好きになった女に近づくために酒を飲むことを覚えたし、好きになった女を忘れるために煙草を喫むことを覚えた。修道女ラウ・ル・クルーゼのそう言った行動を、周りの修道女たちは煙たく見ていた。
そうでなくてもラウは目立つのだ。街で彼女を見失うことはまずない。ああ、またあそこの修道女会の……とすぐに噂になる。誰から注意されても直らないし、むしろ頑なにそういった問題行動を起こすようになる。
これでも二ヶ月前までは、彼女はまだ大人しかった方だ。落ち着いていたと言う方が正しい。市街に住む女との色恋は修道院としては確かにそれなりの問題ではあったのだが、ラウがここに来た当時の固い表情を思えば、まだ人との繋がりを持っている方がよいと見過ごされていたと言っていい。それにラウは真面目ではあった。ただ単に目立つだけで、修道院での役割はきちんとこなしていた。
修道院は市街の端にあり、その更に端の部屋にラウは一人で暮らしている。誰も彼女の部屋を訪ねることはなかった。上から見ると9の字を描く修道院の中庭には池があり、彼女は時折そこで鳥を見ていたが、声をかけらることはない。
誰も絵に声はかけないだろう。それと同じように、ラウはその場にはいるが、誰からも相手にされず、また誰も相手にもしなかった。
朝のミサが終わる頃、地域の婦人たちが様々な催しに集まり始めると、彼女はそっとその列の中にいる女に目配せをする。うら若い美しい女はラウを見つけるとにこりと微笑む。それが日常だった。
夕刻ふらりと出かけ、深夜に酒の入った足で帰ってくるラウに最初は苦言を呈する者も多かった。修道女たちには彼女を心配する者、怒りを覚える者、好奇の目を向ける者、おおらかに見守っている者と大きく四分されたが、門限を破っては閉ざされた門扉をよじ登り帰ってくることについては皆一様に嫌がった。
だから皆、ラウについて濃淡はあったがそれぞれ悪い印象があったのだ。
ある時、ラウが帰ってこない朝があった。最初は皆心配した。酒場で女と会っていたという話も時折聞いていたから、何か悪いことに巻き込まれたのではないかと思ったのだ。昼頃には、女と駆け落ちしたのではないかという話がまことしやかに広がった。
比較的解放されている修道院とはいえ、その世界は狭い。噂など、水たまりに落ちたインクのようにあっという間に広まっていく。
夕方になってもラウは戻らなかった。門限をすぎても、まだ帰らなかった。探しに行こうと言う声もあるにはあったが、なんとなく無かったことにされた。異様な雰囲気になる要因は抱えていたのだが、空気は妙に凪いでいた。ラウという異分子が消えたことによる平静だったのかもしれない。
ラウは明け方に帰ってきた。泣き腫らした赤い目尻に擦れた眼差しを湛え、酒と煙草の匂いがした。
修道女たちが遠巻きに見守る中、彼女は部屋に籠り、三日出てこなかった。修道院長の年老いた手が何度かその扉を叩いたが、返事はなかった。夜間、中庭の池で水を浴び、煙草を吸っている姿を何人かの修道女たちが窓から見たそうだが、いずれも忌むべきものを見た時のように慌ててカーテンを閉め十字を切ったと言う。
それからしばらくして、修道院に出入りする婦人たちから、市街の女が結婚して街を出たということを皆が知ることになった。あの子はふられたのね、と話す中には、ラウを悪様に言う者もいた。
だがその時はまだ、ラウに対して同情的な修道女たちも少ないながらも存在はしていた。彼女らも、様々な理由があって修道院にいる身だからだ。ラウが己の感情に惑う姿を、かつての自分たちに重ねていたのかもしれない。
しかし、それもいずれ消えつつあった。ラウは酩酊する姿こそ人に見せなかったが、目に見えて素行が荒れ始めていったからだ。神など存在しないと声高々に主張することをしないだけで、その態度はまさに神の不在を物語っていた。時折激情に飲まれものを壊すこともあった。そういった様子で、遂にラウは修道院長に呼ばれたのだ。
「シスター・クルーゼ、呼ばれた理由はお分かりですね」
修道院長を20年続けている老女は、ラウにできることは全てやったと真剣に思って、その上でここにはもう置いてはおけないと話した。多くの女を見てきた。その中にはもちろん、本人の意図せず修道女となることを強いられた娘たちだっていた。ラウもそのうちの一人だと思っていたが、それだとしても弁護は難しかった。司教区長と話し合った末に、別の市街にある修道院に移ることとなった。
ラウはそれを、なんの感情も読み取れない顔で聞いていた。どうでもいいと不貞腐れているようにも見えたが、どこかでこの世の全てに不満があるような表情でもあった。
それから同じ教区の修道院をいくつか転々としたが、いずれもラウの素行や態度を理由に居場所は無くなっていった。このままどこでもない場所に行きたいとラウは願っていたが、それすらも叶わず、遂に教区を超えた別の修道院に行くこととなった。それは教区長に見放されたと同義である。彼は恰幅がよくお世辞にも美しいとは言えない顔をしていたが、深い知見を持ち合わせており、比較的ラウに対して寛大だったと思う。ラウが問う神の不在に対する痛烈な批判に対しても、静かに訴えを聞いていた。だから遂に、その教区長の手にも負えなくなったということだ。
「全知全能の神というものがもしもいるのならば、なぜ悪魔などというものを創ったのですか」
ラウはそう吐き捨てて、遠い街に旅立った。
軽いトランクに薄っぺらい思い出にもならない服を詰めて、かつて女からもらった櫛は車窓からそっと捨てた。誰もいない森の中に櫛は消えていき、それでラウの気は少しだけ晴れた。
新しい修道院は、立派な門構えで掃除の行き届いた美しい箱庭のような場所だった。中庭には趣向を凝らした花々が可憐に咲いていたが、ラウの心を掻き乱す存在はもうない。そんなものはこの世のどこにもないと思っていた。ラウを物珍しげに見ようとする人だかりも、見たことがあるような女ばかりだ。つまらない。つまらない世界。つまらない人生。つまらないのは誰よりも自分だということを自分でもよくわかっている。
だから……ラウは、見つけてしまった。人だかりの中にいる存在を。彼女……ギルベルタを見つけてしまったあの日を境に、修道女ラウ・ル・クルーゼの人生はさらに大きく変わることになる。