とある男の敗北手記

知の野生児だ。
これが、私がギルバート・デュランダルの様子を初めて見た際に覚えた率直な感想である。当時の彼はまだ10歳かそこらで、背も伸び切らぬ少年であったはずだ。しかし彼はその時点で自らの教育をすべて終わらせており、オブザーバー研究員としてこの研究所に参加していた。そのさまを見て、孤高で言葉の通じぬ獣にも似た子どもであると言うこと自体が冒涜であると謗られることかもしれない。
だが、順序立てて時間を使い大人になるという過程をギルバート・デュランダルは知らなかったといっていいだろう。野生に生きる獣たちに既存の慣習というものは通用しないのだ。彼らは常に合理的に生きることのみを求める。その点で、ギルバートを野生児と私は評価したのだ。
彼が操る言葉の巧みさに皆が感嘆し、子を持つ者どもは皆、自らの子が彼のようであれば良いのにと漏らしたものである。
一方で私は、まだ幼いギルバートに対してそういった欲望を抱くことはなかった。彼のような子をほしいとは思わなかったし、むしろ彼が持つ知への貪欲な渇望を前にただただ恐れるしかなかった。
ギルバート・デュランダルという男は、このときすでに、私が持つ醜悪かつ凶悪な正体を見抜いていたのだと思う。
私は博士号を得てこの研究所に所属してはいたが、ここ数年ろくに研究成果を挙げられなかった。実験は失敗続きで、研究所の資金を食いつぶす足手まといとなっていた。同じ分野の優秀な研究者など、掃いて捨てるほどいるのだ。失敗したことだけがわかる論文など、査読に通ることもない。
ジャーナルに載り、資金を得て、更にそれらを運用することがここでの義務である。義務が果たせない男の持つ博士号になんの意味があろうか。
当時の私は、確かに世界を恨んでいたのかもしれない。それを照らしたのは間違いなくまだ幼いギルバートだった。
ある晩のことだった。会議と言う名の罵倒合戦を終え、私は草臥れた顔をして宿舎に戻った。自邸はあるが、ここ数ヶ月帰っていない。成果を挙げるまでは帰れないと言いながら、その実では妻と子に会わせる顔がなく、引きこもるように宿舎の一室を占領していた。もともとここを使うのは研究者の権利なのだと言い聞かせながらも、すれ違う研究者たちが皆若手なのを気負っていつも深夜に帰っていた。
その日はたまたま、普段より早かったと思う。だから今まで気が付かなかったのだ。小さな隣人の存在に。
「あの」
鍵を開けようと内ポケットを探っていたところ、小さな声が下から聞こえた。聞き覚えのある声に私ははたとその方向に顔を向ける。
「おや、君は」
ギルバートがこちらをじっと見ていた。
長いまつげに彩られた黒目がちの目が、困ったように訴えかける。まさしく子ども特有の仕草だった。
「お疲れのところすみません。その……鍵を閉じ込めてしまって」
もじもじとそう言う彼の姿に、私は事態を把握した。それと同時に、この小さな天才にもそういった血の通う人間の証明が存在するのだと何故か少し安堵したのだった。
「構わないけれど、守衛室には?」
「誰もいませんでした。戻ってはくるようなんですが……あの、少しの間、そちらにお邪魔してもいいですか。お腹が空いてしまって」
私はギルバートの小さな耳朶が、ほのかに赤く染まっているのを見逃さなかった。日頃より大人から持て囃される彼にとって、こういう事態は想定外であろう。大人にこうして甘えるような機会など、なかったのかもしれない。
「良ければ守衛が戻るまで、上がっていくといい」
それは間違いなく情け心だったはずだ。私の娘よりも年下の彼が、ひもじい思いをしていることを哀れに思ったのだ。誓って下心などあろうはずもなかった。
幸い軽食は常備している。彼を部屋に上げ、常飲しているカフェイン抜きのコーヒーと明日食べる予定だったサンドイッチを振る舞った。小さな口がそれを咀嚼するのは、小動物めいて可愛らしいとは思った。この姿こそがあの天才児の正体なのだと思うと、大人としての私の溜飲も下がるばかりで、たしかにそれは醜悪なプライドではあったが、見ないふりをしていた。
