今日は珍しいことに、彼がギルバートの体の面倒を丁寧に見ていた。
ギルバートはこのしなやかな体つきをして、長い指を持っていて、何よりきらきらと輝くような金色の髪と氷を思わせる青い目を持つ男の、名前は知らない。
彼の姿に並べられる言葉はまだかろうじてこの手の中にあるのだが、肝心の彼の名前を手に入れることは、多分ないのだと思う。
彼はギルバートが疲れた時や、セックスが怖くなって役目を果たせなくなった時にやってきて、宥め、抱きしめて眠ってくれる。そうすると夢を見ることもなく眠ることができて、心のざわめきも消えているのだ。
できればいつも彼が傍にいてほしい。酷い夢ばかり見て怖い思いをしたときだって、他のスタッフは何もしてくれない。しかし、ギルバートは彼を手に入れることができなかった。それどころか名前も教えてもらえない。せめてひとときの安らぎが欲しくて、キスやセックスを強請ったこともあったが、そうすることで彼が離れることを考えたら恐ろしくなって、次第になにもできなくなった。
彼は丁寧にギルバートの髪を洗う。体を洗う。最低限の接触だが、それで満足できるようになってきた。
彼の存在はギルバートの癒しだったし、救いなのだ。その腕の中にいる間になら、この命が尽きてしまってもいい。記憶の中にそっとしまっている、かつて愛した人たちに似たこの男の腕の中ならば……。
「はい、できたよ」
男はそう言って、ギルバートの髪の毛をセットした。どうせ乱されるだけの、男の欲情を掻き立てさせるためだけに長い髪の毛など最早どうでもよかったが、彼が撫でる指先の感覚が心地よくて惚けていた。
「これからくるお客さん、前も言ってたけど長いよ。1日だから。また会えるのは明日だね」
彼の言葉にギルバートは頷く。客が誰なのかはいつも通り教えられていない。きっとろくでもない客なのはわかっているから、何も思わない。一日中この体を凌辱するつもりなのだろう。もしかしたら複数人なのかも知れない。
しかしもう心がうまく動かない。本当ならば嫌で嫌で仕方がないのに、男に犯され咄嗟に出る言葉とは裏腹に、ここにいるときは考えがまとまらず、何かをしようという気も失せている。不思議だと思うのだが、不思議だと思うだけでなぜなのかがわからない。
ギルバートの様子に、男はよしよしと背中を撫でる。彼は優しい。それは、わかる。
男が去り、しばらくするといつも通り客が来る合図があった。ギルバートは視線をあげ、客を見て……あまりにも大きな罪に対する罰の時間が始まるのだ。
「君は本当に……もう少し頼り甲斐のある男だと思ったんだが」
上司のため息は、今日だけで5回目だろうか。
最初は皆、自分に期待の眼差しを向けていたはずなのに……大学でもそうだった。その前も、さらにその前もそうだったと思う。つまるところいつもそうなのだ。
リカルドに対して皆が抱く期待と失望は本人には如何ともし難い……と、リカルドは考えている。
背が高くて多少目つきが悪いというだけで、リカルドは勘違いをされやすい。母曰く、昔流行った映画の俳優に似ているそうだ。その映画も興味本位で見たことがあったが、リカルドとは似ても似つかない、なんでもそつなくこなし、かと思えば恋人のために命をかけて行動する、ヒーローのような男だった。そう、皆が憧れるような……映画を観た後の気まずさと言ったらなかった。
そんな自分を変えたくて学生時代にスポーツに明け暮れたこともよくなかった。鍛えられた長身やそうした虚ろな経歴がリカルドを余計に何者でもなくさせる。
だから、ギルバート・デュランダルとの出会いと再会は、リカルドにとっては刺激として十分であってほしかった。あの映画のように、愛する人との出会いが故にパワーアップする主人公のような……きっと自分にも何か隠された運命があるのかもしれないと……期待したのは、確かにある。
しかし実際の世界はリカルドに冷たいのだ。稼ぎはいいほうだし家族に不自由はさせていない。しかしそれらはすべてリカルドの才にはまったく関係のないものなのだ……。
ため息をつく。今日も仕事場での肩身は狭い。周りは皆、自分のことを悪く思っている。彼らはずっと待っているのだ。リカルドが大きな失敗をすることを。
