Baby,SecondCry

Second Cry…2度目の産声。
転じて自我の目覚めを指す。
自立するための叫び、
個人の確立を意味する造語。

或いは、
THE YELLOW MONKEY
「jaguar hard pain」収録の楽曲

レッドグレイブ市には当てがないし、ダンテの事務所がある街の闇医者のところに匿うという手もあるにはあったが、とりあえずはこれでよかったのだとネロは古びた病室の中で思っていた。
「ネロくんの頼みだからきっと大変な患者だとは思っていたけれど、まさかこんなに大変だとは思わなかったよ」
フォルトゥナのとある診療所の地下室。キリエやネロが幼い頃から世話になっている老医師はネロの隣でそう話す。ネロが子供の頃は大きく見えたその背中は今となれば小さく、豊かだった黒髪も今はその年齢を物語るように総白髪だ。ただ細い目とは裏腹な太めの眉毛は、彼の仕事への熱意と意思を雄弁に語っている。
「ひとまず回復はしたんだが……どうして目覚めないかがわからないんだ。いまはこうやって寝かせておくしかできないね」
老医師は立ち上がってVの手首に刺さっている点滴を見る。眠っている以上水分が取れないので、せめて体が干からびないようにこうするしかできないという。点滴の様子を見て、ちゃんと落ちてるねとつぶやいた。ネロにも確認させるように。
「……誰にも言っていないよな?」
ネロが老医師をじろりと見る。フォルトゥナはそこまで大きな街ではないから、人の噂などはあっという間に広がってしまう。老医師はネロの疑いの目をものともせず飄々とこう返す。
「もちろんだよ。医者ってのは腕もそうだけど、口が堅くなきゃ仕事にならないからね……」
信用に関わるんだよと話すその老いた目尻を見る。物怖じせず人は好いがお喋りな彼を疎ましく思っていた時期もあったが、それだけ恩もあるのでもうなにも言わない。
大きな病院もあるにはあるが、困ったときは大抵彼のところで診てもらっていた。元々フォルトゥナの生まれの人間ではないこの医師は、若い頃諸国を放浪していたということで、よく話を聞いたものだった。
雪に閉ざされた街、紛争地、離島、大都会から田舎まで様々な話を診察がてら聞いた。今となってはどこまで真実かは知らないが、とにかく余所者だった彼の語り口はネロにとってどこか安らげるものだった。今のところ口に出して言うつもりはないが、それなりに感謝している。
じゃあ僕は午後の外来があるから、と老医師は席を外した。時計を見ると外来まで時間があるようだが、彼なりに気を遣ったのだろうか。その丸まった背中がドアを閉めるのを確認して、ネロはまた溜息をついてベッドを眺めた。
簡素なベッドにはVがその癪にさわるほど細い体を横たえている。胸がわずかに上下しているのに気がつかなければ、その肌の白さから死体だと思われても仕方ないだろう。
いや、もはや実際死体に近いのかもしれない。老医師はああ言ったが、どこまで回復しているかは頑なに言わない。
「V……」
そう呼んでも、銀髪に隠されたその瞼はぴくりとも動かない。ベッドに寄って、Vの腕を取る。身体中にあったはずのタトゥーがなくなっている。あるのは生白い肌だけだ。墨染のような黒髪も、今はネロと同じ…本来の銀色をしている。
ここにいたはずの魔獣たちはもういない。
「V」
もう一度名を呼ぶ。その名が本当の名前ではないことは知っている。本当の名前もネロは知っている。でもその名前を口にすることは、なぜか今はできなかった。
ネロが見たことを総合すると、彼とユリゼンはそれぞれダンテの兄であるバージルの半身であった。間違いなくバージルは存在した。
つまりバージルが存在する限り……Vは存在してはいけないものの筈だ。バージルとダンテが魔界に行ってもはや数ヶ月が経過する。戻ってくるつもりでいるのだろうが、其の一報はなかなか届かない。
バージルの身になにかがあったというのか。ともすると、行動を共にするダンテは無事なのだろうか…本当ならばすぐにでもレッドグレイブ市に再度赴きたかったが、Vを残す訳にもいかなかった。
それよりも、だ。
「俺の親父なのかよ……」
顔立ちだとか肌理の整った肌だとかで判断するのならばネロと大して年が変わらない……ような気がしたが、実際彼がバージルの構成要素であるのなら、間違いなくこの男は父であるバージルの一部である。
「参ったな……キリエになんて話そうか」
キリエにはVのことをただの依頼人だとしか伝えていない。右腕を取り戻したことはもう見るからに明らかだったから全てを話すことにはなったが、そもそもその右腕を奪った張本人がこいつですと言うわけにもいかず、もっと言うとこいつが俺の父親だよとも言えなかった。
「怒りそうだな……」
ネロのことを大事に想ってくれる彼女は、戦うことこそできないが強い正義感と倫理観の持ち主だ。そうでなかったら、孤児院の仕事なんてとてもできないだろう。親を喪った子どもたちの世話なんて綺麗事では飾れない。傷ついた彼ら彼女らを癒すその手に、ネロ自身どれだけ救われたか知らない。
