#1 あの青空と僕らについて(あるいは与一郎と記憶を取り戻した康之の話)
与一郎には記憶がある。振り切ろうにも消え失せない記憶が。
それはある朝のことだった。あの最期の手紙を受け取った日。近日出向いたします……今でもそらで言える。
実はこの記憶で一つ知っていることがある。重友の……記憶の中の重友のもう一つの名前。そして自分が彼から何と呼ばれていたか。手紙の宛名まで覚えているのだから当然である。誰にも言っていない。忠三郎にさえ。いや、忠三郎だからこそ。本当は自分が誰かなんて言われなくても与一郎は知っている。それなりに興味もあったし、調べたりもしたから、わかるのだ。自分たちが何者だったかを。でも、それを今更知って何になるというのだ。何にもならない。何も産まない。その事実だけが、骸のように転がっているのを眺めているだけにすぎない。骸は骸だ。今更手を差し伸べても、それが動き出すわけではない。
与一郎がやったことといえば、それに柔らかい土をかけて手を合わせたくらいだ。これでいいのかはわからない。本当は間違っているのかもしれない。自分には関係ないと言う顔をしてそのまま立ち去る方が、骸にとっては幸せだったのかもしれない。それに、放っておいてもきっとそのボロボロな軀は土に還り、肥料となって美しい花を咲かせただろう。与一郎なんかが何もしなくっても太陽はきちんと朝になればその空を切り裂くではないか。
与一郎は自らの過去を振り返っていた。かつての記憶。そして今の記憶、そしてこれから記憶になるであろう事象全て。幸せだったとは思う。少なくとも不幸だとは思わない。調べた文献には色々な考察が載っていた。全てが嘘ではない。だが全てが本当でもない。歴史とは、願望と感情は遺させてはくれないと純粋にそう思う。誰も与一郎の気持ちなんかわからない。わからせてたまるか。この気持ちは与一郎だけのものだ。他の誰にも渡さない。
「与一郎様」
傍らの男……松井に呼ばれ、与一郎は振り返った。松井は黒いスーツの上にトレンチコートを羽織り、与一郎の隣にいた。背が高くなったと散々周りの大人に言われてきたが、ついに松井の身長は抜くことができなかった。
……松井も、与一郎の記憶の中にある誰かと同じような人間だ。いや、知っている。名前もわかっている。どのような人生を送ったか、どうして死んだかすら今の与一郎はわかってしまう。そしてどうもこの男にもかつての……記憶があるらしい。それも、つい最近とある事故がきっかけでその記憶を取り戻したという。それまでは何もわからなかったと。まったくくだらない話だ……以前ほどは神も仏も信じない与一郎であるが、これに関してはあまりにも悪趣味すぎると言いたくなる。
「康之、お前は自分が誰なのか考えたことがあるか」
その悪趣味さを嗤うように問う。松井は一瞬何かを考えたようで、ふと与一郎から目をそらしたが、そうですね、と再び与一郎に視線を戻す。鋭いそれは与一郎の手前で止まり、穏やかなそれに変わった。この男は与一郎をけして傷つけない。叱ることは多々あるけれども。
「考えたことがないと言えばうそになりますが……誰であっても、藤孝様と与一郎様に仕える身であることは変わりません」
「つまらないことを言うな」
「事実ですから」
さらりと返すこの男は、確かに与一郎の過去の記憶の中で自らの配下にいた人間だった。間違いない。姿かたちは多少変わったが、本質的なところは何一つ変わっていない。こんな鼻梁の涼しげな好青年という風ではなかったが、先ほどのような冷たい視線は間違いなく松井のものだ。視線から知性と教養が滲み出ているような男だった。そんな男と今更問答するつもりもない。与一郎は松井の頭に視線を移す。
「……頭の傷はもう大丈夫なのか」
先述した事故とやらはそれは大変なものだった。不注意でしたと松井は笑っていたが、これから裁判が始まるのは事実らしい。奇跡的に、そして驚異的な速さで傷は回復し、傍から見ればなんの後遺症も残さなかった……はずであった。
「心配して下さっているのですか」