気がつけば互いの話になった。彼の興味はゲノム解析におけるアルゴリズムに存在するらしい。こちらは同じ遺伝子工学ではあるが、どちらかというとゲノム編集がメインだ。もちろん隣接領域ではあるが、着目点が違う。
ゲノム編集技術、ここで言うところのより優秀なコーディネイターを作る術は、私以外にも多くの学者が取り組む課題だった。様々な遺伝子情報から、一番安定する最適な組み合わせを試行錯誤する。皆が優秀な遺伝子を求めるが、それは不恰好な積み木をとにかく上へ上へ積み重ねるようなものが多い。コーディネイターの肉体の脆弱性を完全に克服するのが私の使命だった。もちろん、既存研究が進んだため現在運用されるコーディネイターの多くが基礎疾患を持たず、また病気にもなりづらい。しかし一方で却って薬への抵抗性が強かったり、微量ではあるが骨が過剰につくられたりとしばしばメンテナンスが必須となる。それらを保守・点検し限りなく発生頻度をゼロに近づけるのが私の研究だ。だから、真新しい研究ではないし、失敗も多い。
翻ってギルバートの研究は、そもそものゲノム情報の解析をさらに加速させるものだった。確かに他の研究の土台になる技術だから、これと決まったものができればさらにコーディネイターを含めたゲノム研究の糧となる。しかし、どんなに素晴らしい機器やシステムを使うとしても、現在の技術では世界中の人間のゲノム情報を即座に集積することはほぼ不可能だ。
それをやりたいのだと、彼は言った。だから解析するアルゴリズムそのものを研究したいと。そのために遺伝子工学のほか、数理学や電子工学などにも指先を伸ばしているらしい。
「もっと解析が早くなれば、できることも増えると考えているんです。自分の遺伝子情報へのアクセスは人が当然持っている権利ですから。わかっていれば避けられることをきちんと避けることで、人は正しく幸せに生きられると思うんです」
マグカップを小さな手に包み、ギルバートはそうつぶやく。彼の眼差しに映る未来は夜明けそのものだと私は思った。それは私自身の未来が夕暮れであることの裏返しでもあるのだが……。
ギルバートは意を決したように、私に向き直った。まだ柔らかなラインの残る頬や唇には、燃えるような血色が伺える。それを私はたしかに美しいと思い、息を呑んだのであった。
「実は、テニュアの話が来ているんです。今はオブザーバーとしてこの研究所にいるのですが……ここで、頑張れるか不安で」
テニュアトラック、つまり研究員の選抜課程だ。若手研究者のために置かれている制度で、要は一定の資金を与えられ期間内に実績を積めばその研究所に終身雇用される。
実は私自身、テニュアトラック制度を利用してこの研究所に在籍しているのだ。彼が私に、秘密の話をするように打ち明けたのは、その経験を聴きたいのかもしれない。
飛び級とはいえギルバートには某教育機関に学籍があるのだという。要はその学籍を手放すべきかどうかということなのだそうだ。たしかにこの研究所のテニュアトラックは任期5年、つまり5年以内に目覚ましい結果が出せなければ、また別の研究所も含めた資金源を探す必要がある。パトロンが物を言う工学研究だが、結局パトロンの信頼を得るためにも身分が必要なのだ。
ギルバートほど優秀だとしても、そうした悩みがあるのだ。私は彼の横顔をやっと捉えた気がした。
真に若者らしい悩みではないか。私にも覚えがあった。若者というものは見通しが立たないことが多いがゆえに、挑戦と躊躇が常に紙一重なのだ。撤退もまた別の挑戦である。
「私は君が必ず成果を上げるだろうと思う。必ずしもテニュアが約束されたものだとは言えないけれど、君ならばその経験も無駄にはならないと思うよ。君のような子は、狭い教育機関にいるよりもこういった場にいたほうがいいと思うんだ」
説教臭くなっていないだろうか、と私はそれなりに気を配った。この業界で年齢差を口にするのはナンセンスだが、彼はまだ子どもではあるのだ。