だからきっとキリエは最後にはVにしろバージルにしろ、許すだろう。だがそこに至るまでが問題だ。そもそもネロ自身わかってないことだらけだし、納得していないことだらけなのだ。それを、ただ恋人だからわかってくれなんて烏滸がましいことはとても言えない。

バージルがネロに放った詩集から突然魔力が溢れたのはフォルトゥナに到着する直前の出来事だった。それが気がついたら……本当に目を離した一瞬、詩集は光を放ち次の瞬間見慣れた男の姿が現れたのだ。
さらりとした銀髪とタトゥーの消えた肌を晒し、Vは一瞬ネロを見て笑ったような気がしたが、そのまま倒れて以来目覚めない。
「お前の話じゃ消えちまったんじゃねえのかよ」
車を走らせながらニコが煙草の煙をネロに吹きかけるようにしてそう言う。
「やめろ、そういうことするの……消えたと、思ったんだけど……いや、俺にもわかんねえ」
ソファに横たえさせたVを振り返りつつネロは溜息をつく。一度フォルトゥナ以外の場所に停めようとニコは提案したが、慣れない土地でこれ以上わけのわからない状態でいるのも嫌だと思って首を縦に振ることはなかった。
ニコはVが現れてから明らかに機嫌が悪くなったようだ。もともとチェーンスモーカーではあるが、煙草の赤い空箱がいつにもない勢いで増えていく。
「ダンテは大丈夫なんだろうな?」
「俺に訊くな」
「なんなんだよ、終わってねえってか?」
「だから俺に訊くなって。俺だって知りてえことだらけなんだよ」
ネロが何を言ったところでニコの疑問は消えない。矢継ぎ早に疑問符をぶつけてくる。ついでに煙草の空き箱も放ってきた。赤と白の派手な箱をぐしゃりと潰して捨てるのを横目に、ニコは再び口を開く。
「そもそもフォルトゥナに連れ帰ってどうすんだよ、キリエにはなんて説明するんだ? お前のオヤジなんだろ?」
「……しばらく家には入れない」
「はあ? どうすんだよ、その辺寝かしておくのか?」
ネロを見て、死んじまうぞ、とニコは叫んだ。もう安全運転には期待していないから、せめて前を見て運転してほしい。だが確かにその通りだ。今は生きているかもしれないがこのまま放っておくわけにもいかない。
「爺さんのところに連れて行く」
「爺さん……って、トラストの診療所か?」
「ああ」
あの老医師なら大丈夫だろうとネロは踏んでいた。フォルトゥナの総合病院に連れて行ったら大騒ぎになりかねない。個人の診療所のため設備には不安が残るものの、そのあとのことを考えたら、とりあえずは老医師……トラストの診療所に連れて行った方が良策だと思った。
「ふうん、まあこの有様じゃ家に置いといても仕方ねえもんな」
ニコはそういうと煙草を灰皿にし押し付けると、再び煙草に火を灯す。紫煙が車内に立ち込め、思わずネロは眉間に皺を寄せた。

Vが意識を取り戻したとトラストから連絡があったのは一行がフォルトゥナに戻ってしばらく経った朝のことだった。ネロが勢いよく診療所の扉を開けると、すでにVは何事もなかったように待合室のソファに座っていた。
まさかそこにいるとは思わなかったので、ネロは言葉に窮す。しまった、この再会に対してなんて言えばいいだろうか。
「……ネロ」
「おはよう眠り姫、目覚めの気分は?」
なんとかそう言って笑ってみせるが、そんな軽い皮肉に応戦できるほどVは余裕があるようではなかった。正直言ってネロにもそんな余裕はないが……Vは立ち上がってネロの元に歩み寄ると、その手を掴んで首をかしげる。
「ここはどこだ……? 俺はどうしてここにいる……? それにネロ、その腕はどうしたんだ……?」
「オーケーオーケー、訊きたいことは俺だって山ほどあるぜ。でもいまは先に爺さんから話を聞きたいから後でな、おい爺さん、いるんだろ」
「そんなに大声張らなくとも聞こえとるよ」
「どうだかな」
カウンターからひょっこりとトラストが顔を出す。まだ看護師が来てないんだよねぇと呟くと、カルテと思われる紙の束を手にカウンターから待合室にやってきた。
「呼吸数も脈も正常、呼吸音も綺麗だね。若干貧血かもしれないが……他のことは詳しく検査しないとわからんな。若干記憶の混濁があるみたいだが……ネロ君のことだからまた悪魔絡みの仕事だろう? それなら僕から言えることは少ないよ」
この老医師の信用に足る要素は、わからないことはわからないと言い切るところだ。その老医師の見立てに不満はなかった。
「それだけわかれば十分だ……V、外でニコを待たせてる。一緒に来てくれないか」
「どこへ」
「俺の家だ」
「お前の? ……ここは……フォルトゥナか」
「ああそうだ。情報を共有したい」
トラストが口を開く。
「くれぐれも無茶はさせないでおくれよ、なにせさっき意識を取り戻したばかりさ。なにかあったらすぐ電話すること、わかったね?」
「わかったわかった、ほらV、行くぞ」
「ああ……ご老人、感謝する」
「いやいや、僕も医者の端くれだから当然のことをしたまでよ……ネロ君、キリエちゃんによろしくな」
「わかったって……金はあとで払いに行くから」
「いいさ、どうせ今度君のところに往診に行くつもりだったから……そのときに茶でも出してくれればそれでいいよ」
「俺相手にやせ我慢すんなよな」
そう言ってネロはVを押すようにして外に出て、すぐに車に乗せて出発した。

