Baby,SecondCry 2

朝。
ネロが東向きの窓から刺す光にその目蓋を開いたのは、不自然なほどに明るい部屋への違和感からだった。
「……眩しい……」
ベッドは確かに窓の脇にあるが、カーテンを開きっぱなしで寝るほどネロは開けっぴろげな性格ではない。
キリエが開けに来たのだろうか。だとしたら声の一つもかけないのはおかしい。そこまで考えて、ふと思い出した。どうしてこうなったのか。誰もいないはずの部屋がなぜ唐突に明るくなったのか。
「……V」
「ああ、起きたか」
ネロの横にはVが座っている。カーテンを全開にした犯人を怒る気にもなれずネロは上体を起こす。
不本意ながらネロはVと寝た。部屋がないわけではないし、むしろVのために倉庫がわりにしていた部屋を片付けたりもしていたのだが、Vは結果的にネロと同衾した。勘違いはされたくない。この朝を迎えるために起きた全ては、ネロを十分に疲れさせた。
「俺を一人にすると何をしでかすか分からんぞ」
深夜零時のVの言葉はもはや脅迫めいていた。渋々ネロはVと寝たのだ。本意なんかじゃない。多分。それに何もなかったのだ。驚くほどに何もなかった。あの口づけを思い出してネロは内心様々なことを覚悟した。もしものことがあったら……と思うだけで何故か心臓が早鐘を打つのだ。だが何もなかった。本当だ。いや、同衾したことは事実だし、これはもはや弁明にしかならないのだが、その通りなのだから仕方がない。
そしていっとき訪れたネロの安眠はこうしてあっさりと終わりを告げたのだ。時計を見る。六時前…いつもならまだ寝ている時間だ。Vを無視して二度寝するのも考えたが、目に入ってきた光のせいでそれも叶わなそうだ。
ベッドで並んで座るほど仲良くはないはずだ。そう思ってネロはベッドから椅子に移った。いや、あの一件でだいぶネロはVに心を開きかけていたはずなのだが、今が一番Vとの関係が形容し難い。何も触れないでいて欲しいのにVがそれを許さない。その細い体も、人を小馬鹿にしたような笑みも、しなやかな腕も、きっと手にしたかったはずだったのに、いざ目の前に現れるとそれ以上のものが面倒事という姿に変容してしまう。Vが昏睡状態だった昨日の朝まではまだよかったのだが……。
「朝だから起こした」
悪びれずVはそう言った。いや、間違ってはいない。正論だ。正論だが、Vが隣で寝ているがためにこちらとしてはなかなか寝付けなかったのだ。それを加味して欲しかったのだが、V本人はどこ吹く風だ。
「今日はどこかに行くのか」
「……なんも考えてねえ」
「眠そうだな」
「眠いんだよ」
「怒っているのか?」
「怒ってねえよ……朝食、それともコーヒーか?」
ぶっきらぼうに言葉を返すネロに、Vはゆっくり瞬きをした。ゆるく伸びた銀色の髪が朝日に照らされまばゆく光る。面倒事なんかがどうでもよくなりそうになる。この感覚が何なのかはネロにもよくわからない。
「コーヒーは欲しいな」
Vは笑って立ち上がる。ネロもため息をついてそれに倣った。一階にあるダイニングに降りるとキリエがキッチンに立っていた。相変わらず朝が早い。その後ろ姿にネロは何故か安堵した。いや、昨日の不穏なVとのやりとりを鵜呑みにしたわけではないのだが、それでもこの生活は保ちたい。自分で持ち帰った種と言われてしまえばそれまでだが……あれを放っておくことはネロにはできない。今更Vを手放したくないというのもある。その気持ちは多分自分の父親という立ち位置もあるのだろうか。あるということにしておこう。同衾したことについては事故だったと言い聞かせながら。
コーヒーに簡素なパンが並ぶ。葡萄のジャムはキリエの手作りだ。ほとんどジャムを舐めるためのようにジャムを小さく割いたパンにふた匙塗り付け口に運ぶ。ネロの普段の食事はいたってシンプルだ。それとコーヒーを啜って終わる。子どものころはゆっくり食べろと言われたものだが、大人になるにつれ食事に割り当てる時間が少なくなっている。それでも夕食の時間だけは大事にしているからましな方だとは思うが。
「そういえば、昼にフィンさんのところに行くはずじゃなかったかしら」
「……ゲッ……そうだった」
キリエの言葉にネロは思わず眉を顰めた。