しかしそんな心配は無用とばかりにギルバートは幼い顔をほころばせ、にこりと笑った。
隠された花の芽吹きを見てしまったような、そういう気持ちがざわりと心を撫で、思わず私は振り払うように笑ってみせた。これが虚勢でしかないことは、随分あとに気がついたことである。
今まさしくこの時点で、私はギルバートの姿かたちを含めた全てに絡め取られたのだ。
「ずっと、誰かにそう言ってほしかったのかも……しれません」
嬉しそうに笑い、こちらを見上げる。大人びた振る舞いの中に秘められた小さな彼の人間としての欠片を握らされたような気がした。それは暖かく、それでいて柔らかいものだった。
女を初めて抱いたときの、支配による達成感に似ているのかもしれない。指に触れた彼のなにかを、私はギルバートの素直な心根だと信じたのだ。
そういった驕りが原因で私は全くの悪意なく、口を滑らせてしまった。
「君のような子を持つ親御さんもきっと鼻が高いだろう。ただのコーディネイターではこうはいかないだろうから」
はた、とギルバートの表情が強張ったのを見て、私はその瞬間、自らの過ちに気がついた。きっと触れられたくないことなのだろう。慌てて取り消そうと、こう言葉を継ぐ。
「私には君よりも年上の娘がいるんだ。だからつい余計なことを言ってしまったね。申し訳ない。気を悪くしないでおくれ」
ギルバートは少しだけ霧がかったような表情をして、こくんと頷いた。
不思議なことにその姿を見た瞬間、必要以上の罪悪感が制御できないほど溢れ出てきたのだ。
もしかして彼の中にある名状しがたくそれでいて物言わずとも薫る花のような柔らかさを散らしてしまったのではないか?そう思うと急に恐ろしくなった。それは彼が見せる年相応の子どもらしさや、秘められた知性の輝きに依るものではなかったと私は考えている。
ギルバートの持つ潜在的に人を惑わすその魔性としか呼びようのない何かが、明らかに発揮された結果なのだ。これはあまりにも非科学的で、それでいて論理的な思想でもある。ギルバートの意図がどこまでそこに関与していたかすら、実は不明瞭なのだ。しかしその時の私はそこまで考えが至らなかったどころか、立ち上がりこういうしかなかった。
「守衛が戻ってきているかもしれないね。少し待っていてくれないか」
ギルバートを部屋に残し、私は廊下に飛び出ると、ばくばくと高鳴る心拍の正体を探った。
彼が子どもだから、気を遣うということでもなかった。少なくとも、彼の進路の話をしているときはまだそうだったはずだと、必死に言葉を並べ替え考えていた。なんの役にも立たない私が、ギルバートに対して何かの手立てになったことをまるで父のように無責任に喜んだのが良くなかったのではないだろうかとその時は本気で思っていた。
守衛は、結局見つからなかった。
私は肩を落とし、すごすごと自室に戻った。逃げるように飛び出したくせに、ギルバートののぞみ一つ叶えられない。
鍵を開けると、リビングにいるはずのギルバートが見当たらない。さっと血の気が引いた。子どもがいなくなるということは、親になったことのある人間であれば誰もが一度は体験する恐怖体験である。すっかりギルバートの親であるかのように錯覚した愚かな私は、あたりを見渡して名を呼んだ。ふと耳に、水の音が聞こえる。振り向くとシャワー室からわずかに光が漏れている。
恐る恐る中を伺おうとしたとき、バタンと扉が開いたのだ。
「どうしても顔を洗いたくて……洗面所を借りてしまって。その……うまくお湯が出せなくて、濡らしてしまいました」
扉の向こうで、柔らかそうな黒髪をゆらしわたわたと手を振るギルバートは……あまりにも、愛らしかった。普段着ている白いシャツが濡れて、薄っすらと下に忍んでいる肌が透けている。私はそのとき、彼に対してけして持ってはいけない、この世の罪の中で一番重い妄想をしてしまった。
濡れて色付く幼い素肌を、私は間違いなく想像上で汚したのだ。
「ああ……ああ、気にしないでくれたまえ。そうだタオルを持ってこよう。ついでにシャワーも浴びるといい」