「これはどういうことなんだ」
車内でVは自分の腕を見てそう呟いた。生白い腕には何もない。そこにタトゥーがあったという事実すら認めないという具合だ。車内には朝日が差し込み、Vの白さも相まっていっそ儚げにすら映るが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「お前もわかんねえのかよ!」
朝っぱらからネロに叩き起こされて不機嫌極まりないニコがなんなんだよ! とハンドルを叩く。
「怒るなニコ……ええと、V……」
ネロは助手席からソファに移動すると、Vの横に座る。Vはそんなネロに目もくれず、自分の肌や髪の毛を触ったり見たりしている。
「……なんだ」
「どこまで覚えている?」
「……どこまで……?」
Vが顔だけをネロに向け、訝るような視線を投げてよこす。
「お前、ユリゼン……とは言わねえのか、あいつと同化しただろ、そんで出てきたのがバージルで……」
「……ああ、そうだったな」
「そうだったなって……お前、最初からそれが目的だったんだろ?」
「そうだ」
あまりにもきっぱりと言うので、お前なぁと言いたい言葉は山ほどあったのだが、今はそんなことをしている場合ではない。はあ、と大袈裟に溜息をつくと、ソファに凭れる。
「……まあいいさ、過ぎたことはどうでもいい……で、アイツは俺を置いてダンテと魔界に行ったんだ、それでいいな?」
「……ああ」
「魔界でバージルの身に何かあったのか?」
「いや……ないと思うが……」
そう言ってVは首を傾げる。ゆるく伸びた銀髪の下に隠された首筋が少しだけ露わになるのが男ながらに艶かしい。ネロの視線に気がついているのかいないのか、Vはすっと姿勢を正すと、ネロの方を向いた。
「今度は俺が訊く番だ」
「……俺たちだってなんも知らねえけどな」
「奴らはどこに行った」
Vは自分の腕をネロの前に突き出す。陽の光に照らされて輝く真珠色の肌に、一瞬なにかむずむずする気持ちがしたが、なにを考えてるんだと頭を振る。それを否定と捉えたのだろう、そうかとVは手を引っ込めた。照れ隠しというわけではないが、ネロはVの細すぎる体を見る。
「そういえば、体の方は大丈夫なのかよ」
「……普通はそこから心配しないか?」
「うるせえ、いま気がついたんだからいいだろ。お前死にかかってたじゃねえか」
実際死んでたみたいに寝てたしな、とつけ添える。
「まあ…悪くはないな……むしろなんだか体が軽いようだ。そういえばさっき俺のことを眠り姫だとか言ったが、いまはいつなんだ」
「ちょうどあのクソから……アー、二ヶ月経ったってところだな」
「二ヶ月?」
そう言うVの目は動揺しているようだった。そんなVの顔を見てネロはおいおい、マジかよと頭を掻く。
「やっと自分がお姫様呼ばわりされた意味がわかったのか」
「……レッドグレイブに行く」
「おい、V」
「俺は存在してはいけない。俺がいると言うことは、『俺の身に』何かあったと言うことだ」
「やめておけ、V」
「俺はVじゃない……もうわかっているだろう?ネロ。全部教えたはずだ」
「教わってねえよ! なにもかもわかんねえままだったよ、あんたの正体も、あんたが俺のなんなのかも!」
それを聞いてVは不敵な笑みを見せ、さも面白い話を聞いたと言うような顔をした。
「……ネロの……ふふ、そういえばそうだったな」
「お前!」
掴みかかろうとするネロに対して今度はニコが声を上げる番だった。
「おいネロ、怒るな」
「……チッ」
舌打ちをしてVの薄い胸を軽く叩く。口角を上げる笑い方が心底癪に触る。Vはどこ吹く風といった具合で、ネロの顔にその顔を近づける。視線がもろにぶつかった。
Vは笑ったままだが、その闇夜のような目だけが笑わずネロを射抜くように見ている。
「ネロ、俺の本はどこにやった?」
「は?」
「まさか捨ててないだろうな」
そう言うと車内に視線を投げる。本は…Vが見つけられるはずがない。ネロは捨ててねえよ、とVの襟を掴む。
「本が、お前になったんだよ」
「……すまないネロ、俺にもわかる言葉で説明してくれ」
襟を掴むネロの手に細長い指を乗せ、Vは眉間に皺を寄せた。そして子どもを諭すような口ぶりでそう言う。気に食わない。実際子と親の関係なのだからなんらおかしくないのだが……。
「嫌味なこと言うな、そのままの意味だよ。本から……ありゃなんだったんだ?」
そう言ってニコの方を見ると、ニコは我関せずと煙草の煙をプカプカさせながらハンドルを右に切る。もうすぐ家だ。
「私に聞くな」
「だよな」
そうして車は家の前で停まった。ガレージの前で降りると、Vは辺りを見回す。
「ここが……」
「見覚えあるだろ?」
「ああ……あまり覚えていない」
Vの横顔は銀髪に隠れて見えない。その目が何を見ているのかも、窺い知れない。それがなぜか気にくわない。ネロは右腕をさすりながらわざとVの前に立った。
「そこで俺の腕ぶっちぎったのも覚えてないと? 都合のいい頭してんだな、詩人ちゃんとやらは」
「……すまなかった」
素直すぎるその言葉は、でもネロが欲しいそれではなかった。なんとなく気まずい。いやネロには非がないからその考え自体がおかしいのだが。
