、つい最近までこの手はもっと分厚かったはずなのに。こんな、こんな老人のような手ではなかったのに。
その手があまりにも冷たかったので、とっさに握り返す。熱を分け与えるように、命をも、分け与えるように。与一郎の残りの日々なんて、わからない。だけれども、与えられるなら与えたい。顔が引きつっていたことに気が付いたのはしばらく経ってからだった。
しかしそれを見る忠三郎のその表情は至って穏やかなものだった。ここまで来るのにどれだけ彼は怒り、悲しみ、神を思ったのだろう。それとも忠三郎という男は…最初から、受け入れてしまっていたのだろうか。死というものを。
「…やっぱり莫迦だ」
「何度も言ってくれるな、わかっているさ」
忠三郎があまりにも普段通りいようとするのと比例して与一郎の余裕がなくなる。言葉を飾ったり、皮肉めいた慇懃な口調なんてとてもじゃないが出せなかった。
莫迦だ。
当然、忠三郎に対して言った言葉ではない。
なによりも自分自身への、その言葉を与一郎は繰り返すしかなかった。どうして伝えなかったのだろう。こんな姿になって、いま、伝えられるほど与一郎は愚かではない。その痩せた体にこの想いを押し付けることなんて、できるわけがない。そんなことをしてしまったら、簡単に折れてしまいそうになるのは忠三郎なのか与一郎なのか、もうわからなくなる。
「俺が死んだら、すっぱり忘れてくれ、お前は幸福に生きろ。俺が見ることができなかったものを見てきてくれ…」
忠三郎のそんな言葉に、つい語気が荒くなる。先ほどよりもさらに子供の頃に戻ったような、そんな言葉遣いになる。取り繕おうとする暇すらない。残された忠三郎の時間を考えたら、そんなことを悠長にできるほど与一郎は気長ではなかった。
「冗談じゃない!やめろ、俺はあんたの死に水を取りにここにきたわけじゃない、ただ会いにきただけだ。いつも通り、こうし、て…」
しかし言葉は途中から力をなくしただ与一郎の舌を転がる。
視線の先では、忠三郎が泣いていた。静かに、静かに涙を落としていた。それは、見たこともない表情だった。悲しみでもなければ喜びでもない、ただ、何もないその表情。
思わずその体を抱き寄せる。この感情は先ほどまでの痛いくらいの恋心なのだろうか、それとも最後まで残していたたったひとつの友情とやらなのだろうか。わからない。
忠三郎は与一郎を拒まなかった。痩せた体は、それでもたしかに熱を持っていて与一郎を逆に包んだ。ああ、病人の匂いだ。薬と脂汗の混じったようななんとも言えない匂い。嫌いだったはずの匂いが、今更なぜか懐かしい。そして、いとおしい。
与一郎に問いかけるその言葉は、どこまでも優しかった。
「お前は向こうで俺を見つけてくれるか」
忠三郎に昔かけた言葉だ。覚えていたのだろうか。それとも今咄嗟に言った言葉か。わからない。いや、わからなくていい。
「…勿論だ、あんたを見つけたら後ろから蹴り飛ばしてやる」
「もう少し労わることを知らないのか、お前は」
「無理だな、俺は気が短い」
はは、と忠三郎が笑ったようだった。昔のように。ああ、このまま昔に戻れたら良かった。やりたいことがたくさんあった。行きたいところも。見たいものだってたくさんあった。
体を離すと、忠三郎は涙を手でぬぐいながらまだ泣いていた。…こんな顔じゃない、色々見たかった、でもそれはこんな顔じゃない。
「…高山殿を、頼んだ」
「あんたに頼まれなくても、あれは一人でも強かに生きるさ」
「情けないな…俺は、もう少し達観していると思っていた…未だになにもかも諦めきれないんだ…」
心の底から悔しそうに苦笑いを浮かべる忠三郎の声が、なんども反響する。
ああ、こんなことなら、本当に伝えて仕舞えばよかった。
「そこ諦めきれないものの中に俺もいるか」
伝えることはできなかったが、こう言って困らせてしまう。しかし忠三郎の返答は素早かった。
「いるさ、お前が爺さんになった姿を見てみたかったよ、俺は」
「悪趣味なやつ」
与一郎が笑うのを見て、忠三郎もつられてまた笑う。快活な笑顔は変わらない。それなのに、顔に刻まれた皺が、浮腫んだ指先が、その先を暗示しているようで、つい目を背けたくなる。気が付かないのか、忠三郎はその手で与一郎の手を取りなおも続ける。
「お前ともっと歳をとりたかったなぁ」
ずき、とその軽い言葉が胸に重く刺さる。思わず眉間に皺を寄せて否定する。その言葉の示す先のものが、真実になる前に。
「湿っぽいのはやめろ、そう言ったはずだ」