「守衛の方は?」
「残念だが見つからなかったんだ。良ければ私のベッドで休むといいよ」
「で、でも」
ギルバートが濡れたシャツを気にしながらも、こちらの様子を伺っている。彼に自らの不埒な空想を悟られてはいないか、慎重に言葉を選び、表情を作った。
「気にしないでくれ。私は予備のベッドがあるから。どのみち仕事をするつもりだったんだ」
「……すみません」
ギルバートにタオルを渡し、ドアが閉まるのを確認すると私はリビングに戻り高まるおぞましい衝動を落ち着けるために冷蔵庫を開けた。安酒を少しだけグラスに注ぎ、一気に煽る。喉を焼くようなアルコールの刺激で我に返らないか期待したが、かえって気が研ぎ澄まされるだけでその醜さが鮮明に見えるだけだった。
私はその時はたと思ったのだ。ギルバートが顔を洗おうとしたのは、私がいない間に泣いてしまったからなのではないか。
彼の中の親の不在を認めることは、優秀な頭脳を持っていたとしてもまだ幼いあの心根を、まだ柔らかく素直な未熟な性質を刺激してしまったのではないか。
彼の涙を見たかったなどという自らの浅はかさに絶望しながら、私はソファに座った。
「あの」
目が覚めると、ふわりと芳しい湿った空気が鼻をくすぐる。どうやら眠ってしまっていたらしい。肩を揺すったギルバートの小さな手を見て声を上げそうだった。温められた指先の血色が、あまりにも艶めかしかったからだ。
「あ、ああ、申し訳ない。うっかり眠ってしまったよ」
「いえ、こちらこそシャワーも使わせてもらって……その」
「え、あ」
視線をギルバートに移した私は今度こそ息を呑んでしまった。タオルを体に巻いただけの姿で、洗い髪もそのままにギルバートが隣に座っていたからだ。跳ね上がる心拍数を年齢によるものだと言い訳ができたらどれだけ幸せだったろうか。
「き、気になさらないでください。その、よく考えたら着替えがないので……朝になったら乾くと思いますから、えっと……やっぱり、私がここで寝ます。恥ずかしいんですけど……」
寝るとき、普段も服を着ないんです。
ギルバートはそう言って、赤く染まった頬を俯かせた。
なんということだ。思わず愕然としてしまった。私はただ必死に、彼にかける言葉を探していた愚かな男に成り下がっている。
普段から彼は素肌のまま、シーツにくるまって眠っているのだろう。たった一人で。優秀とはいえまだ家族とともに暮らすべき年あいの彼が、この研究所ではその当然得られる恩恵すら享受できない。
彼を初めて見たときに、野生児だと評したことをひどく後悔した。ギルバートは、たとえ彼がそうしたかったとしても、孤高な獣のごとく合理的には生きられないのだ。本来ならば、この研究所にいる時点でそんな日常を諦めるのは当然である。しかしこのときの私はもう完全に彼の虜となっていた。ただ、君がベッドで寝たほうがいいとしか言えなかったのだ。
ギルバートは、泣きそうな顔をして……こちらを見上げ、私の袖に触れた。そして首を横に振ったのだ。
「あの、もしも嫌じゃなかったら……一緒に寝てくれませんか?こんなこと、恥ずかしくて誰にも頼めません。でも……ずっと、寂しくて。家族がいないから、ここの皆さんとは話も合わないし……」
ギルバートはそう言うと、タオルのみをゆるく巻きつけただけの体をこちらに少しだけ預けてきた。しゃくりあげる声と、石鹸の香りと、温まった体温が当時に私を揺さぶる。このようなことがあり得ようものか。私は彼に同情に哀れむというポーズを取ることで、そのガラス一枚下に蠢く醜悪としか形容できないほどの汚れた思想との視線をなかったことにしたいが、そのガラスにはとっくにヒビが入っているのだ。透明だったガラスは白いクラックで彩られ、今にも向こう側が世界に雪崩れ込んでくる。
私は……だから、間違ったのだ。世界を見誤った。
「そこまで言うなら」
そう言った私に対して、ギルバートはニコリと微笑み、思い切り抱きついてきた。ああ、もう終わっていい。彼の体の重みを知った私は、ついに化け物となってしまったのだ。