「……アー、そういうこと言わせてえわけじゃねーよ、ほら、腕もこの通りだ。むしろ都合がいいんだぜ? ……そんな顔すんなよ」
「魔力で戻したのか……羨ましい」
「羨ましい?」
問うと、Vはネロの視線から逃げるように瞼を伏せると、自らの体を片手で抱いた。なんだか、最後に見たときのVとはまた違う、スッと空気と同化して溶けてしまいそうな儚さすら感じる。
「俺にはできない」
「まあ普通できねえよな……まあ、とりあえず……家、入れよ」
促されてVはネロの家に入った。いつもの風景にVがいるのがなんだか不思議だ。
「キリエ、帰ったぞ」
広い空間にそう声をかけると、奥から声が聞こえる。無数の子供たちの声も一緒だ。Vが身を固くしたのがネロでもわかるくらいだった。子供は苦手なのだろうか……まあ驚かない。しばらくしてキリエがエプロンをはたきながらやってくる。
「お帰りなさい、ネロ。ニコは?」
「部屋戻って寝てるとよ……あっと……キリエ、こいつがその……」
ネロが言い淀んでいると、キリエは微笑んでVに近づく。
「初めまして、キリエと言います。ネロから話は少しだけ聞いています……あら、でも、名前を知らないわ」
「……Vと呼んでくれ」
「はい」
そう言ってキリエは何事もなかったようにとりあえずコーヒーを入れるわねとキッチンに立とうとするので、おいおい、とネロが何故か慌ててしまう。
「俺なんも話してねえけど」
「そうね。でも大丈夫よ」
「君は人が好すぎる。あいつが何者か知らないであんなに近付くなんて」
「大丈夫。ネロがあんなに心配していた人なんだから、きっといい人よ」
言い切るキリエにネロは口をもごもごさせることしかできなかった。たしかにそうだ。V自身は悪くはない。でも無防備に信じるキリエが心配になるとともに、彼女になんて説明するかのプランが全く立たない不安がネロを襲った。キリエからしたら、大きな子供が一人増えたくらいにしか思わなかったのだろうかとすら感じる。
テーブルにつきコーヒーを啜り、ネロは少し考えた。しかしどうしても名案が浮かばない……そしてVを見る。少し所在無さげにしているが、コーヒーは好きなのか知らないが大人しく飲んでいる……答えを先延ばしにするのと同時にネロは一つやらなければならないことを思いついた。
「まあ、その、なんだ……V」
「なんだ」
「……その格好、どうにかするか」
そう言ってネロはコーヒーを飲みきり立ち上がった。

Vのいでたちはフォルトゥナでは目立ちすぎる。いくらタトゥーが消えたとはいえ、肌を曝しすぎるその姿では何かと不都合があった。そうでなくても、すでにVが身に着けている衣服は永い戦いの末についた傷があちこちに目立ったままだ。どのみちこのままというわけにはいかない。
ネロの服では大きいし、かといってニコやキリエの服というわけにも当然いかない。しかしだからといって、ここにだけはVを連れてきたくはなかったのだが、今は仕方がない。
「あらぁ、ネロちゃん久しぶりじゃないのぉ」
「ひっつくな馬鹿」
ネロが右腕でその体を押しのけると、マリエはひどぉいと六フィートはゆうに超えたその巨体をくねらせわざとらしくシナをつくる。
フォルトゥナの街中。ジョセフィーヌと書かれた派手な看板のあるブティックにネロはVを連れてやってきた。店の主であるマリエは今日も相変わらず派手な化粧にビビットな赤紫のドレス、足元は金色のパンプスを見事に着こなしていた。まるで夜の商売でもしているかのようないでたちだ。フォルトゥナでこんな格好をしているのは彼女くらいだろう。マリエやジョセフィーヌの名前を出すと皆が彼女を思い浮かべる程度にはこの街にとって珍しい人種だ。
「ネロ、女性に手を出すな」
Vがそういうと、ネロはゲッと振り返る。
「お前にはこいつがオンナに見えるのか?」
「当人が女性として生きているなら女性として扱うべきだ」
俺は何か間違ったことを言ったか? と続けるVのその正論ぶりに口をあんぐり開く。確かにそういわれてしまえばその通りだし、反論できるスペースはどこにもない。
でもそういうことでもないような気もするのは、Vがマリエのことを知らないからだとも思った。そうこうしているとマリエはVの元に飛びつくように貼り付く。巨体とは思えない俊敏さだった。
「やだ、ネロちゃんこんなイケメンどこで拾ってきたのぉ? 言うことも素敵ねあなた、アタシのことをオンナとして見てくれる人なんて爪先のカケラもいないんだから!」
「おいクソ野郎、Vから離れろ。ケツ蹴りあげるぞ」
「やってごらんなさいな! アンタのことなんてこぉんなちっちゃな頃から知ってるんだから、何されようと何言われようと怖かないのよ?」
そう言ってマリエはネイルアートが施された指先で豆粒みたいな形を作るので、そんなわけねえだろとマリエを押しのけ、Vに店中に入るよう手で示す。店先とはいえ外でこんなトンチキなやりとりをしたくはなかった。
素直についてきたVに顔を寄せネロはこう耳打ちする。
「……別にフォルトゥナに服屋がここしかねえわけじゃねえぞ?」
「そうだろうな」
「あいつ……マリエはキリエの友人なんだ。ここ使わないと後で何言われるかわかったもんじゃねえ」