そんなとき、私用のメッセージフォルダにいつもの店からのDMが入ってることに気がついた。好きなキャストを丸一日独占できるコース、と言うものが期間限定で行われるらしい。
ああ……一日中、ギルバートと一緒にいられたら。
帰宅したってそこには妻の失望の眼差しと、年頃の子どもたちのよそよそしさしかないのだ。スイートホームなんて、幻想でしかない。
気がつくとリカルドは、休暇申請書を提出していた。そして妻に泊まりがけの仕事があるといつものように嘘をついたのだった。
受付にはいつもの青年がいた。急な予約だったが、たまたま空いていたのだと言う。
「きっとギルちゃんも喜んでますよ」
緑色のメッシュが軽口と共に揺れる。気の易いというか、ちょうどよくおだててくれる男だ。
リカルドが店のシステムに慣れない頃も、丁寧に教えてくれた。ギルバートのことも、時折教えてくれる。
「食事とかはルームサービスみたいな感じで呼べますので、都合のいい時にでも」
「わかりました……あの、ちょっと相談があるんですが」
彼はリカルドの言葉に少し驚いたような顔をしたが、内容を聞くと猫のような目を細めてニコッと笑った。
「もちろんです!そのためにご用意もありますよ。今ここでお待ちしてもいいですし」
そうして、リカルドはエリフからルームキーと相談の品を受け取り、いつものようにギルバートのいる部屋に向かった。
ルームキーを受け取ることは普段ならばない。おそらく、途中で抜けることも前提なのかもしれない。リカルドは興味がないが、複数プレイの場合に必要だったりもするのだろうか。
ギルバートが複数の男に抱かれている様子は、今もポルノでたまに目にするが……いざやるとなると、おそらく気が散ってプレイにもならないと思う。
扉が開くと、ギルバートがこちらを見た。こちらの様子に気がつくのは早いが、リカルドと気がついたのはこちらが数歩近づいた時だった。ギルバートは少し驚いたようだったが、ふわりと笑う。演技なのかと最初は疑ったが今はもうどうでもいい。彼の様子が美しければそれでいいのだ。初心に帰るような思いすらする。
「会いたかったです」
「……」
ギルバートは返事をしなかったが、リカルドに抱きついた。思ったよりも力強く、思わずよろめくほどであった。なんとか受け止め髪を指で梳くと、ふわふわと甘い香りが漂った。
「だ、大丈夫ですか?」
思わず聞くと、潤んだ瞳で見つめられる。
「リカルド……」
名前を呼ばれ、せがむようにキスをされた。少し前から自らキスを求めるようになったが、ここまで熱っぽいのは初めてだった。細い体を掻き抱きベッドに傾れ込む。
「会いたかった。本当に……あなたに」
バスローブの下の生白い肌にキスを落とし、隠されていたすべてを露わにする。
息を弾ませたギルバートがこちらに腕を伸ばす、忙しなくシャツを脱ぎ素肌を重ねしばらく抱き合っていた。ああ、現実での悩みだとか、言葉にならない居心地の悪さだとか、そんなものすべてが洗い流されるようだ。
あ、とリカルドはあることに気がつき身を起こす。訝しげにしているギルバートももぞもぞと体を起こし、リカルドを伺っている。
一日中一緒にいられるのだ。ルームサービスがあるとは聞いていたが、それよりも……ギルバートを喜ばせたかった。
「すみません。たぶん、僕なんかとこんな長い時間いても飽きちゃうかと思って……これ、その、詳しくはないんですけど」
そう言って、先ほど受け取った代物を見せた。
「……ワイン?」
ギルバートは目を丸くしてリカルドのそばに寄る。少ししなだれかかるような仕草は、教えられたものなのか元々身につけていたものなのかは知らない。グラスも2つ用意してもらった。と言っても、リカルドはあまり酒を飲まないのだが。
昔何かの取材で、ギルバートが酒を好んで飲むと言う話をどこかで見聞きしたことがある。ずっと思っていたのだ。きっと今のギルバートが酒を飲む機会なんてほとんどないだろう、と。せめて自分といる時は、リラックスして一緒にいてほしいと思ってのことだった。スタッフ曰く、こう言う店では本来娼婦や男娼に酒を勧めるのは御法度らしいのだが、今回のように長い時間買ったのであれば、飲ませても構わないと言う。