化け物となった私の耳元でギルバートがこう囁く。ほのかに甘い声であった。
「ありがとうございます。ロスマン教授」

娘の寝顔ですら、もう数年は見ていないんだ。私はそう思いながらシャワーを浴びていた。少しは正気に戻るかと期待したが、先ほどのギルバートの感触を洗い流すには至らなかった。
自分がまさか、同性でましてや子どもであるギルバートに対して昏い欲望を抱くことなんて、考えもしなかった。
ギルバートが親の不在を自分で埋めたいがために必死に私に抱きつき、強請ってきたのだとどう弁解したとしても、ひとたびこれが明るみになれば私の居場所はきっとこの世界のどこにもなくなるだろう。それは幼い子どもに性的欲求を抱いた上に、その子どもが稀代の天才児であり、今後の未来の希望の光そのものであるからにほかならない。
気もそぞろに浴室から出る。酒は……もう飲もうと思わなかった。無駄だ。もう私は終わったのだ。
ベッドルームの扉を開け、意を決してベッドに目をやると……そこにいたのは、古典的な耽美な美少年でも、艶やかに微笑む男娼でもなく……シーツにくるまった小さな塊だった。
「あ……いい匂いが、して」
恥ずかしそうに潤むギルバートの目は、私の骨を砕くかのようだった。
ベッドに倒れ込んだ哀れな私をその幼い手は確かに受け止めた。私は確かにその時、ギルバートを天使か何かだと誤認した。その手が誘う先がどのような地獄かも知っているくせに。
小さな唇が、そっと私の頬に触れる。
「私は…………君を……」
しかしギルバートはにこりと微笑み、くすぐったそうに小首を傾げる。
「お父様になってください」
彼の甘い言葉に、私は魂ごと意識を失うかと思った。強請るように唇に触れるだけのキスを何度もされ、この体は驚きながらも、それに答えてしまった。
そんなことがあるわけがないだろう。そう思ったはずだ。彼はまだ10歳かそこらで、あらゆる面で未熟なのだ。
もちろん、彼が規格外の知能を持っていることも、年不相応な語りをすることも知っている。だがそれは私にこう言った関係を都合よく求めてくる理由にはならない。そうでなければならないのに、ギルバートは私の唇をその育ちきっていないだろう唇で必死に塞ごうとしているのだ。
わけがわからなかった。今見ているものは夢ではないのかとすら思ったが、彼の柔らかな唇の暖かさは、これが現実だと冷たく伝えている。
シーツを剥ぐと、何も身につけていない白い素肌があらわになった。私は彼の姿を見て……まるで映画のワンシーンのように、生唾を飲み込んでしまったのだ。
罪を知らぬまだ幼い肌は、汗でしっとりと濡れていた。性的意図をもって触られたことのないであろう体は、これから私に何をされるのか本当にわかっているのだろうか。
「君は、お父様とこうしたいのかい」
強がりだ。私の声はどう考えても震えていただろう。ギルバートは答えず私に腕を絡ませる。彼がわからない。わからないが、私はもはやそれらを精査するほどの余力もなかった。ギルバートの少しだけ赤らんだ慎ましい唇を貪り、彼が大人しく舌を絡ませちゅっと吸うのを心地よくすら感じた。あの聡明で可愛げのない賢しい子どもだと思っていた彼とのギャップが、またたまらなかった。
まだ薄く見えるだけの鎖骨にキスを落とすと、むずがるようにギルバートがすんすんと鼻をならし息を吐く。
「もっと、撫でてください」
彼の言葉通り、私は猫でも撫でるようにギルバートの顎から首筋にかけて、肩から肘にかけて、胸から腹にかけてを撫でた。
「ひゃっ……あっ、あ」
それが快楽になってしまうほどに、彼は飢えているのだ。体を震わせ、私の指先の行方に敏感に反応する。私は、小さく芽吹いた欲望の花弁が、思っていたよりも鮮やかな色だったような喜びすら感じていた。研究所の連中にはわかるまい。自分たちがギルバートをどれだけ傷つけていたかなど。だからこれは救いなのだ。そう言い聞かせていたせいか、先ほどギルバートが悲しげに家族の不在を訴えていたことを何度も思い出していた。
