「どうして」
この国を出るまであと僅かとなった夜明けごろ。すべてを捨て、すべてを遺してここを後にしようと、方々に形見分けを済ませ、海に浮かぶ朝日を眺めに外に出た右近はその姿を見て、思わずそう口走ってしまった。
目の前に広がる深い海のような色の目をした男が、右近の行く手を阻むように立っていた。右近はその姿を幻視だと最初は思い込んでいた。
しかしその目は右近の姿を見るなり、息を呑み、駆け寄ってきた。明らかに血の通う人間だった。そして、今一番会いたい人その人だった。
いつからそこにいたというのだろう。外の空気は少しずつ強張りはじめているというのに。
「右近殿!」
「…蒲生、殿」
そして彼は顔をくしゃくしゃにさせて、掻き抱く様に右近の体を絡めとる。それを拒むことはできなかった。
忠三郎は泣いているようだった。そしてひとしきり右近の熱を確かめた後、右近の頬に唇を寄せた。二人はこういうことをする仲だ。確かにそれはそうなのだが。
「右近殿、右近殿…一刻も早くお会いしたかった…」
「待ってください、どういうことですか…どうして」
「逃げましょう、今から、俺と一緒に」
「蒲生殿!?」
突然の忠三郎の提案に右近は動揺を隠せない。というよりも、彼の姿を見た時から驚いてばかりだ。それを隠すことなど到底できない。
忠三郎はそんな右近のことなどお構いなしといわんばかりにまくしたてる。
「手配はしてあります。住む場所も、足も、全部用意してきました。替え玉だって用意しました。もちろん、ご家族の分も…あとは、右近殿が…」
「どうして、どうしてそんなこと…」
困惑する右近の手を忠三郎がとる。相変わらず大きくて暖かい、優しい手だ。悲しくなるほどに。
二人の影が少しずつ伸びていく。朝焼けに照らされた二人の居場所が少しずつなくなっていく。
それを取り戻したいと言わんばかりに忠三郎が言葉を紡ぐ。必死に、瞳に涙さえ浮かばせて。
「あなたに叱られるのは承知の上です。でも、あなた以外のことは俺はどうでもいい!あなたにどんなに最低だと罵られても、これがあなたの望む幸福でなくても、それでも俺はあなたと生きていきたい!…これが俺の答えです……生きましょう、右近殿、幸福に、俺とともに生きましょう…わかってます、駄目なことくらい…わかってるんです…これが俺だけの問題じゃないことも。けれども俺はもう自分に嘘はつきたくないんです!」
忠三郎の力強い言葉は、右近の心を動揺させるには十分なものだった。
だが、右近はもう決めてしまったのだ。だからすべてを終わらせようとあんな手紙を書いたのだ。それを見て忠三郎がこんな行動に出るとは思わなかったが…。
「誰よりも、何よりも、あなたをここに置いていくことは、身が引き裂かれるような思いです…あなたの気持ちはわかりました。しかし、これはもう抗いようのない運命なのです。でうす様が与えてくださった、苦難の道なのです…わかるでしょう?あなたなら…」
そう言って右近は忠三郎の手の、その甲にその唇を押し当てる。忠三郎が普段やっているように。この愛は一生消えないといわんばかりに。
「右近殿…」
「私にはもうこれしか残っていないのです。私にできることはもうこれだけなのです…わかってください。あなたのことは忘れません…幸福に、暮らしてください」
そういって笑うことしか、本当に右近に残ったできることはなかった。
忠三郎の気持ちもわかる。だが、これは使命なのだ。教えに殉じて、見知らぬ土地に行くのだ。それはもはや、右近の魂を燃え上がるように揺さぶるものでしかない。
「それに少し気持ちが高ぶっているのです。救いの国に行けることはむしろ私にとって…」
「だとしたら、だとしたら…俺を連れて行ってください」
「え…」
突然の申し出に右近はさらに困惑する。忠三郎を連れて行くなんてそんなことできるはずがない。しかし忠三郎は大真面目に右近の手を握って、真っ直ぐに右近の瞳を見てそう言う。
「右近殿にとってそれが救いの道であるならば、俺にとってもそれは救いの道です」
「それは違います。それぞれが使命を持ち、それぞれが懸命に生きることが救いの道です。徒に私に合わせることが救いではありません」
きっぱりという。こういうことは曖昧にしてはいけないのだ。曖昧にたらそこかしこから綻びが出て、二人ともきっと駄目になってしまう。右近にとってそれだけは避けたかった。
「どうしても、だめですか…どうしても…俺と幸福にはなれないのですか」
「私は十分幸福でしたよ。蒲生殿…勘違いをなさらないでください。私はあなたを心の底から、大切に思っています」
その言葉にまた忠三郎が涙を流す。右近も、その瞼に少しだけ涙が、滲んだ。
忠三郎はひとしきり泣いた。濡れた頬に朝陽が差し込み輝いている。誰よりも尊ばれるべき顔だと思った。彼こそが、神に愛された人なのだ。
忠三郎は小さくこう言う。
「……最期にもう一つ、わがままを言ってもいいですか」
「私に叶えられることなら」
「口づけを、許してほしいです」
「…ええ」
そういって二人は最後の口づけを交わした。滲む空に薄雲がかかり、太陽の光を僅かに遮っていく。