「ワインがお好きだと……昔言ってたのを思い出して。その、あ、嫌いな銘柄でした!?」
チラリと見たギルバートが、ぽろぽろと涙をこぼしていたので、リカルドは慌てて彼を抱きしめる。首をふるふると横にふり、リカルドにぎゅっとしがみついくギルバートはちがう、ちがうのと小さく弁明した。
「私のために、なにかを、もらうこと……もうないと思ってて……」
途切れ途切れの言葉はリカルドの反応をうかがってのものだろう。それはなんとなくわかる。絶え間ない暴力でギルバートは変わった。昔は堂々と威厳のある美しさだったが、今は可憐と言っていい。
コルクを開け、グラスに注いでやる。そしてぴったりと寄り添ったまま、二人でワインを飲んだ。やや渋みがあり、舌に広がる独特の重さは……よく知らないが、フルボディと呼ばれるものだと思う。
飲めなくはないのだが、酒の席が楽しいと思うような記憶があまりないリカルドにとって、このワインがどれだけ上等なのか、そうでもないものなのかの区別すらつかなかった。
しかし静かに、それでいて嬉しそうにワインを舐めるギルバートの様子を見て、これは間違っていなかったのだと確信した。なんて愛おしいのだろう。
グラスを置き、ギルバートはリカルドに抱きつく。ワインの味のするキスを何度かして、彼は少し笑ったようだった。
ところで、リカルドはファラチオが趣味ではない。
一度だけギルバートに舐めてもらったことがある。それもあまり気乗りしなかったのだが、彼はそういうサービスをしてくれるのだ。そのこと自体には大層興奮するし、ギルバートの舌がぴとぴとと自らの雄に密着し、亀頭を舐られ先をちゅっと吸われるなど実際に快感も大きかった。
しかし、やはりあまり勧んでファラチオをさせようという気にもならなかった。あの時のギルバートの表情は美しかったとは思うが。
リカルドはギルバートを向き合うように膝に乗せる。すらりと伸びた四肢がリカルドを求めて窮屈そうに抱きついてくる。しっとりとした彼の肌から、ふわりと溢れる髪の毛から、狂おしく物憂げな甘い香りがした。
リカルドは……自らの指をギルバートの唇にあてがってみた。ギルバートの唇は柔らかい。手入れされているからか、元からなのかはわからないが……。
「あの……指を舐めて欲しくて……その……すみません、気持ち悪いですよね逆に……」
「……」
ギルバートはいつもリカルドの自虐に応えない。否定も肯定もされないので、なんだかずっと空回りをしているようだが、最近はこんな自虐をしても彼を喜ばせられないと気がつき始めてきた。ギルバートはちろちろとリカルドの指先を舐める。近くなので、よくその表情が伺えた。指を口に含み、ちゅ、と吸う。
舌先はリカルドの指の腹を擦る。舐るように吸うと、温かく湿った口腔内の感覚が全て伝わってきた。ギルバートの吐息が掌にあたる感触も含めこちらがおかしくなりそうだ。
彼の様々な表情を見たくて、ギルバートの赤らんだ乳首を空いた方の手で摩る。
「ん、む……っ」
ギルバートは呻めき、悩ましげに潤んだ目を細める。
いたいけな乳首は芯をもちリカルドの次の刺激を待っている。くりくりと摘んだり、タップするようにトントンと指の腹で優しく叩くと、体全体をふるっと震わせた。少しだけ背をのけぞらせ、ねだるように体を震わせる。指に歯を立てないようにしているのか、ギルバートは口をぽかんと開け、それでも舌先でリカルドの指をちろちろと舐めながら喘ぐ。
「あ、ア……ッ!」
ひときわ、びくりと体を震わせる。胸への刺激だけでギルバートは絶頂に至ったのだ。なんて可愛らしいのだろう。
唾液で濡れた指をそのままギルバートの後ろに潜り込ませる。すでに支度をされた体は、リカルドの指を抱きしめるように締め付けた。
「あっ……リカルド……やっ……ぁ、や」
ギルバートが体を預けてくれる分、空いた手はまだ彼の胸元に刺激を与えられる。同時に責められ何度もギルバートは体を捩り、軽い絶頂を繰り返しているようだった。やだ、と本人が表現している以上無理強いするつもりはなかったが、熱に浮かされたように染まった頬とじっとりと汗ばむ密着した体が、リカルドにこれはとても好い行為なのだと言っているようでやめられなかった。