なんと恐れ多い、と松井が畏る。本当はそんなことを素直に思う人間じゃないくせに。与一郎は知っているのだから。
「当然だ」
与一郎が踵を返すと松井も倣う。斜め後ろからついてくる長身の男の表情は窺えないが、笑っている気がした。
その時のことは覚えていない。ただ、長い長い夢を見ていたような気がする。目覚めた瞬間の感想は、とても疲れた、というのが正直なところだ。人一人の人生をすべて振り返ったような、そんなことが実際は起こりえるはずがないのだが…とにかくそんな夢を見ていたような気がする。どんな夢だったかは覚えていない。よくある話だ。そして、きっとどうでもいい話だ。
康之は気が付いたら身に覚えのないベッドに寝かされていた。白い天井。クリーム色の壁。水色のカーテンが空間を仕切っている。遠くでモニタ音がする。なぜだろう、懐かしさすら感じる。
病院か……? そう思って瞬きをすると、簡素な床頭台の隣に誰かがいることに気がついた。気配のある方向に顔を向けると、その姿を視認する前に首と背中に鋭い痛みが走る。そして、頭。なんだろう何か押さえつけられているようだ。包帯でも巻かれているのだろうか。
「なんだ、目を覚ましたのか」
声の主は何故かつまらなさそうにそう言うと、立ち上がりこちらの顔を覗いた。黒いしなやかな髪に、整っていながら氷のような冷たささえ感じる頬骨、しかしどこかまだあどけない少年の面影を残している彼の姿を見て、康之は驚きを隠せなかった。
「与一郎様……」
「その呼び方はやめろ」
突き放すような声音のわりに、目には安堵の色が見える。
康之にとって彼はかけがえのない存在だ。ただ単に、康之の主の子息というだけの存在ではない。彼が子供のころから見守ってきた。与一郎のことなら何でも知っている自負がある。彼の父である……康之の主よりも、ずっと。
「どうしてここに」
「それはどういう意味だ? お前らしくもない。お前は俺が話すときによく言っていただろう。話には必ず主語をつけろと」
ああ、なんだろう。そうだった。昔から話していて疲れる相手だったのだ。与一郎という子供は。康之がそう思っていると、与一郎は構わずに話し続ける。
「お前がここにいる理由ならお前が一番よく知っているだろう。俺がここにいるのは……そうだな、ただの暇つぶしだ。それ以上でもそれ以下でもなく……」
言い終わる前に、白衣に身を包んだ若い女が忙しそうにドアを開けて入ってきた。そして与一郎と康之に一礼すると、ひとしきりモニタを観察し、康之の血圧やら体温やら測り、指先になにやら機械を押し当てたりしていた。
そうこうしている間に、やはり白衣を着た、やたらと恰幅のいい初老の男がやってきたと思ったら、康之の顔を見るなりその小さな目をいっぱいに開いて驚いていた。
「あんな事故でもう目が覚めるとは」
話に置いていかれている気がして、康之は身を乗り出そうとするが、全身を駆け回る痛みに思わず顔をしかめてしまった。それでも言葉を絞り出す。
「……すみませんが、私はなにか、交通事故でも起こしたんですか?」
「松井さん、無理せずこのままで……」
看護師の女が康之の体を再びベッドに戻す。その様子を見て初老の男は頭を下げた。
「ああ、そうでしたか……憶えていらっしゃらない……申し遅れました。私はこの病院で医師をやっている由比信愛というものです、こちらは看護師の佐原君……佐原君、頭をギャッチアップしてあげなさい」
「……病院」
康之の呟きに、それまで我関せずを貫いていた与一郎が口を開く。
「お前跳ね飛ばされたんだぞ、本当に覚えていないのか?ここは青英病院だ。見たらわかるだろ、あんなに通ったのに」
憤っているようだ。そういえばそうだ。ここの壁に覚えがある。病気がちだった与一郎がよく入院していた。なかなか子供に手が回せない両親に代わって康之が面会に行ったものだ。まあまあと由比医師はいなすと、では説明が必要ですねと康之が横たわるベッドサイドに近寄ってきた。そして受けた説明はこうである。