小洒落た店内にはマリエが国内外から集めてきた衣服やアクセサリーなどがきちんと陳列されている。教団が幅を利かせていたフォルトゥナでの事件前までは、彼女のその性格や派手な見た目から、かなり浮いていた……というか、疎ましくすら思われていた存在だったが……事件後の今はそれなりに店も繁盛しているそうだ。
マリエ自身はネロにとって少しばかり苦手な存在だが、扱うモノがどれもいいということは認めている。マリエも店内に入ると、さぁてとガラス扉を後ろ手で閉めた。
「お着替えの時間ね?」
「……不本意だがそうだ、こいつはV……偽名だが……まあ、お前みたいなもんだ。なんか見繕えるか?」
ネロの言葉にマリエは自信たっぷりな表情で腕を組む。
「当たり前よ? アタシを誰だと思ってるの?」
「厚化粧のオッサン」
「いい度胸してるじゃない?」
まあいいわとマリエはVの全身をしげしげ眺める。その目はまるで値踏みするようだったが、いやらしい感じはしない。まるで職人が素材を選定するような目だった。
暫くそうしていたが、マリエは指を真っ赤なルージュで彩った唇に近づけ、息を漏らした。
「この体型でこの肌の白さならどちらというとハッキリした色が似合うと思うわ。個人的に勧めたいものもあるわね……なにか希望ある?」
「黒でいい」
「黒、が、いいのね?」
あえて強調するマリエにVはしばらく黙ると、そうだと頷いた。多分色の希望なんてないのだろう。だがマリエは指を振るとVの目の前までやってきてその薄い肩に触れた。
「こっちが求めてるのはアナタの希望なんだから、ちゃんとこれがいいって言わないとダメよ?」
「……すまない」
「ああ、勘違いしないで! 怒っているわけじゃないのよ? ただどうしてもアナタみたいな人見てるとね……ふふ、昔のこと思い出しちゃうのよ、あれはそう、夏の地中海での出来事だったわ……アタシがまだ十七歳の時……」
「おい、お前のありもしない昔話はどうでもいいから早くなんとかしろ」
不毛にしか見えないやりとりを見ていたネロが顔をしかめると、なにようとマリエは舌を出す。
「いいじゃないのよ、思い出は誰にも横取りされないのよ? なにがあったって誰と出会ったって、その出来事は一生モノなんだから、大事にするくらいいいじゃないの」
「ああ、はいはい……わかったよ」
マリエの後ろでふふ、と声が漏れた。Vが笑ったようだ。嬉しそうにマリエがVの手を取る。触りすぎだろうと思うが、言うとまたうるさいので言わない。
「あら、アナタちゃんと笑えるじゃないの! よかったわ、笑うことができないタイプの子かと心配しちゃった」
心底嬉しそうにマリエは言うと、ええとねえ、と店の奥に引っ込んで行った。
Vのもとに近づくとまだ彼は笑っていた。確かにこんな風に笑うVはネロも初めて見る。人を小馬鹿にしたような厭味ったらしい笑いなら何度か見たが、こんな楽しそうにしているVは珍しい。
その横顔に安心していいのか不安になっていいのかわからない。なんとなく気に入らない気もしたし、言いたいこともたくさんある気がするが、今は何も出てこない。
「なに笑ってんだよお前」
「いや、別に……思い出は誰のものにもならない、か。珍しくいいことを言う女性だと思ってな」
「オンナじゃねえけどな」
ネロが嫌そうな顔をすると、それはそれで面白いのか、ふふふ、と声が漏れる。
「ネロはマリエと仲がいいんだな」
「お前あのやりとりのどこみてそう思ったんだ?」
「いや、ネロは俺にないものをたくさん持っているなと思ってな。むしろ愉快だ」
ああ……なんとなくネロは、この笑いの正体を垣間見た気がした。V……バージルは、こういう経験をしないままだったのだろう。ひとの暖かさだとか、苦さだとか、言葉に表せるだけのすべてをもしかしたら求めていたのかもしれない。そんな顔はとてもしないが、そうであってほしいとすら思う。そうでなければ到底受け入れられないような選択をした結果に、Vは生まれてしまったのだから。
「……しばらくフォルトゥナに…俺達の家に住んでくれないか。V」
「なぜ?」
ネロの視線にお構いなしというように視線を窓の外に移し、うたうようにVは問う。言葉の意味とは裏腹に、その声音は優しかった。なんでって……とネロは頭を掻くことくらいしかできない。
Vはまた諭すように、言い聞かせるように言葉を舌にのせる。
「俺はお前たちと暮らしていい存在ではない」
「……それ、お前が決めることじゃねえよ」
その言葉にVが不思議そうに小首をかしげ、ネロのほうに振り返った。ああ、なんて顔をするんだと思いながら、ネロは言葉をつづける。
「お前がやったこと、全部納得したわけじゃねえし。むしろ納得してねえことばかりだし……でも、今はまだ言葉も出てこねえんだよ。時間が欲しい。だから……」
「……俺が」
Vはネロとぶつかるのではないのかというくらい傍までやってくる。そしてネロの頬に指を伸ばした。突然のことにネロは思わず後ずさりそうになる。
「俺がお前の大切な人を手にかけないと、信じることができるか? お前の大切なものを奪ったのは間違いなく俺だ……お前も人が好すぎる。あの夜もそうだったな」
「V!」