蕩けて力のないギルバートの体を横たえさせ、広げた後孔にパンパンに腫れるように屹立した雄を擦り付ける。
「ひ、んっ…は、はや、く……んん、ア…っ」
腕を伸ばし蕩けた表情を僅かに歪ませギルバートが強請る。たまらず押し込むように挿し入れると、ひときわ甘く鳴いた彼の中はリカルドを慰め、きゅんきゅんと疼くように締め付けた。
「あっ、ンッう、ぁ、あっ」
ああ、いつもリカルドはギルバートに優しくしようと思うのに、こうなってしまうともうなにもかもなりふり構わずただ交わるだけの獣となってしまう。
誰の部下でもなく、夫でもなく、ましてや父ですらないこの瞬間、ただギルバートの振り撒く快楽に溺れている時だけが、リカルドにとって息のできる瞬間なのだ。長い潜水の先に見えた空が輝くように、ギルバートの肌も湿度をまとってチラチラと煌めいていた。
「ん、うぅ……リカルド、もっと……」
煽る言葉に誘われて、またリカルドはギルバートに酷い仕打ちをしてしまう。
客を満足させられず、折檻という名義で犯される彼の映像が前に配信されていた。だからギルバートは必死にこうして求めているのだろう。
リカルドはギルバートの体を優しく抱きしめつつも、自らの猛るような欲望を何度もその細い体にぶつけた。こうすることでしか彼を救えないのだと自分に言い聞かせながら。
「ん……ッいく、や、ぁっ…ア、ァッ」
ギルバートもまた、何度も絶頂し……リカルドにしがみつき啜り泣くように喘いだ。快楽にうち震える体はまるで恋人のようにリカルドに絡みついた。長い髪からむせかえるほどに甘い香りがする。それらに溺れるように、リカルドもまたギルバートの中に何度も己の欲望を叩きつけた。
一頻りの行為は気怠さを呼び、濡れた体のまま二人は抱き合って寝そべっている。乱れたギルバートの豊かな黒髪がもぞもぞと動くのは、小動物じみて可愛らしい。
食事は通用口の手前まで運んでおいておいてくれるそうだ。サンドイッチなどの簡素な軽食を頼み、ギルバートと分け合って食べた。
チーズが入ったトマトとベーコンのサンドイッチを勧めたが、ギルバートは首を振ってシンプルなハムのサンドイッチを口にする。元々食が細いと、言葉少なに話してくれた。
彼の口が何かを食べているのを見ることは初めてで、思わずまじまじと見つめてしまった。視線に気がついたのか、ギルバートは俯き、こちらをちらりと伺う。
「あ……すみません、失礼ですよね。ごめんなさい……」
そういうと、くすくすと笑ったようだった。
釣られて笑った。こんなに普通に笑うのかと思ったと同時に、ギルバート相手にこんな普通に笑えるのだとリカルドは自分自身にも驚いた。
「リカルド……その、優しいんですね」
「僕は普通です……そんな、特別じゃない」
そうだ。特別じゃない。
リカルドはどこまでも平凡で……いや、凡愚なのだ。自分の中にある浅ましさや程度の低さは誰かに指摘されるまでもなく自分が一番よくわかっている。
「私にとっては特別優しい……リカルド……」
そう言葉を紡ぐと、ギルバートはリカルドの肩に少し頭を預けた。
なんだか急に、彼の距離が縮まったような気がして不思議な気持ちになった。それまでも関係はしていたはずなのに、急に近くなった気がする。彼が人間なのだとやっと理解したかのようだ。そっと抱き寄せ、触れるだけのキスをした。
シャワーを浴びる頃にはすっかり遅くなっていた。日付も変わってしまった。ギルバートはこういうところにいる都合で眠る時間が不規則だそうだが、シャワー上がりの彼が眠そうにしていたので、ベッドの上にもう一枚予備のシーツを敷いてそこに寝かせようとした。
「……起きてる」
ギルバートはそう言うが、表情もぼんやりしていて今にも眠ってしまいそうだ。
「じゃあ、僕が寝るまで添い寝してください」
そう言ってやっとギルバートはベッドに上がった。
横たわらせ、まだ乾き切っていないギルバートの髪の毛を撫でているうちに……リカルドも眠くなってきて……本当に愛し合う二人のように眠りに落ちていった。
は、と目を覚ました。
ギルバートが隣で眠っている。小さく寝息が聞こえ、随分と寝入っているようだ。酒には強いと聞いていたが、もしかしたらこんな生活で弱くなってしまったのだろうか?