そうだった。仕事が全くないわけではない。むしろ最近は便利屋として仕事が軌道に乗ってきたところだ。Vを家で世話できると思ったのはそう言った経済的余裕が出てきたことにもある。
「仕事か?」
「そうだよ……ええと、どうすっかなあ」
今日は昔なじみの商店の棚卸の手伝いをする打ち合わせがあるはずだった。時間には余裕があるし断ってもいいが、Vがネロと暮らす以上いつまでも伸ばすわけにもいかない。いずれは行かなければならない。それが今日なのか明日なのかの違いだ。頭を掻くネロにVは思ってもみないことを口にした。
「俺も着いていってもいいか」
「は? お前、昨日まで点滴つけてたんだぞ、大丈夫なのか」
左腕を指さす。Vの生白い腕には四角い絆創膏が貼られている。Vはネロの顔を見ると意味ありげにニヤリと笑った。昨日の夜のやりとりを思い出して少しだけ後悔する。そうだった。悠長に心配している場合ではない。
「俺をここに置いておいていいのか」
またこれだ。彼はその言葉を必殺技か何かと勘違いしているのではないだろうか。確かに今のVからは全く魔力を感じないが、何が起きるかなんてわからないのも事実だ。
それに魔力を感じないから安全なんてことはない。Vの正体を加味すれば十分に成人した男性だ。しかもまだ知り合って間もない。その正体がネロの実父のかけらだとしてもそれを否定する材料にするには弱すぎる。
家にはキリエとニコだけではない。子供たちもいる。危害が及ぶことがないとも言い切れない……かといって、四六時中見張るのもまた違う気がする。
まあ、仕方がないか。どのみちVはこの街を知らないはずだ。案内にはちょうどいい。
「……わかったわかった、着替えたら行くぞ」

Vは昨日マリエの店で買ったばかりのシャツに黒のスキニーパンツを穿き、おまけで譲ってもらった黒の薄手のコートを羽織って出てきた。
全身黒はどうかと思ったが本人がそれでいいというのだから放っておいた。そこまで口を出すほどではない。どちらかというと、ついでのつもりで買ったはずのハイカットスニーカーがネロの思っていた額の倍したことしか最早記憶にない。ツケの理由はこの靴だ。
キリエに見送られ、ネロとVは外に出る。太陽は素知らぬ顔で輝いている。二人の距離感を笑っているようで癪だ。
「歩いていくのか?」
「大した距離でもねえからな、ついでにトラスト爺さん……昨日の医者んとこ寄ってくぞ」
「ああ、わかった……そういえばあの女はどうした、あの眼鏡の……ニコとかいう」
「あー、あいつは昼まで寝てることが多いからな。もう放っておいてるんだ」
そう言いながら歩き出す。陽射しは厳しいが乾燥しているのでそこまで不快指数は高くない。整備されつつある街並みには花壇がいたるところに設置されている。五年前に起きたあの事件で命を落としてしまった人々への追悼のモニュメント代わりだ。
……あの事件以降、街並みは着々と復興している。一時は近隣の国に移っていった人々も、なんだかんだ戻ってきてはいる。それでもまだ完全ではない。完全にフォルトゥナが復興したと言える日になるのはいつなのだろうということは皆口々に心配しているのをネロは知っているし、ネロ自身もなんとなくそう思っている。だがフォルトゥナでこうしてゆっくり歩くのが初めてのVは何も知らない。花を眺める彼にその事実を伝える気には……ならなかった。
フィン……仕事先の話し合いは小一時間で終わった。これなら別に他の日にしてもよかったし、なんなら電話でもよかった気もしたが、こういうのは顔を合わせるだけでも大事なことだ。フィンや行き交う人々や商店の人々はVを奇異のまなざしで見つめていたが、ネロの友人で外国から来たと伝えるとどこか安心したようだった。
知らないから、不安になるのだ。余所者というだけでこの小さな街は動揺してしまう。いちいち理由が欲しいのだ。それが弱さだと糾弾することはネロにはできない。だがVは少し気になったようだ。
「俺が友人でいいのか?」
帰り道でVが悪戯めいて笑う。ネロだってそんな嘘をつきたくないが、他にどう弁明しろと言うのだ。これが父親だなんて言えるはずがない。
