【R18】雲を霞と、散りうるもの

「教えを棄てないのならばここで死ね。それすらも拒むのならば、お前の目の前で子供たちを一人ずつ殺す」
それは自分でも笑ってしまうくらいの稚拙な脅し文句だった。こんなことをしたところで、彼女の父親は変えられないし、それらに惹かれる忠興が変わるわけでもない。珠子は表情一つ変えずに忠興に対峙した。すべてを見抜いているような顔が気に食わなかった。
「教えは棄てませんし、貴方に子殺しなどさせません。貴方という人は本当に何もわかっていらっしゃらない」
「黙れ、お前に何がわかる」
「わかります。むしろ貴方ほどわかりやすい方はこの世にいらっしゃらない」
忠興がこの直後に珠子に為したことは、蛮行としか言えないものだった。
彼女の髪を掴み引きずり、部屋に投げ込むように押し込むと、手荒に服を脱がせた。露になった白い肌は、何度か忠興に抵抗した。しかし忠興は容赦なくその顔を殴りつけ、彼女が怯んだところで彼女の体を自らの体で絡めとり、そのまま凌辱した。精の臭いと汗の匂い、悲鳴、漏れる吐息。およそ夫婦に起こりえることの中では最悪なものだっただろう。しかしそのときの忠興にはそれ以外の対抗手段がなかった。自らの優位を示すための行為だった。珠子の体に無理矢理に男根をねじ込み、抵抗すれば害を加え大人しくさせた。
やがて珠子が失神していることに気が付いた忠興は、急に興が冷め、いっそ自らの行ったことの虚しさに襲われていた。一体こんなことをして何になるのだ。加害を振るったのは忠興であるはずなのに、まるで自らが犯されたような、そういう無力さと嫌悪感すら覚えた。どうしてもこの場にいるのが嫌で、忠興はその部屋を後にした。そっと屋敷を抜けだす。今思えば、誰にも会わなかったことを不審に思うべきだったのだが、そこまで頭が回っていなかった。ただ、好都合だとしか思わなかった。
外は温い風が吹いていた。足に任せめちゃくちゃに歩いたことは覚えている。だが、やはり誰ともすれ違わなかった。彼に会うまで。
忠興は出会ってしまった。それは彼の考えうる中では最悪な再会だった。彼は青年の姿でそこにいた。忠興も知らない、若いころの姿のはずだった。しかし忠興にはわかった。彼がいったい誰なのかを。
彼……明智光秀は、最初忠興に気が付かなかったようだった。わざと足音を立てると、漸く気が付いた様子で、ふっと顔をこちらに向けた。間違いない、彼は義父だ。死んだはずの。忠興の眉間に皺が寄る。恐れや怒りがすべて混ざってその体を支配したが、それが誰に向かうものか迄は知らなかった。光秀はふふ、と笑うとこう言った。
「ああ、こんなところで会うとは思わなかった。今日は日取りが悪いから、また来なさい。待っているから」
言い返そうと口を開いたその瞬間、忠興ははっと目が覚めた。気が付くと布団の上だった。いったいどこからが夢だったのだろうか。夢にしても悪い夢だ……だが、夢だ。そう思った瞬間に自分が何かを握っていることに気がつく。それは季節外れの桔梗の花弁だった。
それから間もなく、珠子が懐妊した。おそらくあの時の子どもだろう。生まれる契機はともあれ、前の子供たちに比べれば順調で、出産も易かったらしい。生まれた子どもは男の子だったが、何故か忠興は興秋のときほどの脅威を抱かなかった。どころかこの生まれたばかりの三男に光千代などという、まるで義父を想起させるような名前をつけた。何故だろうか。この子は大丈夫だ、と忠興は信じて疑わなかったのだ。
この頃九州や四国で比較的大きな戦があり、忠興も出陣していた。それもよかったのかもしれない。穏やかさは好かない。家族やもう死んだ人間に想いを馳せては、苦しむだけだからだ。ならば少しでも刺激のある日々を優先させた。だが、そういった忠興の留守は、光千代の洗礼という事件を引き起こしてしまった。
光千代は体が弱かった。主に祈りを捧げるために当然のことをしたまでだと珠子は言った。先の件があるからだろうか。珠子の傍には必ず小侍従が付くようになった。