「うぅ……おとうさま」
小さく喘ぎ、ギルバートは私に小さな手を伸ばした。そして私を抱き止めて荒い呼吸のまますんすんと呻く。
なんて、愛らしいのだろう。
身体中を撫でていたが、ギルバートはもっともっとと強請る。そして体を捩り、その細くて可愛らしい指を私の……先ほどから血の集まりつつあるペニスに這わせたのだ。
「とうさま、さわってください」
ギルバートは甘く息を漏らし私のものを扱く。それが何を意味しているかもわからないようなあどけなさで、しかし力加減も手の動かし方も完璧に私の衝動を煽るものだった。彼の体を抱き寄せその首筋にキスをしながら、快楽を移し与えるように彼のまだ幼いペニスを触れた。
「あ、あっ、すき」
痛みがないように指の柔らかいところで優しく、それでいて興奮し血を集めている確かに男である象徴をいたぶる。ギルバートはびくびくと体を震わせ、私よりも早く達した。まだ小さな体からは多少の精液しか出なかったけれど、それでも私の愛撫であの神童が欲に負けたと確かに思ってしまったのだ。そしてそれはなんとも愛おしかった。
「……ください」
だからその言葉に、私はいっそ一瞬冷静になりそうになった。まだ精通してさして時間も経っていないだろう彼が、ここまで知っているなんて。誰かに教わったのだろうか、私の知っている男だろうか?そうであればその男は一体誰なのだろうか?
急に沸き立つそれが、顔も見えない男への嫉妬だと気が付かなければ、きっと私は幸福だったのだと思う。しかし私はもう、この体をすでに汚した男がいるということへの怒りに囚われていた。永遠の監獄は私に常に怒りを与え、それは燃え盛るほどのエネルギーとなった。
この幼い体に、一生残る痕を残したい。
そう思ってしまったのだ。彼はそう早くない未来大人になり、私なんて目もくれない人生を送るだろう。だが、微笑むギルバートの服の下に確かに存在する素肌には、必ず私に抱かれたといういましめがあるように私は心の底から願ってしまった。
私は彼に躊躇なく覆い被さり、ひゃ、と声をあげる彼の足を広げさせた。戸渡りを撫でるとギルバートは背を反らし甘く啜り泣いた。
私は男と寝たことなんかもちろんない、しかし勝手は知っている。若い頃に見かけたいかがわしいポルノの中には少年に無体を働くものだってあった。当時はなんの良さもわからなかったが、もしもあればギルバートだったのならば私はきっと妻と結婚することも、ましてや子を産ませることもなかっただろう。
「ん、んっ、そこ、あっ」
隠しようもなく晒された小さな窪みに指を忍び込ませる。意外と入ってしまうもので、はあはあと甘ったるい吐息を漏らすことでギルバートが力を抜こうとしていることがよくわかった。本人がなんと言おうと、慣れたその様子は私の嫉妬心をくすぐった。
まだ幼い体を傷つけないように気遣うという私の情け心は、もうこのときにはすっかりなくなっていたと思う。
きゅ、と締め付ける肉壁の感触はもちろん女の膣とは全く違う。食い締めるような動きはギルバートが意図して緩めないとおそらくこれからの行為もできやしないだろう。しかし彼は震える体を捻るようにして、より入りやすいようにこちらを誘う。
「あ、アっ……はやく……」
ギルバートの体に覆い被さり、小さな頭を撫でながら私は遂にその体を知ってしまった。お世辞にも私のペニスは大きいとは言えないが、だとしても彼の小さな体には辛いであろう。嬌声というよりもその喘ぎ声は悲鳴にも聞こえた。
「あ、あっ……」
それでも、ギルバートの手が呼び声のように私の背中にしがみつこうとするのがあまりにもいじらしい。彼は背を反らし足を震わせながら私を受け入れた。汗ばむ私の肩口にキスをした。それらを言い訳に、背丈の伸びきらぬ彼の唇を貪り、駆り立てられるように彼の中を蹂躙してしまったのだ。
「んんっふ、あ……ひゃっ」
ギルバートを腰を抱えるように引き寄せ、何度も自らを打ちつけた。その度に彼は甘く啼いた。彼の体のすべてで扱くような浅ましい行為を、私は悦んでしまった。息を吐きギルバートから一度己を抜くと、雁首が引っかかったのか一際大きく喘いだ。互いに息を乱しながら、私は彼をうつ伏せにさせ後ろから獣のように制圧した。