しばらくそうして寝顔を眺めていたが、ふと喉が渇いたことに気がついた。
ギルバートを起こさないようにそっとベッドから離れ、ボトルから水を直に飲み、再びベッドに戻るとこんな声が聞こえた。
「帰ってきていたのかい?」
かつてのギルバートの声だ、とリカルドはすぐにわかった。ハリのある、それでいて甘くて溶けるような声。甘苦い砂糖菓子にも似た、人を虜にしてやまないその声に驚いてベッドに寄る。横たわったままのギルバートは……寝ぼけているのか、わからないが……薄く瞼は開いているが、こちらを見ている様子ではない。しかしリカルドに抱きつくと、もう離れないでと言わんばかりすりすりと頭を擦り付けてくる。
「大丈夫だよ……ん……」
やはり、寝ぼけているのだ。けして明言されなかったが、彼にもきっとそういう相手がいたのだろう。リカルドをその相手と誤認したということは、相手は男だったのかもしれない。
ギルバートはリカルドの頭がそうした情報の処理でパニックになっていることに気付くわけもなく、こんなことを口にしながら抱きしめてくる。
「ラウ……」
どこにも行かないで、と確かに彼はそう言った。
ラウ、という……おそらく男だろう、ギルバートはその男とこういうことをする仲だったのだろうか?そして彼がここにいる以上、その男はもしかしたら……この世にはいないのかもしれない。ギルバートは再び深い眠りに落ちたが、リカルドの眠気は一気に消え去ってしまった。
ギルバートの抱擁の手が弱くなったのを見計らって、身を起こしベッドサイドに座る。持ってきていたデバイスで少ない情報から何か得られないか……調べ始めた。こんなことをしてもなんの意味もないことなどわかっているのだが、止められない。かつてのギルバートの人間関係はミステリアスで、ある意味で彼はどこか孤独さを湛えていた。それが瓦解するのだろうか?
なんとか調べた結果、一人の男の情報に辿り着いた。
ラウ・ル・クルーゼ……という、軍人であった。画像などはほとんど残っていないが、一部、軍人たちの写真の中でそれらしき人物を見た。この金髪の男なのだろうか……?仮面の下は伺えない、どのような人間なのかもわからない。しかしギルバートは彼の名を呼んだのだ。この男がギルバートとどのような間柄だったかを考えているうちに、あらぬ空想をいくつもした。ほとんど情報などあったものではなかったが、ギルバートはこの男を愛していたのだと確信のようなものが、答え合わせのようにリカルドにふりかかる。
ああ、ギルバートは……人並に人を愛し、人並に食事をし、人並に笑うそういう……人間だったのだ。まるで無理矢理服を脱がせたかのように、暴かれた真実をただ茫然と眺めていた。
真実は真実だと思うことが重要であり実際のところどうであったかなんて今のリカルドにはまるで関係のないことであった。
ふと目線をギルバートに移す。穏やかな寝息をたて眠っているその可憐な顔を見て……リカルドは思いもよらなかったはずの行動に出た。
「24時間なんて馬鹿かよと思ってたけど意外と予約埋まるんだな」
エリフはぷかぷかタバコをふかしながら、そうぼやく同僚の言葉に目をあげる。深夜3時、そろそろ客足も落ち着いた頃だ。ステイ客も寝静まっている。
その中の一人、リカルドという客はギルバートに大層執心で、非常に気色の悪い態度をとるのだが、金だけはあるのか今回の24時間という長時間コースをまっさきに予約した太客でもある。
同僚はリカルドが来る前に、ギルバートが嫌がってプレイにならなくなるだろうと賭けを提示してきた。そんなもん賭けになるかと思ったが、ギルバートが唯一心を開いているナージーというスタッフが何だかんだ最後までプレイはするだろうと小銭を投げたのでエリフも面白がってそちらに賭けた。今のところトラブルもないし、これは臨時収入になりそうだとほくそ笑んでいたところだ。
エリフはギルバートを好かない。嫌いと言っていい。彼が最高評議会議長だった頃から気に食わない。大した説明もなく彼はエリフらのような性産業従事者を弾圧した。なにが対話だと思ったものである。
同僚は目の前のモニタを弄る。一応、プレイ中は全て監視カメラで確認できるようになっており、宿泊する場合も同様の措置が取られる。
「てか、ギルちゃん寝てない?」
同僚が首を捻る。ギルバートはコーディネイターの中でも体が強いのか、少食で眠りも浅い。それでもなんとか動けている。
ギルバートの世話役のナージー曰く、深く眠っても10分で目を覚ますのだという。そんなことがあるかねと、一度寝ると9時間は起きないエリフは疑っている。
「まさか。普段だってほとんど寝てないのに客の前で寝るかよ」