その言葉にネロはマリエに悟られぬように小さくVを牽制する。今度こそVはいつもの、馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「まあいいさ。提案通り、しばらくお前のところに厄介になろうじゃないか」
「お前な……」
ここで諍いは起こしたくない。それをVもわかっているのだろう。楽しそうに笑うと、ネロの耳許でこう囁く。
「勘違いするな、ネロ……俺はお前になら、何をされてもいいと思っているのだから……」
「何言ってんだお前は……」
Vを睨むと、いっそ恐ろしいほどに妖艶な笑みを一瞬だけ浮かべネロの元を離れる。ほぼ同時に店の奥からマリエが袋やら箱やらをその逞しい腕に大量に抱えて戻ってきた。
憮然とした表情のネロに気がついているのか、気がついていても気にしていないのか、マリエはお待ちどうさまとウィンクする。
「お話中悪いわね? Vちゃん可愛いから色々試したくなっちゃってたくさん持ってきちゃったわ」
「いや、話なんかそんなしてねえし……」
「はいはい、とりあえずVちゃんこっちへ来てちょうだい、これなんかどうかしら」
「……悪くない」
Vがそう言うとマリエは楽しそうにキャッキャと色とりどりの柄の服をVに見せ始めた。
ネロは途端に居心地が悪くなり、窓から外を眺める。日は傾き始めている。そろそろ夕闇の季節だ。頭の中でVの先ほどの表情が掻き消そうとしてもその存在感を増すばかりだ。
狭い店にマリエのはしゃぐ声ばかりが響く。こうやって過ごせることを望んだのはネロのはずなのに、何故か空しい。
その後マリエのチョイスした服からVが気に入ったものを選んだり、それがいちいち絶妙に高いものばかりだったことに目を剥いたり、マリエに代金をツケにする見返りとしてキスを強要されかけたりしたのだが、ネロの悶々とした思いに対してそれらはあまりに些細なことだった。
こうして歪な共同生活一日目はひとまずは終わりを迎えたのである。


ネロの怒りには理由がある。まだVの痩躯に魔獣たちが住んでいた頃……あの事件の最中でのことだった。
あまりにも体力がないVをどうにか説得して休ませることにしたネロは、嫌がるVを押さえつけるようにして無理矢理仰臥位にした。
「俺には時間がないんだ……ネロ、わかってくれ」
「こっちのセリフだ。V、少し休め」
立ち上がろうとするVの呼吸は浅い。杖を奪い取ると生白い顔がわずかに気色ばんだ。
「返してくれ……」
「お前はここで待っていろ。俺がカタをつける」
「……ネロ」
そう言って、Vはネロの手を取った。その冷たさにネロは一瞬死体を幻視したが、すぐにそれを打ち消す。まだ、まだ生きている。なにを考えているんだ。
それにネロは……Vの体を、今直視できない。なぜなら見てしまったから。
それは今朝の出来事だった。
「ん……」
鼻にかかった甘い吐息に、ネロは開きっぱなしのドアの陰にとっさに隠れることしかできなかった。早朝の崩れかかったホテルの一室、何かの気配を感じてネロはそろりそろりと壁伝いに廊下を歩いてここにきた。逃げ遅れた人間か、はたまた性懲りも無く悪魔がいるのかと思ったが、どうも違うと耳をそばだてる。
「っ……は、あ……」
そして気が付いてしまった。この、何かがぶつかる鈍い音。間違いない。
……マジかよ。
こんな状況そういった行為に勤しんでいる人間なんて、多分いない。少なくともネロはそう思う。
されば悪魔かと思うが、ドアの陰からではどうも人間と思われる足しか見えない。その痩せたすらりとした白い脚は、与えられる快楽を散らそうとゆらゆらと揺れていた。
「あ、あっ」
耳をくすぐるその男の声に、ネロは心当たりがあった。
まだそこまで聞き覚えがあるわけではないが、確実にネロはその声を知っていた。顔面の血という血が引いていくのがわかる。
それは年若い彼の同行者にして依頼人……Vのもので、間違いなかった。幾分上擦っているが、聞き間違えるわけがない。
Vがここにいる。確かに先ほどから姿が見えなかった。おとなしそうな顔をして随分な趣味があったもんだとむしろ斜にかまえて考えられたらどれだけ楽だっただろう。
それにしてもいったいVの相手は誰だ……? そう思ってそっと部屋を覗き込んで、ネロは思わず目を剥く。
そして声が出そうになるのをなんとかこらえて、またドアの陰に身を隠した。
美しい羽根を大きく広げ、Vの体を組み伏せむさぼっているのは、彼が従えている悪魔……グリフォンだった。その隣には、黒くしなやかな黒豹のような悪魔……シャドウが、その生白い痩せた体をさも愛おしいというように舐めている。
まさに淫靡でいっそ冒涜的としか思えないはずなのに、なぜか昔美術館で見せられた裸婦の絵画をネロは思い出していた。
「っふ……」
「声抑えんなよ? 聞かせろよ、俺達が今一番聞きたい声をよ」
グリフォンの囁き声が静かな廃墟に響く。声を抑えているのだろうVのくぐもった声にそれは苛立ちすら感じられるものだった。
「ひぐっ……あ、あっ!」
苦しげな中に艶の混じる声、ネロは耳を塞ぎたくなる。これは一体どういうことなのか知りたい一方で、まったく何も知らないでいたかったという相反する思いが交差する。