「うるせえな、ほら、その角曲がったところが昨日の診療所で……おい、V?」
「海が見えるな、昨日は気が付かなかった」
「少しは人の話を聞けよ」
診療所はささやかな丘の上にある住宅街の端にあり、建物の隙間から僅かだが確かに海が見渡せる。
道路の端に立つVがどこか危なっかしい。次の瞬間消えてしまいそうだ……なんて、柄にもない、何を考えているんだと頭を軽く振った。
「おや」
後ろからチリンと音がして、ドアが開いた。杖をついた老女を見送るトラストが、ネロとVに気が付くのは時間の問題だった。トラストはニコニコと笑って手を振ると、ネロたちのもとにやってきた。
「やあ、えらい早かったね、まあ上がりなさい、ちょうど今の奥さんで最後の患者だったんだ。お茶でも出そうじゃないか……」
そう言ってトラストは診療所に二人を誘うと、カウンターに乗り出し受付にいた看護師にもう閉めようねと声をかけた。
「相変わらず暇そうだな」
がらんとした待合室を通り抜ける。絵本や雑誌の入った棚はネロが子供のころからあまりラインナップが変わっていない気がする。ネロの辛辣な言葉に、へへ、とトラストは笑う。
「医者が暇なのはいいことだよ……この暑さだ、ハーブティーを冷やしてるからそれでいいかい」
「薬臭くなかったらなんでもいいよ……おい、じいさん、それ、薬入れてる冷蔵庫だろ、なんか……ヤなんだけど」
診察室に置いてある冷蔵庫から小さなピッチャーを取り出したトラストに、ネロはうえ、と舌を出す。トラストは意にも返さず、茶も薬だよと薄橙色の液体を三つのグラスに注いだ。Vが興味を持ったらしい。目を丸くしている。
「それは何が入っているんだ?」
「レモングラスとミントが入っているよ、ちょっとカモミールも混ぜたね……興味があるのかい?」
「まあ、あるにはあるな。ご老人が選んでいるのか?」
「トラストでいいよ。そうだね、一応僕は医者だけど、こういうのも取り入れて行く方の医者だから」
トラストは確かに様々な医術を持っている。オリエンタルな薬剤も取り入れていて、たまに薬売りが営業にきているのを見たことがある。そういえば裏で畑もやっていた。薬草や野菜を育てているのでたまにもらっている。
「このじいさんの前で風邪ひいたって言わねえほうがいいぞ、すげえ苦い薬飲まされるからな」
「アハハ、そんなことないよ。ちょっと苦いけど」
「苦いじゃねえか」
Vが目を丸くする。しかしその驚きは苦い薬というワードに反応したものではなかった。
「ネロも風邪をひくのか」
「どういう意味だよ……まあ、確かに大体嘘っぱちだったけどよ」
そうだった。確かに教団の稽古だなんだと忙しい日々に嫌気がさして、ネロは時折だが仮病を使っていた。
「誰も傷つけないなら嘘もたまにはいいんじゃない……さあ、どうぞ」
「……うん、うまいな、スーッとしてる。V、どうだ」
「ああ、初めて飲んだが良い味だ」
「それは何よりだよ」
そうして少しだけ他愛もない話をしていたが、ふとトラストがVを見てこう言った。
「Vくん、少しだけ腕を見せてもらっていいかな」
「……構わんが」
そう言ってVはトラストに腕を差し出す。手を取り少しばかり彼はVの腕を見ていたが、首をかしげるばかりだ。
「……ふむ、傷がずいぶん綺麗に治っているね? それに……なんだか血色もいいようだ……まあ、悪くなるよりはいいか」
「おい、じいさん、大丈夫なのかよ」
「この前も言ったろう? 悪魔がらみのことは僕から言えることは少ないんだよ、むしろ君の本分じゃない……僕だって、あの日まで本気じゃ信じてなかったんだから」
「……なんのことだ?」
「V……えーと」
隠し通すのは不可能とネロは判断し、そこから五年前の話をした。トラストのような移住者は悪魔を本心で信じてはいなかった。あの事件で、皆思い知ったのだ。ひどい有様だった。ダンテたちとの出会いの話も少しした。Vは目蓋を伏せる。
「そのことなら知っている……調べた。少しだが……」
トラストがティーカップを置く。正午を告げる鐘が鳴り、日光が診察室に侵入しキラキラと輝いている。これだけ見れば、幸せな光景だ。だが、あの事件で少なからずこの診療所も被害を受けた。
「あれから色々あったねえ」