康之は一週間前、交通事故に巻き込まれたという。なんでも、康之の車が故障して、外に出たところをはねられたのだという。そういえば、仕事が終わって車を走らせていたのは覚えている。エンストかと思い外に出たことも、その時の空気が冷たく張りつめていたことも。もうすぐ春かと思いながら、車道に背を向けた時から記憶がない。相手側の大型トラックからは完全に死角になっていたという。幸い頭部CTには問題なく、頭と左肩の擦り傷で済んだらしい。それも数日でよくなるだろうと。まさに奇跡といった感じだ。いろいろな画像を見せられたが、なんだかとても自分のことのようには見えない。
予後良好とされて二日後には一般病棟に移った。むしろ今まで救急病棟だったということすら知らなかった。個室だったから仕方ないと由比医師は笑っていた。どうやら与一郎の父…藤孝のはからいだったようだ。その頃には頭の包帯も取れていた。
一般病棟に移っても、与一郎は毎日病室に来た。別に何か持ってくるわけではない。そして話すわけではない。ただ座っているだけだ。
ああ、思い出した。昔体調を崩し入院していた与一郎の、話し相手を延々させられたものだ。昔から気難しい与一郎の話し相手をするのは苦労したが、不思議と嫌な気持ちになったことは一度もなかった。あの時も同じような部屋だった。目覚めてすぐに懐かしさを感じたのはそれだろう。いや、ちがう。なにか、懐かしさの根本が違う。
よくこうしていた。それは事実だが、何かがおかしい。布団に寝かされたのは与一郎であって与一郎ではなかった。
その晩、夢を見た。いや、あれは多分夢などではないのだと思う。見慣れない屋敷のような大きな家で康之は働いていた。与一郎が上座で難しい顔をしている。
本当に与一郎なのか? 記憶の中の与一郎よりもだいぶ歳を重ねているように見える彼は、何事かを話す。頭を下げる康之の視線には真新しい畳があった。与一郎の実家……康之が本来働いている家……に畳の間はなかった筈だ。そしてなによりもおかしなことは、康之にあるはずのない記憶があることだ。ここに至るまでの全てを、康之は覚えている。今の康之が知り得ることのないことまで。変な夢だ。馬鹿馬鹿しい。目が覚めればきっと忘れる……そう思っていた。
気がついたら康之は病室に寝ていた。ほうら、間違いない。夢に決まっている。そう思って自分の手を見て康之は愕然とした。
記憶にある康之の手と今の康之の手が違う。指はこんなにか細くなかったし、血管の浮き出方も違う。明らかにこの体は康之のものではない。おかしい。こんなに若い手ではなかったはずだ。こんなに力に満ち溢れた指ではもうなかったはずだ。もう? どういうことだ。おかしい。どういうことだろう。
その日もなんら変わりなく顔を出した与一郎は、康之の顔を見るなり機嫌の悪そうな顔をした。
「どうした、辛気臭い顔をして」
「与一郎様……いえ、何も。変な夢を見ていたようです」
「今日一日何も食べなかったらしいな。それも夢のせいか?」
夢、と言う与一郎の顔が……見たこともないような、それでいて見覚えのある……彼の年齢を考えると不相応すぎる老獪な笑みなことに気がついて康之は内心恐怖を覚えた。こんな顔をする与一郎は知らないはずなのに、どうして覚えているというのだろう。この顔を知っている。
そうだ、夢だ。夢で見たあの与一郎の顔だ。あの与一郎は今目の前にいる与一郎と顔立ちが少し違う。ではなぜあれが与一郎だと思ったのだろう。あの…顔の違う与一郎と、今目の前にいる与一郎が同じ表情をしている。くらくらしてきた。
「康之、大丈夫か」
「ええ……少し疲れてはいますが、大丈夫です」
「なにも食ってないのに余計なことを考えるからだ。これでも食っていろ」
与一郎が康之のベッドに何かが入ったビニル袋を投げる。中にはゼリーとペットボトル飲料が入っていた。
ああ、これは近しい思い出だ。よくこれを病院の前のコンビニで買って病室へ向かったものだった。ラインナップはいつも同じ……果物の入ったゼリーと、スポーツドリンク。子どもだから甘いものがいいのだろうと勝手に思っていた。