とにかく一刻も早く立ち去りたかったが、なぜか金縛りにあったように足が震えて動けない。チクショウ、と内心舌打ちをするが、その耳はネロの心とは裏腹に更なる行為の暴露に敏感になる。
「猫ちゃん、ここ舐めてやれよ……っ、ほらな? こうなるだろ……?」
「あっ……う、い、いや……」
Vがいまどんな目に遭っているのかは声だけでしかわからない。しかしそれがネロの想像欲を働かせてしまい余計に甘美な調べとなって襲い掛かる。
ぐちゃりと卑猥な音とともに響く甘い声が、快楽に呑まれたその苦い香りだけが、ネロを心にいくつもの瘡蓋を作った。
するとそれまで囁き声だったグリフォンが、まるで誰かに言葉をかけるようにいつものはしゃぎたがりな声を出し始める。
「しかしまあ……絶景だなぁ? 見せてやりたいもんだぜ!」
「……ん、ん……なに、を」
「こんなスケベな詩人ちゃんの姿をあのネロっていうガキによぉ?」
その言葉にネロは思わず背中のレッドクィーンに手をかけ一歩踏み出すところだった。なんとか堪えじっと固唾をのむと、グリフォンの言葉に明らかに動揺したVの嬌声とも聞こえる声がネロの心を更に引っ掻くように響く。
「……! あ、あっ……! 趣味の、悪いことを……」
「なんだよ、どう見てもコーフンしてるじゃねえか、ひょっとしてVちゃん見せたい系? エッチな自分を見てほしいタイプ?」
「やめろ……っ」
目の前で繰り広げられる目には見えない痴態に、ネロの怒りともなんともつかない感情が溢れ出そうになる。もう一度、今度何かあったらVごとグリフォンを叩っ斬るつもりでネロはじりじりとドアの陰から部屋に忍びこもうとした。足に神経を集中させ、そろりそろりと視線をあげた。
まさにその瞬間、目が……合った。
グリフォンの目が射抜くようにこちらを見ていた。Vに悟られぬように首を曲げるふりをしているのか知らないが、その目はネロの目を映さんばかりであった。
悪魔の目はネロを一瞥して、密やかに笑ったようだった。悪魔に対して恐怖心よりも絶対に打ち克ってやろうという思いが先に溢れるネロが、もしかしたら初めて悪魔を見て怖いと、その恐怖心を味わっかのように動けない。
しかしそれは一瞬のことだった。こんな奴らに負けてたまるかと、なにが勝敗を分けるのかすらわからないままにネロはドアの前に仁王立ちにならざるをえなかった。
その姿を認めるとグリフォンはカカと笑い、Vの体を起こさせる。
「おっとぉ、お客様だぜ? Vちゃん挨拶してやれよ?」
「……! ネロ、いや、いやだ、見たら……」
ネロの姿を視認したVが朱に染まり涙と汗で汚れたその頬を引きつらせ、首を振り手でグリフォンを跳ねのけようとする。
Vの傍にいたシャドウが、唸りながらネロに近寄る。硬そうな毛並みが僅かに逆立っていた。一方でグリフォンは相変わらずVの中を蹂躙しているらしく、おお、と翼を広げた。
「締まるね詩人ちゃん、食いちぎられるかと思ったぜ!」
品のない煽りにVよりも先にネロがその義手をわなわなと震わせ、グリフォンを睨んだ。ただその目がどんな顔なのかはネロ本人にもわからない。
「お前ら……ほんと何してんだよ!」
「ナニ…って、お前見てわかんねえの? 意外とウブ?」
「そういうことを聞いてるんじゃねえ! ……おい、V」
そう言ってネロはずかずかとベッドに近寄る。素肌を曝したVの痩せた白い体に散る明らかな情交の傷痕に目を覆いたくなるが、ネロは構わずその手を取った。
じっとり汗に濡れた細い指先はネロのそんな行動を制止する。Vは相変わらず首を振り、否定の言葉を漏らした。
「や、やだ……」
その否定が何に向けられているのかは、もはやわからない。
「これはどういうことだV……」
「ちがう」
小さな声でVがそういう。何がだよとその顎をとらえこちらを向かせると、あ、と声が漏れた。その暗い目はネロの行動に心底怯えているようで、ネロの持つ少しばかりの加虐欲を泡立たせた。
何を考えているんだと首を振り、もう一度Vをねめつける。
「何が違うんだよ? 言ってみろよ」
「どうしたよ? まるで好きなやつにカレシがいたみたいなセリフじゃん?」
あ、カレシじゃなくてセフレか! と陽気に笑うグリフォンの首根っこを掴もうとすると、わかったよ落ち着けとVの秘部からその赤い性器を抜いた。ずるりと抜ける感覚にVは目をぎゅっとつぶりその体はいやらしく跳ねる。
すかさずシャドウがVに飛び乗ると、その体を癒すように舐めはじめた。
グリフォンはそれらには目もくれず、首を曲げてネロの顔の前にその頭を突き出す。
「Vちゃんはうまく説明できないようだから俺がしてやるよ! ……まあなんだ、魔力の充填作業ってやつ?」
「魔力を?」
訝しがるネロの頬をグリフォンの羽根がかすめる。ふわりと、雨上がりの夜のような香りがして目がくらみそうになった。
「お前と違ってVちゃんは魔力を自分で作れねえわけよ、でもVちゃんは息するだけでも魔力使っちゃうタイプの子なわけ! わかる?」
「だからどういうことなんだよ」
「わかってくれよな? つまり俺たちがVちゃんのナカに魔力入れてやってるってコト!」
「生命維持のために仕方なくってわけか、その割に楽しそうだったな?」