そう言う老いた背中が、小さく丸まる。トラストの妻は、あの事件で悪魔に殺された。トラストと同じく医師業を営む娘もまた、大怪我をした。外国の医師団として活躍する彼女がフォルトゥナに帰ってきたと言う話をネロは聞いたことがない。
帰ってくるのが怖いのだろうとトラストは呟いた。街並みは戻っても人の心の傷はそう簡単に癒えるものではない。わかっていることだが、やるせない。
「僕はね、元気のない人に無理矢理元気にしろなんて言うつもりはないの。ガソリンのない車に動けって言っても無駄でしょ。でも君は不思議なんだ、ガソリンがないのに動いてるから」
帰り際にトラストはそう言った。まるでVの体に残存するはずの魔力でも見えているかのような言葉だった。

「お前…その、魔力ってのは大丈夫なのかよ」
夜。
当たり前のような顔をしてネロの寝室に這入ってきたVに、ネロはついにその質問を投げかけた。
今のVから魔力めいたものは感じないかもしれないが、その体には魔力が流れているはずだ。トラストも首をかしげる通り、その回復力にも魔力を消費している……はずだ。
「……そうだな、少し足りないかもしれない」
聞かなきゃよかったとネロは素直に思った。訊いたのはネロだから非はネロにある。これは揺るがないのだが、それでももう少しこう、何かないものだろうか。
Vはそんなネロを一瞥すると、楽しそうにこう言う。
「それに……お前に抱かれるのも悪くなさそうだ」
「おい、V」
「……半分は冗談だ」
「もう半分は冗談じゃねえのかよ」
頭を抱えたくなる。男に言い寄られる女の気持ちが何となくわかった気がする。なんだか逆な気もするし、こんな形で知りたくはなかったが。そういえばここまでダイレクトではなかったが、グロリア……ダンテの仲間で本当はトリッシュという……と会った時もこんな思いをした気がする。
「それに、何故かは知らんが別に命の危機を感じるほど魔力が足りないと言うわけではないらしい」
そう言ってVはその生っ白い腕を見やった。そこにあるのは若々しく瑞々しい男の腕だ。あの時のような、消えてしまいそうな雰囲気は確かにない。ただ、妙に艶かしい。
ただ腕を見ているだけなのに。なんだかその先…服に隠れて見えないその先を考えてしまう。
「はあ……」
ネロの反応をVは肯定ととってしまったのだろうか、ネロに近寄ってくる。すっかり忘れていたがきちんと立てばネロよりVの方が上背がある。
見下ろされるのはなんだか不快だ。不快なのはそれだけが理由ではないが。
「理由がないとセックスはしてはいけないのか?」
そう言ってネロの手を取りその甲に唇を寄せるVの艶かしい唇が、ネロの心を嵐のようにざわつかせる。もうわけがわからない。こういうことを織り込み済みでVと暮らすことを提案したかと言われるとそうではない。
あのキスは仕方なくしたのだ。互いにそういう気持ちはなかったはずなのだ。グリフォンとVの行為を見た時だって、おぞましいものを見たという感想しかないはずだったのだ。そうに違いないはずなのに、Vの唇が、いやに赤いそれがネロをかき乱してやまない。
「そういう話はいましてねえだろ」
「俺はお前とシたい」
「……本気で言ってるわけ?」
Vの手を掴み返してネロは挑発するように笑ってみせる。余裕からそういう行動に出たわけでは決してない。むしろ余裕がないことを悟られたくないがための必死の行動だった。だがVはそれを見透かしているのか嬉しそうにネロの体に抱きつく。
「もちろん、お前になら何をされてもいいと言ったはずだ」
「あー……言ってたな、そういえば」
抵抗しないことを同意とみなしたのだろう。ネロのシャツを引っ張り脱がそうとする。やはりこいつには魔力が足りてないんじゃないかと思う。
「待てって、なんだお前……」
「怖いんだ」
「はあ?」
「夢を見ることが恐ろしい、俺はそれを手放したはずなのに、悪夢しか見ない……そんなときに隣にネロがいると思うと、安心する」
突然の弱音にネロは驚いて思わずVを見てしまった。瞬間の隙を与えてしまった。Vはネロの唇を自らの赤い赤いそれで塞いだ。