押しつぶされそうな小さな体は、わずかだが私の動きに合わせて腰を揺らし私にその仄朱く染まった尻を押し付けてくる。より一層の密着感は私を満たし、ギルバートの中を何度もかき混ぜた。
あの聡く大人ぶった態度をとる少年が、いまは私の下で浅ましく乱れている。ベッドと彼の体の間に手を差し込み、引き上げるように腰を掴みギルバートに屈服のポーズを取らせる。
「ひゃ、あっあ、だめ、やっ」
下腹部に指を伸ばし彼の雄を愛撫すると、たちまちそこは固さを持ち私が与える刺激を期待していた。
「ん、く……」
刺激に体を震わせ、より一層締まった。これ以上は動けなかなるかも知れない。そう思って、私は何気なく彼の体を撫でようと、内腿をするりと撫でた。
「あっ」
ギルバートが背を反らし、枕に顔をぎゅっと埋める。おや、ここが好いのだろうか。鼠蹊部から撫で下ろすように足の付け根からまだ肉の乗り切らない内腿を指の腹で刺激すると、逃げようとするように腰をよじる。そんなギルバートを、もう逃してやれるほど私もまともではなかった。押さえつけるように彼をいましめて内腿を意地悪く触った。
「あ、あっだめ、ぇ」
反らす背中を抑えるように触れたら、今度はそちらも刺激なのか甘く声を上げた。背中は……神経が多いから、実は性感帯になりやすいらしい、という話を話半分に聞いたことがあった。戯れにむかし妻の背中を撫でたが、その時はなんともなく、なにか?と不機嫌そうに呟かれやめたのを思い出した。
思えば、私は彼女の不機嫌な横顔しか知らないかもしれない。何が好きだったろうか。料理を好む女と聞いて、これならば二人の生活も不自由ないだろうと結婚の決め手とした。しかし彼女が本当になんの料理をしたいのかはいまだに知らない。
妻の乱れるところなどほぼ見てこなかった私にとって、今目の前で幼い体を震わせるギルバートの姿はあまりにも刺激的だった。その淫靡はあまりにも直接的なはずなのに、彼は私を拒まず受け入れる。こんなに都合のいいことがこの世界にあったのだ、と私は彼の背中に愛を与えながらそればかりを考えていた。
「あっ!あ、ひぅ、んっん」
ぐずるように鳴き、シーツに顔を押し付け快楽に蕩けるギルバートの背中を撫でる。背骨にかけて優しく撫でると、腰が浮いてしまうらしい。こういうのは指先ですると確かにくすぐったいこともあろうが、手のひらで労うように撫でてやるだけでも彼は高く上擦った声をあげてまるで私にもっと欲しいとねだるように腰を揺らす。中の締め付けも強く少しでも動くとこちらも声が出そうだ。くらくらする。私もまた自らの高まりとぶちまけたい欲求が掻き立てられ、ギルバートの白くて控えめな尻に打ち付けるように腰を振った。肉のぶつかる音が艶かしく、音だけならば、まさかまだ幼いギルバート相手のものだと誰も思わないだろう。
「ひゃっ!あっあ、あ、あっ……」
ここまでの無体を働いておいていうことでもないが、誓って私は彼の中を自らの性液で汚すことを望んでいたわけではなかった。しかしそろそろ限界を感じ抜こうとしたその刹那、彼の中がまるで私を引き留めるように締まり、情けないことにその刺激で吐精してしまった。脱力感と滲む汗が伝うのをぼんやり思っていた。
そういえば先ほど触ったときに確かに硬さを持っていたギルバートのそこに、宥めるように指を這わせる。くて、とうつ伏せのまま呼吸を整えていたギルバートが、新たな刺激に対して掠れた声で呻くように啼いた。
「ん、あ、あっ!で、でちゃっ……あっ!」
ほとんど何も出なかったが、ギルバートは私が与える刺激に素直に応えたのだ。熱を帯びた体をこちらに向けさせ、私は確かにこの小さな魂を抱いて寝た。
それから数時間後だった。私ははっと目が覚めると同時にそれまでのことをすべて思い出して思わずスプリングのように跳ね起きたのだ。私に抱えられ身動きの取れなかったのだろう、ギルバートは汚れた体のまま、私に体を委ねて眠っていた。もうすっかり血色の引いた白い肌を見て、一瞬私はそれに死体を重ね合わせてしまった。