小侍従……松本寿巳は、珠子輿入れの際に明智家から来た女だ。線は細いが忠興より背が高く、目の鋭い女で、忠興はずっと苦手だった。彼女を遠ざけようと、平田因幡という男に嫁がせ、子どもを産むまで帰ってくるなと命じたくらいだ。まあ、翌年に命じられた通り子どもを産んで、これで満足かと言わんばかりにしているので、逆に何も言えなくなったのだが。
そんなことなので、忠興は珠子を遠ざけることにした。顔を見ると腹が立つのだからそれは仕方がなかった。彼女にも、彼女の父親にも腹が立った。あれから義父の夢は見ていない。それもまた不気味だった。
珠子と口も聞かない日が三日ばかり続いたある夜のことだった。忠興の肩に誰かの指が触れ、少しばかり揺すって消えた。はたと目を覚ました忠興は、また悪い夢でも見たかと思い、右手をわずかに動かした。
……何かが忠興の指先に触れるので思わず飛び起きると、あの時と同じ季節外れの桔梗の花を握っていた。嫌な予感がして周囲を見回すと、桔梗の花弁が点々と散っている。それは明らかに忠興を外に誘導するようだった。
「何がしたいんだ……言いたいことがあるのならばはっきりと言え!」
怒鳴りつけ、桔梗の花弁を握り潰す。わかったのは、今ここに誰もいないと言うことだ。そう、誰の気配もない。忠興だけがいる。
「くそが」
床を蹴るようにして忠興は……まるで追跡者のように桔梗の花弁を辿った。それは遠ざけていたはずの珠子がいるはずの部屋に忠興を誘うとふっと消えた。振り返ると落ちていたはずの桔梗はすべて消えている。
部屋に珠子はいなかった。代わりにあの晩に遭遇したあの男が、誰と言わずとも、もういいであろう……光秀だ。姿かたちは少し変わっているが、間違いない。彼は忠興に背を向け文机に向かっている。
「娘とはいえ、人の妻の寝場所に忍び込むとはずいぶんと趣味が悪いな」
腕を組み忠興はその背中を眺める。近寄るつもりはない。本当ならば蹴飛ばしてやりたいところだが、まあ待ってやろうと思っていた。光秀は忠興の言葉に振り向くこともせず、淡々とこう返した。
「勘違いされたら困ります。距離として一番都合が良かっただけ。他意はないよ」
何を勘違いしたの、と続けて光秀はくすくすと笑った。明らかな挑発を受け流せるほど忠興はもう余裕がなかった。
「ふざけるな、妖め!」
後ろから光秀に襲い掛かり、突き飛ばしたところで馬乗りになり三発ほど殴りつけた。勢い任せだったので、彼がわざと忠興の行動に身を任せていたことに気が付いたのは少し経ってからだった。それはまた忠興の怒りの火に油を注ぐものだったのだが。
「嫌がってみろ、抵抗しろ! 貴様は俺のみならず妻と子まで毒牙にかけるつもりか!」
微笑を浮かべたままそんな様子の忠興を眺めていた光秀だったが、不意に忠興の肩に触れた。とん、と触れるその指が……いたく細いなと言うのが印象だった。
「は……っ?」
忠興は思わずその指を嫌い、光秀を振り払おうとしたが、それは全く意味のないことだった。自分の体を動かすどころか、みじろぎ一つすら封じられたことに忠興が気づくのには少しだけ時間がかかった。かろうじて動くのは唇と舌程度で、喉を震わせることがやっとだった。
「どうし、て」
全身の血が凍ってしまったように動けない。このままでは殺されると直感が囁く。だがまるで腱を切った獲物のようになっている忠興を前にするには光秀の眼差しはあまりにも優しすぎた。それは恐怖に塗りつぶされかけた忠興の怒りを僅かだが蘇らせるに値する表情だった。
光秀はよっこいしょ、と上体を起こす。そして殴られた頬をわざとらしくひと撫でして、そのまま忠興の頬に指を沿わせる。むろんそれを厭うことすらできないのだが……彼は歌うように忠興の質問にこう答えた。
「抵抗しろと言ったのは君じゃない。だって君が本気を出して暴れるって言うならば、私も本気を出して防がなきゃ平等じゃないでしょう?」
こんなものが平等なはずがないのだが、忠興がそれを言葉にすることはできなかった。震えることしかできない忠興の首筋を光秀……もはや彼を明智光秀だと思うことすら忠興にはできないのだが……が、べろりと舐めた。上擦った悲鳴のみが許される声だった。それが可笑しかったのだろうか、しばらく笑っていた彼だったが、ふとその相貌から笑みを掻き消すと忠興の顔を真正面から捉える。