……結論から言うと、魔力を吸われることはなかった。以前は水が高いところから低いところへ流れるようにネロからVへと魔力が注ぎ込まれていったが、いまはまるで最初から魔力なんてないかのようにVの温もりだけが伝わった。体温があることに今更驚いてしまいそうだ。一応人間なのだから、そんなことに驚かなくてもいいのだが。
「……お前なあ!」
不意をつかれたことにネロは怒って見せたが、Vはそんな顔を見てくつくつと笑う。本当に調子が狂う。それが嫌だ。すべてVの思い通りになるようでとても癪だ。
ああ、もうどうにでもなれ。男を抱いたことなんてないし今後もそんなことないことを願うが、今回は特別だ。此処までされて引き下がるなんてできなかった。ネロの男としての……プライドなんて大きく出るつもりはないが、それに近い何かがVの白い肌を獣の目で睨む。そんなネロの思惑を知らないVは相変わらずネロを見て笑っている。
「別に初めてでもないろう? なにを怒っている?」
「うるせえよ……来い、V……望み通り抱いてやる」
そう言って腰を抱くと今度はVが驚いたようだ。
「ネロ?」
「……なんだ? やっぱり嫌だとか言うなよ。誘ったのはお前なんだからな?」
「嫌なわけがないだろう?」
ベッドが二人の男の体重で軋む。互いに服を脱がせあい、ネロはVの首筋に唇を落とした。ああ、この匂いだ……闇夜に密やかに咲くような、いたいけな花の香り……。
なんだかくらくらして、すべてを呑まれてしまいそうになる感覚だ。たまらず噛みつく。
「……痛い」
 悲鳴をあげVがネロの体にお返しとばかりに爪を立てる。ああ、甘い……痛みさえ、何故か甘い。それが間違っていることもわかっている。世界のすべてから顰蹙を買うことも、わかっている。
 これは愛ではない……多分。これは気の迷いだ。何かの手違いだ。そう言い聞かせる。ああ、何か理由が欲しい。Vを抱く理由が。そう思うネロにとって、Vの理由のない求愛は恐ろしくてたまらないのだ。
「ネロ……愛してる」
 Vはそう囁いて、ネロの体を抱きしめる。望んだはずの結末だった気がするのに、どこか怖ろしささえ感じてしまうのはなぜだろうか。Vの言葉にネロは言葉を返すことはできなかった。

 ……Vと体の関係を持ってしまった。
眠るVの隣で、ネロはベッドに腰かけその寝顔を眺めていた。あんなに逡巡して、挙句の果てに勢い任せで抱いてしまったくせに、何故か後悔だけはしていなかった。後悔するものだとばかり思っていたのに。
いろいろと考えることはあるはずだった。本来ネロはこんな軽率に関係をもつような性格ではない。真面目と言われるとそれはそれで違うと言いたくなる。真面目ではない。これは当然のことだ。だがどうした。Vを抱いて、ネロは言いようのない安心感を得てしまった。母親に抱かれたことはないが、きっとそれに近い感覚にネロは困惑した。確かに大きなくくりで見れば、Vはネロの親で間違いない。だがこれは、ネロが想像していた関係とは一八〇度違っていた。
「……」
 ネロは何も語らないVのしなやかな髪の毛を……撫でることはできなかった。抱いたくせに、Vの体をすみずみまで知ったくせに、何故かそれだけができなかった。
 窓に視線を移す。東の空が少し明るい。いずれ終わる夜の余韻を、太陽があざ笑っている。二日目の夜はこうして終わったのだった。

その華奢な見た目通り、Vは小食な上に偏食だった。Vが目覚めてから一週間、ネロは色々なものを彼に食べさせた。その結果、Vはどうやら一ドルにも満たない安いミートパイが気に入ったようだ。それ以外はあまり口にしないか、食べてもすぐに席を立ってしまう。ネロが勧めても微笑んで、むしろお前が食べろと言う始末だ。変なところで父親面しているのかと最初は訝ったが、そういうことではないらしい。
近所のパン屋に連れて行くと、必ずミートパイの前で立ち止まる。あまりにもミートパイばかり食べるので、慣れないけれど作ってみようかしらとキリエが笑っていた。
そういえばダンテもなかなかの偏食ぶりだという。その兄の半身なのだから、あまり驚くことではないのだろうか。指についたパイの欠片を舐めるその姿に、汚いとか行儀が悪いとか怒る気にもならない。
そして食べている最中だというのにVはおもむろに席を立つと、すたすたとキッチンに歩いていく。