「いや、本当にそう思うんだ。別に涙を誘おうってわけじゃない」
「どうだか。お前はこんな見た目しておいて昔から夢見がちじゃないか」
「今日の与一郎はいつにも増して面白いな、子供の頃に戻ったみたいだ」
ああ、確かにそうだ。こんな風に話していたことがあるかもしれない。でも、こんな話は絶対にしていないと思う。未来のある人間は、こんな話はしない。多分。
「もう子供じゃない」
突き放すように言ってみるが、内心ではこう思っていた。子供だったら言えただろうか。この胸に秘めた想いを…言えてしまうのだろうか…と。
この場で言えたら、どうなるだろう。
与一郎に甘い忠三郎のことだ、きっと驚いたあと、受け入れてくれるに違いない。形だけでも。
でもそれではだめだ。与一郎が望んでいるのはそういうことじゃない。
ただ、もっと一緒にいたかった。ただそれだけなのだ。

…目が覚めた。
身を起こして最初に目に飛び込んできたのは、青々しく血管の浮き出た醜い細い腕だった。ああ、こんな腕を昔はよく馬鹿にしたものだ。死に損ないという言葉が、今になってて自分に刺さる。
急に喉に痰が絡んだような気がして何度か咳をするが、それらは総て空咳に終わった。
…ああ、なんだかこんな虚しい咳のような夢を見ていたような気がする。
忠三郎は死ぬつもりだったわけではない。最後まで生きようとしていたのだろう。いまならよくわかる。
最後に会ってから、忠三郎はなんとか持ち直してしばらくはそれなりに過ごしていたという。むしろその時間が、忠三郎にとってどんなに希望を与え絶望を齎したか。想像するだに苦しい。それはきっと嵐のようだっただろう。その境地はいまだに与一郎にもわからない。
還暦を過ぎ、三斎だのご隠居だの、好き勝手に呼ばれるようになった。もう、誰も、与一郎を与一郎と呼ぶ人間はいない。悲しいが、事実だ。
もうすぐ其方にいけるのだろうか。それを思うと、早く死にたいとすら思うようになるから不思議だ。
病がちで死がすぐに隣り合わせだった与一郎が、こんなことを思うのは多分初めてだと思う。
ただ、それも本当の願いではない。本当の願いは、もうかなわない。
忠三郎の生きた道でもっと傍に居たかった。もっと、一緒にいたかった…やっと吐き出せた痰のような思いが、そんな莫迦に素直なものだったなんて。今更過ぎていっそ笑えてくる。莫迦な話だ…本当に。笑い過ぎて涙が出そうだ。その涙は、かつて忠三郎が与一郎に見せた涙と同じものだろうか。わからない。
わかることといえば、忠三郎の想い人であった右近が、とっくの昔に異国で命を落としたということくらいか。
これを知ったら、忠三郎は泣くだろうか。いや、それこそ天の国でとっくに右近と再会しているのだろうか。やはりわからない。
こればっかりは死んでみないとわからない話だ。
だが、きっと忠三郎はもっと生きていたかっただろう。それだけはわかる。今、死を待つばかりになった身の与一郎ですら、生きていたいと内心恐怖に近いものすら感じるのだから。不惑を前にこの世を去るということが、どれだけ忠三郎を苦しめたか。いや、信仰を前にすればそれもただの救済にすぎないのだろうか。それでも、生きていたいと思うのは、不思議でも何でもない。何も知らずに死んだ。何も伝えずに、その思いは与一郎と忠三郎しか知らない。あの、恋心を吐露した時の恥ずかしそうな顔も、あきらめると泣いていた顔も、あきらめられないと苦しむ顔も、二人だけの秘密だ。それは今も固く守られている。死にたくなかっただろう、幾ら最期に想い人がきたとはいえ、いや、来たからこそ、切に願っただろう。もっと生きていたいと。考えるだけで、なぜか与一郎の目頭が熱くなるのを抑えきれない。
伝えたかった。本当の想いを。忠三郎が右近に伝えなかったと同じように、与一郎にだって伝えられなかった想いがある。何も言えなかった。知っていたから、わかっていたから。わかりたくもなかったけれど、わからざるを得なかったから。莫迦な話だ。知らなかったほうが、わからなかったほうがよかっただなんて。それに気が付くのが、当の忠三郎を喪った後だったなんて。涙がこぼれ、頬を伝う。熱い涙が道となって、冷えた頬を走り抜けていく。止めることなどできないし、止めようとも思わない。
ああ、お前ももっと泣きたかったか。
お前の代わりにいま、泣いてやる。
莫迦な話に、馬鹿正直に泣いてやる。

涙をひとしきり流した夜。もうとっくに老いた夜。
初めて、さよならを言えた気がした。