「何言ってんだ、セックスはコミュニケーションだぜ? 楽しくヤッてなんぼだろ?」
あっけらかんと言うグリフォンに、ネロはむしろ脱力感を覚えた。Vはネロにその薄い背を向けシャドウにその身をゆだねている。
傷だらけの背中にネロは先ほどから感じている後ろめたい思いを抑えきれなかった。
「ところでよう」
そう言ってグリフォンはそんなネロの耳元に嘴を持ってくると内緒話でもするように囁いた。
「お前の魔力でもイイんだぜ?」
その言葉にボッと顔に火が付くような感覚を覚え、とっさにグリフォンの頭にブルーローズを突き付けた。あらやだコワイ! と狭い部屋いっぱいにグリフォンが羽根を翻す。
「冗談だよ! でも本当のコトだぜ? なんかあったら詩人ちゃんのことは任せたぜっていう俺の優しい計らいじゃん! お前も………悪く思ってないんだろ?」
「うるせえ! 俺にそんなシュミはねえ!」
「どうだかな! さっきだってちょっとイイなって思ったんだろ?」
「思ってねえよ! ……おい、V……俺は先に行くからな、魔力だかなんだか知らねえけど、このクソ忙しい時に妙なことばかりしてたら本気で置いていくぞ! お前なんかいなくても俺は戦えるからな」
「ネロ……」
捨て台詞を吐くようにそう言うと、ネロは踵を返して部屋を出て行った。Vが追いすがるようにその名を呼んだが、振り返ることはしなかった。
もしも振り返っていたらきっとネロは動揺しただろう。その熱っぽい潤んだ瞳に。

「……」
Vの手のその皮膚は年齢不相応にひび割れていた。グリフォンの話を鵜呑みにしているわけではないが、その力が底をつきているのだろうということはなんとなく察しが付く。
「お前、魔力……もうないのか」
Vは黙ってこくりと頷いた。その目の色はここからでは伺えない。
「それでも俺は行かなければならない……これは俺の戦争だ……」
何がVをそこまで掻き立たせているのかはわからない。だがその折れてしまいそうな痩躯から確実に意志を感じた。
ネロはため息をつく。置いていったらむしろ呪われそうなそのいでたちを無碍にすることもできず、かといってこんなところでVを背負っていくわけにもいかない。
これは致し方ないことだと自分を無理やり納得させて、ネロは重々しく口を開いた。
「……魔力って、どうすりゃ分けられんだ? ……その、セックス以外で」
その言葉にVは目を上げる。まっすぐな視線がネロをとらえると、ふっと笑った。
「セックス以外に方法がないと言ったら?」
「……お前をここに捨てていく」
「冗談だ……」
こんな状態でもそんな口が利けるなら本当に置いていっても大丈夫なのではないかと思うが、Vはネロの手を握り返し引き寄せた。
汗の匂いがなぜかほの甘く感じた。Vはそのままネロの肩口に顔を埋め、優しくこう呟く。
「口づけを……」
「V」
「それで十分だ。もう時間が……ない」
微笑むVがこのまま消えてしまいそうで、思わずその身を掻き抱く。男の体を抱きしめたことはそうなかったが、Vの痩せぎすな体は今にも朽ちてしまう枯れ木のようで、猛攻することしかできなかった。
「……キスでいいんだな?」
そう問うと、Vはむしろ不思議そうにネロを見る。
「本当にいいのか」
「仕方ねえだろ……目、閉じてろ」
そう言うと、Vは言われるがままに目を閉じる。艶のある目許に少しくらくらして、吸い込まれるようにネロはその唇を合わせた。
舌が絡み合い、ぴちゃぴちゃとした音が耳元で響く。魔力が吸われているのか、酸素が足りていないのか、はたまた何か別の要因かはわからなかったが、まるで空を飛んでいるようなそんな感覚がネロを襲った。
「ん……ん」
Vはネロの背中にそっと手をまわし、もっともっとというようにネロの舌を吸う。積極的なその行動に少し驚いたが、負けじとネロもVの口腔内を蹂躙した。
長い長いキスを終え、そっとVはネロから離れた。白い肌が僅かに上気しているのをネロは見逃さなかった。互いに息を整え、先にVがなんとか立ち上がる。弱弱しいが、先ほどよりかはまだなんとか立てているようだ。
「……もう大丈夫なのか」
その背中に声をかける。Vは振り返らずに息を切らしつつ言葉を漏らした。
「ああ……ネロ、感謝する」
そう言ってVは先に先に歩を進めるので、追いかけるようにネロもあとを追おうと立ち上がると、気が付けば先に行ったはずのグリフォンがネロの真横にいた。
気を利かせてどこかに身を隠していたのかは知らないが、グリフォンはネロを一瞥するとこう口にした。
「サンキューな。俺たちじゃどうにもできなかったからな」
「見てたのかよ……どうにもできない?」
「そりゃあ悪魔にもできることとできないことがあるってわけ! ……ネロ」
「なんだよ」
「Vちゃんをよろしく頼むぜ?」
「今更何言ってんだよ」
「ハハ、そうだったな! じゃあ俺様先に行くぜぇ!」
アハハハハと笑いながらグリフォンはネロの頭上を越え空に舞い上がる。羽音だけがネロの耳にこびりつく。朝に見たVのあられもない姿を思い出してネロはそれを必死に打ち消した。
「……何考えてんだよ、俺」
ため息をついて、ネロもまた進みだした。その終焉を見届けに。

続き

2024年11月14日