「落ち着いて食えねえのかお前は」
「……」
ネロの制止に聞く耳すら持たず、Vはインスタントコーヒーを開けると、匙でザクザクとカップに焦げ茶の粉を入れ、ポットの湯を入れた。しかし粉の量が明らかに多い。通常の倍は入れているのではないだろうか。
「おいおい、入れすぎだぞ」
見かねて声をかける。どういう生活をしていたかは知らないが、もしかしたらインスタントコーヒーなんて見たことないのかもしれない。
「これでいい」
Vは振り返ると再びテーブルに戻り、コーヒーを啜り始めた。エスプレッソでもそこまで濃くないだろうそれを平然と口にするVの味覚が心配になる。
「うまいか、それ」
「……ああ」
「ふうん」
きちんと座るVを眺めて、ネロは腕組みする。銀糸のような髪の毛と、陶器のような生っ白い肌。一週間経ってはみたが、そしてその体を抱いてはみたが……考えていることがよくわからない……。
Vはあれから二度ほどネロに関係を迫ってきた。ネロが関係を迫って抱くのならばまだしも……それだけは絶対にありえないのだが……何故ネロが迫られているのか、問われたとしたらむしろネロが問いたいくらいだ。
「今日はなにか予定があるのか」
 Vが問う。今日は特に何も用がない。そう告げると、そうかとだけ返した。
なんだろう。こういう関係になりたかったのだろうか……息子と父親という関係に、少しだけ憧れがあったことについてあえて否定はしない。Vは間違いなくバージルの構成要素だ。だからこの生活も……父親との生活と言って間違いは多分ないのだ。言いたいことはたくさんあった。聞きたいことも。でも今何故かそれを口に出すことだけはできなかった。
遠くからピアノの音と、キリエと子供たちの歌声が聞こえる。ネロが仕事の報酬という名目でていよく押し付けられた古いピアノだったが、今となればこのなんとも言えない雰囲気を少しだけ軽くしてくれている気がする。
ふと気が付くと、Vがその音色に合わせて鼻歌を歌っていた。
「……この歌、知っているのか」
「子供のころに母さんに教わった」
 そういうVの言葉に、ネロは……会ったことも、もう会うこともない祖母の横顔を夢想した。V……いや、バージルと、人間である母親。きっと弟のダンテと、幸せな日々を送ったのだろう。
「そうか……」
「聞かないのか?」
 そう言ってVはコーヒーカップをテーブルに置き、ネロに向き合った。翠の目がこちらを見ている。
「……何を」
「お前の母親のこと、俺の母親のこと、ダンテとのこと……いつか聞かれると思って待っていたんだがな。興味はもうないか?」
「興味ないわけねえだろ……当たり前のことだ」
 少しむっとしてVを睨む。聞きたいのに、なんとなく聞けないのはネロにも一端の責任はあるかもしれないが、そう言われるのは心外だ。察してほしいとまでは言わないが、それでも複雑な心境なことくらいわかってほしい。
「もう少し待ってほしいということか?」
「わかんねえよ」
「ひとつだけ言っておこう……キリエと母さんはよく似ている。怒ったら怖いところがそっくりだ」
「……おい、お前それどういうことだ」
「昨日戸棚のパンを食ったら怒られた。すごい女だ」
 悪びれることもなくあっけらかんとそう言うVに、ネロは脱力した。どうして今それを言うのだ。場を和ませようとして冗談を言っているのだとしたら大失敗だと声を大にして言ってやりたいが、そういうことではないような顔をして大真面目に言うので、ネロはなんとなくすべて馬鹿馬鹿しくなってきた。
「……あとでパン買いに行くぞ」
「ミートパイが食いたい」
「うるせえ馬鹿」

 こういう感じで、Vという少しの異端が、少しずつ溶け合って平穏という色になっていった。なんとなくネロはそれが当然続くものだと思っていたし、少なくともしばらくはなんの心配もなく過ごした。Vは相変わらず……ネロのベッドで寝ているし、互いの気が向いたときに徒にセックスをした。歪だが、何故かそれが日常になっていった。

闇夜の中にVの影だけが浮かぶ。目線は動かせず、ただその影がゆっくりと遠くに……もっと遠くに行く様を見守るしかない。
「V!」