今思えば与一郎の好みとはひどくかけ離れている。何故与一郎に聞かなかったのだろう。何が欲しいですかと。子どもだから、という言い訳と、与一郎のことはすべて知っているというよくわからない自負がそうさせたのだろうか。今の自分だったら全くそう思わない。
「いただきます」
口にしてみると存外にこの体は水分を欲していたのだろう、渇いた体が潤っていくのを感じた。ああ、生きている。生きてしまっている。どうしてこんなことを考えるのだろう。面白くでもないだろうにそれを見ている与一郎が、目を細め薄い唇にこう言葉を乗せた。
「夢、か。どんな夢だ」
「いえ、そんな、お話しするようなことでは」
明瞭としていないし、そもそもそんなくだらない話を与一郎の耳に入れることもないと本気で思っていた。しかし与一郎は康之の手に触れる。驚いてその顔を見ると、まっすぐ康之を見つめていた。
ああ、知っている、この目を。夢の中で見た。この目だ。この目こそ、康之のよく知る彼の目だ。
「その夢とやらは……俺ではない俺が出てこなかったか?」
血の気が引くとはこういうことかと康之はこの時初めて思ったかもしれない。
何故、と言葉が出る前に与一郎はその手を離した。
「お前と言い蒲生と言い、悪趣味の極みだな」
そう言って与一郎は話し始めたことは……信じられないことだった。それまでの康之だったら、きっと信じないだろう。むしろ鼻で笑っていたに違いない。非現実的で、荒唐無稽な話だった。与一郎の語ったことは、紛れもなく康之の記憶に絡みつく事実だった。夢ではない。
「つまり与一郎様は、ずっと……」
最初に思ったことはそれだった。まだ成人もしていない高校生だと言うのに、たまにしていた達観した視線は意味のあることだったのだ。何も知らなかったら、彼の若さゆえの厭世観を内心哀れにも思ったかもしれない。だが違う。与一郎は間違いなくもう一人の誰かの人生を抱えて生きている。そして……この不幸な事故は康之にそれを気づかせてしまうものだったのだ。
「……」
与一郎は黙って窓の外を見る。虚しいくらいの青空を飛行機雲が切り裂いていく。この青空は彼にどう見えているのだろう。彼が本当ならば享受できうる青い空の無邪気さを考えると、途端に涙が溢れてくる。それはきっと忠誠心からではないと思う。
「泣くな、見苦しい」
そう言って与一郎は康之の頭に触れた。かつてならば絶対に起き得なかったことだ。あやすように与一郎は康之の髪の毛を数回梳くと、立ち上がってこう言った。
「これからも一緒だ。お前が望まなくとも。こればかりは仕方がないだろう」
頷くと、与一郎は微かに笑った。
「これでよかったのですか」
重友と忠三郎が指輪を作ったその日、幸せそうな二人を見届けて、与一郎はさっさと帰ろうとした。本来同席するのもおかしいと言ったのは与一郎だったが、どうしてもというのでついていった。確かに工房の担当は与一郎の伝手だ。このジュエリー工房は与一郎の母親の知り合いが営んでいる。だがそれだけだ。それは二人の幸せを邪魔する理由にはならないと思う。
教職に就く二人は派手なデザインを好まず、質素だが洒落のきいたそろいの指輪を作るそうだ。母の友人と他愛もない話をして、さて帰ろうと立ち上がり工房の外を出ると、門の外で康之が待っていた。当たり前の光景だ。なんとも思わない。折しも冬の始まり、冷たい雨が降っている。与一郎が濡れないように傘を持ちそのまま車へと案内する康之から、もうあの目覚めたばかりの頃の動揺はない。
運転席に座り、車を出す。あんな事故があったのだから運転手くらいつければいいのにと言ったが、別に運転中に事故を起こしたわけではないからと康之は今もこうして与一郎たちの運転手をしている。車が国道に入り、康之は与一郎に先ほどの言葉をかけた。これでよかったのか。よくはない。よくはないが、もう過ぎたことだ。なにもかも。だからこれでいいのだ。
康之は……与一郎の抱えている本当の想いを知っている。忠三郎が初恋にして片恋の相手であることも。今も昔も直接与一郎が話したことがあるわけではないが、与一郎の態度で察しているのだろう。それがいつからなのかはわからないが。それはそれでなんとなく気に食わないが言わないでおいた。それに良いか悪いかではない、答えは決まっている。