「狸寝入りってやつか」
「キショい客の相手したくないから寝たふりしてんだろ。俺だってそうしてたもん」
「さすが元人気男娼はちがうな」
そう言われてもちっとも嬉しくない。エリフが男娼だった頃は毎日地を這う生活だった。ギルバートはそんな生命線すら断ち切ろうとしたのだ。ここにいるのだって奇跡のようなものだ。
「てか、リカルド起きてんじゃん」
エリフの指摘で同僚が画面を覗き込む。しばらく動きがなかったのは、ずっとギルバートを凝視していたのか。全くもって気持ちが悪い男だと思う。
「マジだ。ギルちゃんそれで寝たふりしてんのか」
かわいそーと同僚は笑うが、彼もまた別に心からギルバートを案じているわけではない。この男はちょくちょくギルバートを犯しているし、なんならその様子を撮影して動画配信などの仕事までしている。趣味みたいなもんだと笑うこの男と男娼時代に出会っていたら多分こんなに仲良くなってはいなかったろうと思う。
リカルドの様子を見ても仕方ないので、賭けの話をしたり他のルームを見たり過ごしていた。受付仕事があると困るので、暇なうちに眠ろうかと思い、確認のためにリカルドとギルバートのいる部屋に戻ったときだった。
「え?おいちょっとエリフ、これ見ろこれ」
「は?……何やってんのこいつ」
「え、うわ」
同僚と顔を見合わせ、エリフは声を上げた。
ギルバートの寝顔を凝視したまま、リカルドはあろうことか自慰行為に及んでいた。
こういう客がいないことはないが、寝ている相手に見抜きをする様子を見ることは早々ないと思う。いや、見たくない。客などと言うものは等しく気色の悪いとしか言いようがないのだが、リカルドはその中でも突き抜けている気がする。
男娼だった頃にこの男に出会わなくて良かったし、目をつけられなくて良かったとエリフは真面目に思った。
「明日ギルちゃん荒れそうだわな。明日ナージー来るっけか」
「絶対来るよう言ってる。ああ……なんかすげえ嫌なもん見た。寝る」
「おーおー、鉄のエリフもこれには降参か」
「うるさい」
そう言って、仮眠をとった。今回の件では特に罪のないギルバートに毒づきながら。
なんということをしてしまったんだとリカルドはベッドに座って天井を見上げていた。
最悪だ。そうでなくてもギルバートと3回もセックスをして、眠りこけている彼の寝顔を見つめながら自慰行為なんていうものをしてしまった。こんなことをしたのは初めてだったが……ただの自慰行為を超えた快楽と自己嫌悪がそこにあった。精液を受け止めたティッシュを捨て、手を洗ってから汗に濡れた背中が気になった。もう一度シャワーを浴びるか……そう思って、バスルームにのろのろ歩いた。
この店はプレイのみの部屋と宿泊用の部屋で少し内装が違うらしく、前者ですら広く感じるバスルームは後者ともなるともう一回り大きい。贅沢な作りのバスタブはいくつかスイッチがあり、簡単に書かれた説明書きによると泡なども出るそうだ。あとでギルバートを泡風呂に入れてあげようと思ってシャワーを浴びる。冷え切った家の味気ない風呂よりも、ギルバートのいるこの部屋の風呂はなんと心安らぐのだろう。
「あの」
「わっ!?」
後ろから声がしてリカルドは真上に飛びそうになった。
振り返ると、寝ていた時のままの姿…つまり生まれたままの姿のギルバートがこちらを覗いている。咄嗟にリカルドは、先ほどの自慰行為をギルバートに勘付かれていないかと慌てた。
「あ、あの、すみません、ちょっと寝汗を……それで、シャワーを」
「……帰っちゃうのかと、思って」
ああ、先ほどのあの声ではない。
甘さの中にも苦さを湛えた凛とした声ではない。ただ、甘いだけの……甘さを奪われるだけの声。
そうか、目覚めたら誰もおらず、バスルームに灯りがついていたから……折檻を恐れて引き留めに来たのだろうか。帰るつもりなんかない。それどころか……。
「家に帰りたくなくて……」
そう口にしてから、急に自分が情けなくなった。妻どころか子どももいると言うのに、家庭の運営に参画することすらできない。子どもたちは最近リカルドに近寄らなくなったし、妻だって……きっとなんらか疑ってはいるのだろう。
しかしそれでもここにいたいのだ。ギルバートはそんなリカルドの様子をじっと見ていたが、バスルームにするりと入ってきた。あ、と気がついた頃にはリカルドにぎゅっと抱きつく。
うっすらと汗の匂いがして、ふと先ほど彼がリカルドではない男の名前を呼んでいたことを思い出す。食事をしていた時の笑顔も、情に乱れる姿も……混ざり混ざって、よくわからない感情が湧き立ち、その体を掻き抱いた。少しひやりとする体に、リカルドはあることを思いついた。