死体のようなものだ。すでに芽吹いていたであろう彼の人としての矜持を手にかけたのは私だ。ギルバートが他の男とどういう関係を持っているかは知らない。しかし私自身が彼を犯した事実が軽くなったりましてや消えるなんてことは絶対になった。
荒い息を止められない。何をしてしまったんだと後悔していればまだ良かったかもしれない。そんな高尚なところまで考えがいかなかったのだ。浅ましくも、この時の私は目の前の事実をどう隠し切るかだけを考えていた。
そんな私に気がついたのか、閉じられたギルバートの瞼が薄く開く。切れ長の眼差しはこちらを一瞥すると、困ったように笑った。もう……先ほどまでの、乱れていた彼ではなかった。なのにも関わらず体は、清められることなくそのままだから余計にわけがわからなくなる。
「すみません……こんなことを。きっとロスマン博士も幻滅したかと思います」
「いや……そんなことは」
「いえ、正直におっしゃってください。私は皆さんが思うような人間ではないから……たまにこうして、寂しくなって……勢い任せで関係を迫ってしまうんです」
ぽつり、ぽつりと話す彼の言葉のすべてが正しいとは思わなかった。しかし、今その言葉を紡ぐ彼にとってこれは紛れもない事実なのだ。せめてそれを聞くしかできない。
「……他の男とも、してるのかい。怖い思いをたくさんしたろうに」
せめて、せめてそれだけがないようにと願っての言葉だったが、口に出して仕舞えば、その体に触れる他の男への嫉妬が丸出しになった恥ずかしいものだった。
ギルバートはまた、困ったように笑った。
「そんなことはありません。だいたい、私が悪いのですから……でも」
「でも?」
「こんな悪癖のある私が、このままここにいられるのかと思うと、心配で」
その時私に湧き上がったのは、悍ましいほど醜い欲求だったと思う。
結局私は、ギルバートの意図通りに彼をテニュアトラックに推挙し、特別枠として推薦人にまでなってしまったのだ。たいした実績もあげられていない私でも、彼の道を照らすことができるという自己有用感と、恩着せがましいほどの欲求とがぶつかり合った結果、ギルバートはこの研究所において一番の立ち位置を手に入れた。

それから、数年が経った。ギルバートとは時折寝たが、その度に普段の彼と閨の乱れぶりに驚いた。
そしてある日突然、その関係は私の研究者人生と共に終わったのだった。
「ロスマン博士、少しお話が」
そう言って研究所の事務方が耳打ちをした。この頃は新たな実験スケジュールに目処が立ち、研究者としてのカムバックがかかったタイミングだった。何事だろうかと思っていると、研究所の外れにある面談室に呼び出された。
「ロスマン博士、あなたに対して特別勧告を出します」
理事のひとりである女は、たまに総会で見かける程度の認識でしかなかった。その言葉がなんなのかを理解もできなかったと思う。
「あなたがとある研究員に対して猥褻な行為に及んだことは、全て把握しています。当時の当事者の年齢を考えると、こちらとしても到底擁護できません。今後のキャリアについても面倒はできませんが、本日中に退任を申し出れば受理します」
「ま、待ってください。私は彼とは合意があって……」
「ロスマン博士、退任申し出がない場合、日付が変わった瞬間に懲戒として職を辞して頂きますし、それはこちらとしても公表せざるを得ません」
「ギルバートがそうしろと言ったのか」
「博士」
女はこちらを冷たい目で見た。神経質に巻かれたブルネットが、余計に私を追い詰める。私は彼の推薦人だぞ、などと話した気がしたが、結局私はその日のうちに、まるで夜逃げでもするように研究所を出ざるを得なかった。
そして……家に、妻や娘が待っている家に戻るということもできず、私は地位も、名誉も、財産も、家族も、そして確かに愛したであろうひとりの美しい天才も……全てを失ったのだった。