何度も叫んだ……と思う。言葉が声として色づくことはなかった。手を伸ばすが、触れそうで触れられない。その痩躯を絡めとることはできなかった。
あ、と気が付くと、Vは闇に呑まれてしまう。かつて、キリエが攫われた時のことを思い出して胸が張り裂けそうだ。また守れなかった。守れると思っていたのに、それは傲慢だった。
あざ笑うように深い闇は黒く色づき……そして、何も告げずに消えていった……。

朝だ。
またこの夢を見た。Vと暮らすようになり一か月がたつが、ネロは時折この夢を見た。Vがいなくなる夢だ。いなくなるなんて可愛いものではない。消えていった。あの時のように。なにも告げず、なにも語ることなく。
瞬きをして、傍を見る。この夢を見るたびに、ネロは隣でVが寝ていることが幸いだと思っていた。
……Vが、いない。
飛び起きる。すでに時計は八時を指していた。驚くと同時に少しだけ安堵する。なんだ、寝過ごしただけだ。自分にそう言い聞かせると、いつものふりをしてリビングに降りる。
「Vさん? 散歩に行くって言って出かけたわよ」
 キリエの言葉に不安がまた襲ってきた。意味なく散歩なんて柄でもない。多分そうだろう。知らないけれど。そう思っていると、キリエは何となく察したのかコーヒーを出しながらこう言った。
「図書館か本屋さんの場所を教えてくれともいわれたの。何か探したいものがあったのかもしれないわ」
 椅子に座るのもなんとなく落ち着かず、立ったままコーヒーを啜る。此処から一番近い本を扱っているところ……あるにはあるが……あそこだと嫌だなと思いながら、ネロはカップをテーブルに置いた。
「出かけてくる」

街のメインストリートから路地へ抜け、坂道を登ったところにひっそりと佇む鄙びた古本屋は独特の匂いがしてネロは昔から苦手だった。あれはきっと黴の匂いではないだろうかと今もなんとなく思っている。
黴の匂いを知らないわけではないし、きっと黴ではないとわかっているのに、なんとなく嫌なものの匂いとしてネロの記憶が消えないのだ。
「V、こんなところにいたのか」
愛想のない店主は奥の間にいるのか姿が見えない。もともと外国で稼いだ主人が道楽でやっていると噂の古本屋だ。放っておかれるのは都合がいいが、いかんせん環境が悪い。なんとなく苦手なところにVがいるのが嫌で、ネロはその腕に手を伸ばした。
「居ては悪いのか?」
Vのなんの気はない言葉にネロは言葉を必死に探した。もちろんその腕をつかむこともままならない。
「いや、そんなことねえけどさ……なんかいいもんあったか?」
「探しているところだ」
そう言ってVは再び本棚を見上げる。本棚には所狭しと本が並んでいるが、普段こういった本を読まないネロにもわかるくらい雑然としていた。フォルトゥナの歴史を語る旧い資料があるかと思えば、隣には献立の本があったりする。めちゃくちゃだ。こんなところ面白いなんて一度も思ったことがなかった。
苦手なところだがVを放って帰る気にもならず、ネロはVに倣って本棚を見上げてそう思っていた。見上げるVの首筋が艶かしい。その体を抱いたはずなのに、その白さはまだなにもネロに教えてはくれない。
「……探し甲斐がありそうだな」
「ああ」
棚の中からVが青い背表紙の本を手に取る。掠れていて表紙からはその文字が何を示しているかは伺い知れない。
中身も焼けてしまっているのではないかと思うが、存外中身は白く綺麗だった。どうやら詩集のようだ。
「そして私は人間のかたちをして……幸せについて語りさえした……」
Vはなにげなくその文章を読んだのだろうか、意図していたかはわからない。言葉は色づき、歌のように羽ばたく。Vにとって幸せとはなんであろう。
「なあ、V……」
Vの隣にいることが本当は、嬉しいはずなのに、どうしても居心地の悪さが勝ってしまう。
「お前がいなくても俺は一人で帰れる……俺がいなくてもお前は一人で帰れるだろう?」
「……ガキ扱いするなよ」
「ネロは俺の息子だろう? 間違いだったか?」
「おい、V」
 夢を見たから、一緒に帰ってほしいなんて口が裂けても言えないが、だからと言ってVを置いて帰ることもできない。Vの挑発めいた言葉も頭にはくるのだが、まともにかえしても意味なんてないことはネロが一番よくわかっている。