「たとえ良くなくても、最善手を打っただけだ」
「左様ですか」
「不満か?」
笑ってそう尋ねると、いえ、と康之は表情を崩すことなくこう続けた。それは笑っていた与一郎の顔を引きつらせるようなものだった。
「三斎様がお聞きになったら卒倒されますね」
「その名を出すな……お前、随分趣味が悪くなったな」
思わず顔を顰めて嘯く。三斎。何もかも見届けるのは辛かったと言う記憶しかないが、今思えばあれだって何も見届けてはいない。むしろ今それが負債のように降りかかっているのかもしれない。だとしても与一郎は自らの選択を間違っているとは思わなかった。気には食わないが。
「蒲生様だけでなく高山様も救われましたね。流石です。私にしてみれば貴方の方がよほど救世主だと思いますが」
「褒めるのか貶すのか煽るのかどれかにしろ。勘違いするなよ」
もう与一郎は手荒な真似に出ない。それを知っていて康之は言っているのだろう。勘違いでないことくらい与一郎が一番よくわかっている。
それらを見越しているのだろう。康之はこう続けた。
「与一郎様はお優しいですから」
どうして記憶を再び手にしたかはわからない。だがそれはこの答えを手に入れるためだったのだろうか。それを優しいとは多分言わない。かつて与一郎だったものを慰めるためだけにこんなにも偶然が重なったわけではないと思うし、そうだとしても絶対に認めない。ただ単に腐れ縁の友人の更なる縁を繋いだだけだ。たまたまそれが与一郎の想い人だっただけで。
「……珠子のところに寄ってくれ」
与一郎はそう告げるとはあと息を漏らす。ポケットには先ほど工房で受け取ったもう一つの指輪がある。許婚の恋人への幾らばかりかの心配りだ。なんの他意もない。それを知らないはずの康之が目を細める。
「やはり与一郎様はお優しい」
車は住宅街へ向かう都道に入る。雨はいつの間にか止んでいて、雲の切れ間にはあの日見たはずの青空が、やはり無邪気に笑っていた。
#2 あの黄昏とアタシたちについて(あるいはドラァグクイーン古田織部の話)
女に生まれたかったと思っていたわけではないと思う。派手な女の格好はするが、別に完全に女になりたいわけではない……はずだ。別にそれを着て外を練り歩くわけではない。そんなことはしない。友人が営むバーの中で「変身」と称して女とも男ともつかない姿になる。店を出るときはいつものスーツ姿だ。教師という堅苦しい仕事と釣り合わないいかがわしい趣味だと思っているからそうなのではない。店の中という限定的な場面でやっと本来の姿に戻れると思っているからだ。大人になってから、それがドラァグクイーンという名前の付いたジャンルなのだと知った。それだけだ。
「ねえねえ、アタシきれい?」
「お前は口裂け女か」
今夜はスパンコールの輝く白と黒のシックなドレスにモード系のメイクだ。我ながら完璧だと思う。何が完璧なのかは知らないが。
重然の猫なで声に素直な返事をするのは、彼の一番の理解者であり恋人でもある長益だ。そんなの趣味じゃないというわりには全く咎めないので、好きにやっている。
「なんてこと言うのよ! こんな美しい口裂け女がいてたまるもんですか!」
言葉だけは強いが、ふふんとポーズをとる重然はどこか得意気だ。そして長益の隣に座る。いつもの定位置。変わらない、重然だけの場所。いつもはカウンターだが、今日はテーブル席だ。小さなそこに詰め込むように座る。
「お前のその変身に小一時間待たされた俺と高山の気持ちも考えろ。いつも気まずい思いをしてるんだぞ」
「え、私はそんなに気まずく思っていませんけれど」
そう言って重然の前に座る小柄な男がニコニコと笑う。少し神経質そうな涼しげな目鼻立ちを穏やかに綻ばせている。今日がいつものカウンター席ではなくテーブル席を選んだ理由は、彼がいるからだ。
高山重友。重然と長益の後輩であるこの若くて線の細い後輩は、案外心根は図太いらしい。
一方で長益は重然がいない間に相当量の煙草を煙に変えてしまったようだ。ぺちゃんこになった頼りない白いソフトケースが所在なさげにしていた。