「お風呂で温まりませんか?」
ギルバートはこくりと頷き、少し背伸びをするとリカルドにそっとキスをした。
先ほど見つけていたボタンを押して、湯を張る。その間にギルバートに軽くシャワーをかけてやると、暖かいのが心地よいのか少し表情を綻ばせ目を細めた。
最初に会った頃、一緒に風呂に入った……あの時は今以上に舞い上がっていたな、なんて思い出しながら湯船に一緒に入った。
ギルバートはリカルドの膝に乗る形でくてんと脱力している。余程気持ちがいいのだろうか、普段緊張で身を震わせている様子を思うと、やはり彼は心を開いてくれたのではないかと勘違いしてしまう。
「リカルド……さわって、ください」
すりすりと肩口に頭を押し付けられ、思わず濡れた手でその愛おしい頭を……かつて天才と呼ばれていた頭を……撫でてしまった。彼の意図はそうじゃないとすぐに気がついたので、湯の中で暖まりつつあるギルバートの臀部を揉みしだいた。
「ア、あ、リカルド……ほしい……あっ」
背を逸らして善がる声に誘われるように、リカルドはギルバートの体を向き合うように誘い、跨らせる。風呂の中でするなんて初めてだ。ポルノでしか見たことがない。
うまく入れられるかわからなかったが、浮力も手伝って難なく這入りこめた。ギルバートの中が熱くうねり、リカルドを柔らかく締め付けるのが愛おしい。
「あ、あっ!きもち、い……っあ、ゃ」
リカルドにしがみつき、自ら腰を振って快楽を与えてくるギルバートの蕩けた声が、ぱちゃぱちゃと水面の揺れる音とともに聞こえるのは淫靡だ。露わな胸元にキスをするとそれだけで大きく体を震わせるのだ。吐息を漏らしこちらに体を預けてくるのを受け止め、下からゆるく突くとまるでリカルドの精を搾り取るように奥が吸い付く。
「リカルド、あ、ぁ!はげし、んっ」
ギルバートの背中を壁に預けさせ、水中で激しく交わったのも、湯の暖かさも合間って心地よかった。リカルドが動くたびに湯水が跳ね、ギルバートの無防備な胸元を何度も濡らした。
シャワーを再び浴びたあと二人してベッドに倒れ込んだ。くすくすとギルバートは笑う。まだ濡れている髪を撫で、それとなく身の上話などもしてしまった。
妻のこと、子どものこと、仕事のこと……話せることなんかそれしかなかった。本当につまらない人生だ。聞かせるのも申し訳なくなるほどの薄っぺらい人生が、リカルドにとっては険しい道のりすぎる。そんな話もしたと思う。
ベッドに寝転んだまま、ギルバートは大人しくリカルドの話を聞いていた。
「……な、なんか僕だけ話しすぎましたね。ごめんなさい…こんなこと、聞かせちゃって……」
時計を見ると、朝と言ってもおかしくない時間だった。ああ、刻一刻と愛しい時間は終わりに向かって進んでしまうのに、自分ときたらなんてくだらないことをしているのだろう。
「……私には、よくわからない……ごめんなさい」
目を伏せるギルバートは、昔ならどう答えていただろう。愛しい男との生活をきっと送っていただろうこの体は、家族のことも生活のことも、当然全てそつなくこなしていたのだろう。明かされないだけで、事実がそこにはあったはずだ。掘り起こしていいものか……リカルドは逡巡のち、ギルバートを抱き寄せた。
「あなたにはきっと素敵な相手がいたんだと思います。僕よりもずっと……悔しいと、今なぜか思ってます。僕なんかじゃ絶対に勝てないのに」
ギルバートは結局、何も語らなかった。語れないのだろう。彼の中にあるものをリカルドだって受け止められるかわからない。ギルバートはリカルドに寄り添いずっとそばにいた。まるでリカルドこそがその相手だとでも言うように。
「お疲れ様です。お楽しみいただけましたか?」
昨日とは違う男が受付にいた。リカルドよりは背が低いが、十分に体格がよく精悍な顔立ちで、首元にタトゥーの入った男だった。普段なら絶対に話さないと思う。
「ええ……あの」
「何かありましたか?」
「……このコース、次回も予約ってできますか?」
男はもちろんと薄く笑んだ。もうこのまま何日もここにいたいと思ったが、また予約ができるのならばそれを糧に生きていける気がした。
夕方の路地裏は怪しい人間がたくさんいたが、彼らはリカルドに勝手に期待して勝手に失望しない分、余程普段の生活よりはマシだと思いながら、リカルドは日常に帰っていった。
「いやマジできしょいなあいつ」
受付から戻ってきた同僚が顔を顰めながら戻ってきた。先ほど宿舎から店に来たばかりのナージーは、同僚のその態度でリカルドと言う客が帰ったことを知った。