「そこにネロはいるか」
 背の低い、よく太った男がのっそりと本棚の間から顔を出す。ここの店主だ。彼は痘痕だらけの顔を一度だけVに向けたが、興味なさげに一瞥しネロに視線を向けた。
「なんだよ」
「キリエから電話が来た。客だとよ」
 それだけ言って店主は億劫そうに奥の間に戻っていった。本当に愛想のない男だ……いや、今はそんなことどうでもいい。来客というのならば帰らなければならない。仕方がないがVはここに置いていこうとそう思って顔を上げると、すでにVは本を棚にしまい店を出ていた。
「おい、V」
「早く帰るぞ、仕事だ」
「そうだよ、俺のな」
俺の、と強調した。Vはすたすたと歩きだしてしまう。ため息をつくと、ネロはその痩躯を追って歩き出した。

「頼みたいことがあるのよ」
大荷物を抱えたマリエが笑いながらそう言う。
折しもすっかり夏の青空だ。来客は白と金色のサマーワンピースにサングラスをかけた相変わらず派手なスタイルのマリエだった。
彼女が箱と大きな袋を車の荷台から何箱も何袋も出してくるので、家と車を何度も往復した。マリエもネロも少し汗をかいたが、Vは涼しい顔でソファに座っている。
マリエは定期的に孤児院の子供たちのために古着を持ってくる。無償でいいといつも言われるのだが、古い付き合いとはいえ、流石に何もしないわけにはいかない。キリエがネロとV、マリエと自分の分のアイスコーヒーを運んできた。黒い液体に浮かぶ氷が心地よい音を奏でる。
そして冒頭のマリエの言葉に戻るのだ。
「それがね、できることならVちゃんにお願いしたいの」
「ジョセフィーヌの店番か?」
「ううん、それがね……まあ店番、っていうのはあってるわね」
マリエが指先でコップの水滴を絡める。爪はやはり派手なネイルアートがされているが、下品ではないから不思議だ。
「ジョセフィーヌじゃない店番っていうと、ラルフのところか?」
「……何の話だ?」
Vはアイスコーヒーを早々に飲み干すと、そう言って眉間に皺を刻んだ。自分の知らない話が進んでいくのは確かに不気味だろう。その気持ちはわかる。マリエはVの方へ向き直った。
「Vちゃんは知らないわね……アタシの兄がね、街の外れの方で花屋をやっているのよ。見たことあるかもしれないわ、向こうの通りにアンブリッジっていう名前の看板があるでしょ」
「ああ、見たことがある」
 Vが頷く。ネロはマリエにこう問いかけた。
「ラルフに何かあったのか?」
「大したことじゃあないんだけれどね、この前バイクで転んじゃったのよ、本人はいたって元気なんだけれど……心配でね……Vちゃんには店番というか、兄さんの手伝いをお願いしたいの」
「おいおい、大丈夫かあのおっさん……で、Vに頼みたいってのはどういうことだ?」
 俺でもいいだろ、とネロは付け加える。本来便利屋はネロとニコが担っているのだから、いくらマリエの頼みとはいえやすやすとVを貸すわけにはいかない。というか、Vを便利屋の頭数に入れていなかった。マリエはネロを見てため息をついた。
「ネロちゃんが兄さんのところに行ったら店番にならないじゃない」
「そんなことねえよ」
「どうだか、あんた前にアンブリッジに行ったときずっと無駄話してたんでしょ? アタシ知ってるんだから。兄さんは煙草がダメだからニコちゃんが耐えられないだろうし……どうかしら? Vちゃんが嫌なら他をあたるわ」
「いつからだ?」
「早ければ早い方がいいわね、なんなら明日からでもって感じよ」
「わかった」
 あまりにも一つ返事で快諾するので、ネロはおいおいとVを見る。軽率だ。こちらに相談もしないなんて。
「大丈夫なのか」
「別に、嫌じゃない……俺もお前の役に立ちたいからな」
 それを聞いたマリエがVの手をとり飛び跳ねかねない勢いでこう感嘆する。
「本当にVちゃんってステキな子! じゃあ、兄さんに連絡しておくわね、お礼はちゃんとするから心配しないで」
「わかった」
 Vがそう言うので、ネロも頷かざるをえなかった。その日のうちに再び電話があり、さっそく翌日、Vはアンブリッジに行くことになった。

続き

2024年11月14日