「……なんだよ、俺が気を使ってるみたいじゃねえか、無駄だなあ」
長益本人のいう通り、それは彼の無駄すぎる気遣いなのだが……長益はそういうところがある。
「そんなの気にしているからそんなに細いんでしょ」
「これでも太った。今は六〇キロあるし」
「一八〇センチもあるのに?」
じとっと長益を睨む。若いころから太りがちな重然に比べて長益は、おそらく人生で一度も太ったことがない……というか、適正体重に乗ったことすらないのではないだろうか。内臓の一つや二つどこかに落としてきてしまったのではないかと思うくらい痩せぎすだ。兄が俳優をやっているだけあって顔はまあそこそこ人並み以上あるし、上背もあるのだからそれなりに女受けはいいように見えるのだが、それは幻想だと重然は思う。むしろ自分の方が世間から見たらよっぽど男らしいとすら。
「この前測ったら一七九センチに縮んだ……さよなら一八〇センチの俺……」
「あはははは」
独特な言い回しをするこの男が好きだ。素直にそう思う。
「そういえば友ちゃん、相談ってなぁに?」
重然の問いに重友は、たいしたことではないのですけれど、と前置きをして、少しうつむいた。
「その……恋人ができまして……」
「あらぁ! なによ、もっと早く言いなさいよ、そんな大事なこと!」
「それが、その……相手が、男性で」
いつもははきはき話す重友にしては珍しく、途切れがちなその言葉に重然と長益は思わず顔を見合わせてしまった。
確かに長益と重然は交際……というと、なんだか気恥しいが、まあ、恋人同士だ。重友が相談するとなると確かに候補に挙がってくるのは自分たちだろう。重然は腕を組む。腕の太さが露見するのであまり組みたくはないが、なんとなく、だ。
「詳しく聞こうじゃない」
「それ俺がここにいなくてもよくね?」
それに対して長益の言葉は重然の真剣な顔を崩させるものでしかなかった。先ほどの気遣いぶりをアピールしながらこういうことを言う男なのだ。こいつは。重然はやれやれとため息をついて、重友に向きなおると色白で華奢なその体つきを眺める。重友はゲイ受けするタイプではけしてないし、そんな噂なんて聞いたことがない。何より彼はノンケだと思っていたから、寝耳に水だ。この道の世界は狭い。噂なんてあっという間に広がってしまう。それが望もうと望むまいと。だからこの界隈の人間と……ということではなさそうだ。
「あいつは放っておくとして、友ちゃん……相談したいことって、つまり相手が男性だからどうすればいいか分からないってこと?」
「それもありますが……実は、その……相手が元教え子で」
「へっ? だって友ちゃん、アナタの勤務先、女子校じゃない、教え子って、どうゆうこと?」
重然が大きな声を出すと、そのボリュームを嗜めながら長益が新たな煙草に火をつける。何本目だそれはと言いたかったが、重然もたまに吸う立場ではあるので何も言わない。長益は煙草をふかすと白いその空き箱をつぶして重然に目線を向ける。
「お前みたいなやつだってことじゃねえの?」
「あらぁこんな美しい子が他にもいるってわけえ? 見てみたいわ逆に」
「お前は悪の女王かなんかか」
「まったく、話が進まないじゃない……で、教え子って?」
「それが実は……」
そこで話されたことは、なんとなく心当たりがあるようでいて、まったく心当たりのないラブストーリーだった。
重友の清廉潔白な性格を考えれば、教え子と連絡を交わし何度も個人的に会い、互いに惹かれ合うなんてそんなこと考えようもなかった。同じ教師だからわかる。教育実習中とはいえ教え子は教え子だ。それ以下でもそれ以上でもないしあり得ない。だが、話を聞いていて重然はとある男性を思い浮かべていた。かつて重友と親密な仲だった男。今はまだあったことのない男の逞しい相貌だった。あまりそういう目で見たことなかったけれども、好い男だったわね……と何となく思い出していた。彼だったらいいのだけれど……とすら思ったが、重友が何も覚えていないようにきっと彼も何も覚えてはいないだろう。確証は何もないのだが。