あの客は随分とギルバートに執心で、見た目はナージーたちのような日陰者とは到底相容れない日向の匂いのする男だが、実際のところはどこか言動のおかしな、それでいて思い込みの激しそうな……日陰者の中でもトラブルをすすんで起こしそうなタイプの男なので、店のスタッフからはもはや嘲笑の対象となっている。そうやって問題を抱えたスタッフたちの結束を高めているあたり、スケープゴートといっていいのかもしれない。
彼の嫌がられるところはギルバートに対してどこか恋人気取りの言動をするところだ。言葉だけで、実際にギルバートをこの場から逃がそうとかそう言った行動には出ない。
「あいつまた予約取るってさ。来週また24時間」
「ってことはギルちゃんは最後までしたの」
ナージーは同僚にそう問いかける。昨日この男はギルバートが最後までリカルドと一緒にいられないだろうと賭けを提示してきた。ギルバートがプレイを満足に終えられないことが昔はたびたびあったそうだ。そのたびに折檻をしていたのもこの同僚である。ナージーからしたら、商品に万一のことがあったら困るのは自分たちじゃないか、としか思わないのだが……。
ナージーの指摘に、同僚は覚えてたか……と舌打ちをして賭け金を差し出してきた。受け取った金をポケットに突っ込み、ギルバートの元に向かう。プレイはできたとしても、本人はボロボロだろう。
最近は予約も以前ほどではなくなってきた。皆ギルバートのネームバリューに飽きたのだろう。売ってしまうのであれば早く売ればいい。ギルバートがなぜナージーに懐いているのかなんて興味もないが、管理が面倒なのは真実なのだ。
「ギルちゃん、大丈夫?」
部屋に入り声をかけると、ギルバートはベッドから身を起こす。泣いて……はいなさそうだ。ここ最近、リカルドの相手をした後はいつも子どものように泣きじゃくり、ナージーが宥めないと次の客が付けられないほど状態が悪い。正直な話、ギルバートを売らないのであればリカルドを出禁にしてほしいとナージーは思っているが、リカルドは上客なのできっとそれも叶わないだろう。泣いていないということは涙も枯れ果てたか。
ギルバートはベッドサイドに座ったナージーに抱きつき、膝に乗る。男とセックスした直後の彼の体になんか触れたくもないが、律儀なことにリカルドは今回もプレイ後にギルバートを風呂に入れたようで、仄かに石鹸の匂いがするだけだった。髪を撫でてやるとギルバートは目を細める。身長はナージーより高いくせに痩せぎすな身体のせいですっぽりとこの腕に納まるのは、そういう趣味がある人間からしたら嬉しいものなのかもしれないが、ナージーには全く理解できない。
同僚曰く、ギルバートはリカルドの前で狸寝入りをしていたそうだ。気の毒だとは思う。
だからだろうか。それを哀れに思ったからか、腕の中にいるギルバートのこんな言葉に目を見開いてしまった。
「名前、教えてください……キスもしなくていい、抱かなくてもいいの……名前、教えて……」
すんすんと鼻を鳴らし、しなだれかかる彼を多分ナージーは初めて綺麗だと思ったのだ。本当ならばさっさと眠って次の仕事の準備をさせたい。次の予約まで時間があるとはいえ……ナージーは逡巡の末、ギルバートを抱く腕に少しだけ力を籠めると……こう答えた。
「……アイユーブ・オラドゥル。ここではナージーって名乗ってる。これが俺の名前」
「……ナージー……」
ギルバートが自分の名前を呼びながら、肩口に顔を押し付ける。泣いているのかと思ったがそうではないようだ。笑っているのか?くつくつと笑う彼は、綺麗でそれでいておそろしかった。
そうだ、忘れていたが彼は弩級の政治犯だ。人の不幸を不幸とも思わない、人の血が流れていないとも言われた……そういう男だ。ナージーとて多くの罪を犯したが、根本的な質が違う。彼は……人の心を操り頂点に君臨し、更に世界そのものを管理しようとした男だ。ああ、きっとかつてもこうして……。
「ナージー、すきだよ」
ギルバートの言葉に、ナージーは心底自分に腹を立てながら、ギルバートをベッドに押し付けた。
了
※ナージーの名前の元ネタ
ナージー:アラブ語で「生き残った者」という意味の男性名。
アイユーブ:イスラーム世界における預言者の名前。旧約聖書におけるヨブに相当。唯一神アッラーに対する揺らぎない信仰を試すべくシャイターン(悪魔)が次々と彼に不幸を起こす。財産の喪失・家族の死・体を蝕む病・孤独…最後に報われて苦しみから救われるものの、数々の苦難に陥った人生を想起させることからアイユーブという名前を我が子には命名しない親も少なからずいるという。
オラドゥル:ナチスにより破壊されたフランスの村。ナチスは無抵抗な市民をほぼ全員殺害した。