重然は指を組み唇に添える。ふうむ、と考える。どうしたものか。今を教師として生きる重然としたら、その恋は道ならぬものだと諭したほうがいいのかもしれない。だが……。
一つの願いにも似た思いが、重然を支配する。隣で長益も何か思い当たる節があったのだろうか、背もたれに痩せぎすな体を預けて何か考えているようだった。
「つまり、教え子に告白されたのね? で、友ちゃんもまんざらじゃないってことよね?」
「なんだか、言葉にされると不思議な気持ちですが……そうですね、私がそう思うのも少し変な気がしますけれど」
「変? どうして?」
優しく問いかける。そういえばこの手の話題は昔からめんどくさい人間だった。信仰への愛を高らかに説く彼は、意外と個人個人の恋愛沙汰には疎かった。今思うと、彼は彼でそういうカテゴライズされた人間だったせいなのかもしれないと思うが、なんとなくそう考えるのは野暮だなと思った。重友は重友だ。重然が重然のように……こういう個人の場でカテゴライズする必要ないのだ。公共の場では、それはしなければならない場面もあるかもしれないけれど。
「変というか……いや、私の中でも答えが出ていないのですよね……」
「答えなんて出てなくてもいいんじゃないのか」
それまで沈黙を守ってきた長益が紫煙を吐き出しながらそう言うと上を向いた。頭上には凝った電灯がゆらゆらとしている。マスターの趣味のアンティーク調だ。
紫煙がゆらめいて消えていく。ああ、こんな風に消えると思っていた。なにもかも。実際はそうではなかったのだが。
「それってどういうこと?」
重友の代わりに重然は問うた。なんとなく長益が言いたいこともわかるが……まあ、聞いておこうと思ったのだ。
「普通だ変だって言うのは、自分じゃねえと感じないだろ。それにいちいち答えつけるのは俺はしたくねえってだけ。まあ、高山は俺と性格も違うし受け止め方も違うだろうけどな……って、なんで俺がこんな真剣に話してるんだよ、そう言うのはお前の役目だろ」
そう言って重然のほうを見る。ほら、これだ。困るとすぐに重然を頼る。こういうところが非常に女々しいと思ってしまうが、何をもって女々しいというのかは人それぞれだからもう言わない。
「アンタだって一応この子の先輩なんだからちゃんとしなさいよ……そうね、アタシが気になるのは、友ちゃんが、答えが出てないなりにその子をどう思ってるのかってことかしら」
「……私は、彼のことを大事に思っています。とても、好きなんです。でもそれでいいのか……正しくないとどうしても思ってしまって」
「正しくない、か…」
正しいかどうかを説くことは、たぶん重然にはできないことだ。本当ならば、人の好き嫌いに正しいも正しくないもないのだ。重友だって頭では理解しているだろうが、実際に自分の立場になった時にそれを心の底から思って実行できるかはまた別の問題である。
「俺は正しくないとは思わないし、たとえ正しくなくても、正しくないことを楽しむくらいの余裕は必要だろ」
長益の言葉に、重然も頷く。きっと長益も彼なりに考えたのだろう。分別ができないわけではない。分別したうえで、正しいか正しくないかより大切なことを見つけろということなのだろう。きっと。
「そうですよね……」
頷く重友は、少しだけ背中を押されたような、顔をした。決心したのだろう。もとより真面目で真摯な彼だ。きっと大丈夫だろう。長益はやれやれと肩を落とす。
「……だから、こういうのは重然の役目だろう」
「どういう意味よ」
「楽しんでるだろ、これ以上なく」
そう呟くように言うと煙草を灰皿に押し付けた。
未練を残して死んだわけではない。事実だけを見れば、かつて重然だった男の人生の終わり方は、未練しかないものだろう。しかし重然はさっぱりとその記憶を思い出せる。楽しいことばかりではなかったが、それでもいいことの方が記憶に残っているのは幸せなことかも知れない。
隣の長益はどうだろう。自分よりも後に死んだはずの彼は、幸せだっただろうか。いや、幸せだったはずだ。だって自分と出会えたのだから。だから彼は今も幸せだ。だって自分と再び出会えたのだから。
重友が帰った後、二人でカクテルを傾けつつ話したことは、誰にも聞かれてはいけない内緒話だ。二人だけの、秘密。
「昔より穏やかよね、あの子」
その昔が、いわゆる今の昔でないことを長益は察している。
「そうか? 今もおっかねえよ。あいつ、今日はしおらしかったけどよ……逆になんかいろいろ思い出したわ。おっかねえ……」
「それはアナタが失礼なことばかり言うからでしょ」
「なんでか知らんけど怒るんだよ、俺は何も間違ったことなんか言ってないのに」
そういう偏屈そうに見えて異様に正直者な長益は、拗ねるように煙草の灰を落とす。常に自分に正直だ。今日などはそれがいい方向に出たのだが、それが重友の怒りを買うことは……まあ、何度かあった……気がする。今の関係となってからは少なくとも重然から見てそうでもないが、長益は何度もおっかねえと嘯く。本当に怖がっているわけではさすがにないだろうが。
「色々と思い出しちゃうわよね」
「まあな。ところで重然、お前重友の相手、誰だと思う?」
「そりゃあ……あの子でしょ。わかんないけど、そうだといいなとは思うわ」
まだ見ぬ彼の話だ。彼だといいわねえ……今はどんな男になっているのかしら。そう思いながら澄んだ碧のカクテルを飲み干す。
「俺さあ、これで相手が長岡のアイツだったら嫌だなって思うんだよな。知らねえけど」
「……ちょっとアンタ、性格悪いわよ」
「いや、でもそうじゃん、嫌じゃね?」
確かにそれはちょっと気の毒な気もするが……長岡のアイツと言われた彼も思い出す。別に悪い男だったわけではないが、重友と交際している姿は想像つかない。ニヒリストな面もあったが、あの子も真面目な子だった……そういえばなかなかの男前だった。今で言うイケメンといったところか。
「まあ、確かに嫌だけれど……」
「なんかさ、意外とその辺にいたりするんだろうな。俺とお前が会えたみたいに」
「……そうね」
「会えたのがお前でよかった」
ふとそんなことを言い出すので、少しどきりとする。先ほど思ったことを知られたみたいだ。知られぬようわざと素っ気なく返す。
「何よ」
「お前と会えて幸せだって話」
……瞬間、何を言われているのか分からなかった。言葉を理解した頃には長益はくつくつと笑っていた。その細すぎる肩をバシバシと叩く。
「……アンタって、ほんとにそう! ほんと、そう言うところよ!」
「そう言うところが好きってことだろ?」
「言わせないで、ああもう恥ずかしいったら!」
顔に血が集まるようだ。もう三十路だというのに、どうしてこんな浮ついたことをあっさり言えるのだろう、というか、その三十路をとっくに越えているのにどうしてこんな浮ついた言葉にドキドキしてしまうのだろう。
「もう! 覚えてなさい!」
「そういえばお前そろそろ誕生日だな」
「なんでそういうことを今思い出すのよ!」
こんなやりとりができるのは、いまがあるからだ。別にかつての記憶に感謝なんかしないし、こんな記憶ない方がいいと思うこともないはないが、それでもこうして出会えたことは幸せなことだろう。
重友が忠三郎を連れて重然たちのいるいつものバーにやってきたのはそれから暫く経ったころだった。既に家族に挨拶し、形だけとはいえ結婚指輪も作ったという。忠三郎の顔を見て、重然は確信した。彼は紛れもなく、重然の知っているところの人間だった。彼が重友の恋人になったということは、つまりかつての因果が何か関係するのだろう。詳しいことは重然にもわからないが。隣で長益が我関せずとした顔で煙草をふかしている。きっと同じことを考えているのだろう。
奇跡だと思っていた出会いは、もしかしたら運命付けられていたのかも知れない。でもそれがなんだというのだ。重然も長益も、重友も忠三郎も……それぞれがそれぞれを選んだのだ。自らの意思で。それは間違いない。
その後、その二人にさらに紹介された与一郎という青年が、件の「長岡のアイツ」であることに気がついた時の長益の顔は見ものだったが、それはまた別の話である。