「ではこちらも……抵抗してみろ、やれるものなら」
光秀は馬乗りになっていたのを幸いと言わんばかりに忠興の身包みを剥ぐと、露になった肌をしげしげ眺める。それだけで寒気がするくらいだったが、そんなものおかまいなしに光秀は忠興の身体を抱き寄せるようにしてその体を包むと、その唇を柔らかく舐め、そのまま首筋や耳を愛撫し始めた。耳の穴に舌を入れられたときは不快さに何度か声が出そうだった。
徐々に息が荒くなるのを楽しそうに光秀は見ていたが、やがて忠興の身体を床に寝かせる。そしてその指を忠興の胸に沿わせ、やわやわと揉み始めた。薄気味の悪さ、恐怖感、そして若干のくすぐったさでいっぱいだった。
「胸はまだわからないか、また今度、時間をかけて遊んであげようね」
そう言う光秀の言葉の真意は、のちに嫌というほど知ることになるのだが、このときは最早次に体が自由になった時には必ずこの男の息の根を止めてやるということしか考えていなかった。その首筋を噛みちぎってでも殺してやる。その荒い吐息にはまだ快楽の色はなく、あるのはただ殺意と怒りにすぎなかった。
「本当はもっとゆっくりしたいけど、今日はもう触るね」
何を、と思わず問おうとした瞬間に下半身に手を突っ込まれた。それまでの柔らかな愛撫とは似ても似つかない手荒さで思わず息が漏れる。
「ううん……乱暴にされる方が感じる?」
しばらくそうしていじられ、抵抗もできなかった。
「婿殿はもしかしたら、いじめられる方が好きなのかな」
煽る言葉を罵ることすらできず、忠興は光秀の手でその体を抉じ開けられた。太腿をするりと撫でた光秀は、指先を香油で濡らし慣れた手つきで忠興の後ろをつついて、ぬぷ、と挿し入れる。痛みで悲鳴を上げそうだった。腹を中から押される不快感から早く逃れたいのに、その指先は容赦なく忠興の中を探る。自分の頬が気付いたら涙で濡れていた。ぐにぐにと中で指が動くのがしばらく続いた。この後にされることがもうわかりきっているのに、あまりにも未知なその感触に震えることしかできなかった。
「もう痛くないでしょ、婿殿のいいところはここかな」
そこをとんとんとつつかれた瞬間、忠興の思想をかき消して余りある刺激が体中に伝播した。まるで濁流のようなその感覚が、快楽であることに気が付くには少し時間がかかった。
そんな忠興を嘲笑うように光秀はこの体を指先一つで蹂躙した。しかし何かが気になったようで、するりと指を抜くと、その顔をこちらに近寄せてきた。見たくない。見られたくない。忠興は動けない自らの体を呪った。光秀はしばらく忠興を見ていたが、あれ、と眉を下げる。
「おかしいなぁ……流石に声までは奪ってないはずなのだけれど。反応がないのは寂しいから何か言っておくれ」
「……!」
そう言って肩口をさすられ、忠興はやっと何か声を発した。自分でも何を言っているかはわからなかった。気が付いたのだ。声を出せなくしたのはけして光秀のよくわからない術に寄るものでなく、忠興自身の増幅した恐怖心がそうさせていたに過ぎないということを。恐怖で支配する側だと思っていた自分が、むしろより強大な恐怖で支配されていたことを。
喉を震わせでも声に色はつかなかった。ただ、ひゅうひゅうと喉が震えるだけで、時折出てくる声も言葉を紡ぐにはあまりに脆かった。
光秀はそんな彼の様子を見て、怖がらなくてもいいよと何度か言った。それがどれだけ忠興を侮辱するかを光秀は知らないのだと思う。散々抱いたはずの体が、忠興の体に覆いかぶさる。その時に思い出したのだ。彼に初めて唇を奪われたあの日のことを。どうしてこんな目に遭っているのに、じわりじわりと罪悪感を覚えなければならないのだろう。
「ひっ……や……っ」
そんなことを考えているうちに、あっけなく忠興のそこは光秀に貫かれたのだ。あまりにもあっけなかった。初めてのはずなのに、忠興の体は順応してしまった。勿論最初は、不快感も痛みもあったはずだが、動かれるたびに勝手に漏れ出る声はより忠興を責め立てる。最初から決まっていたじゃないかと。所詮忠興の誇りなど、肥大化した虚栄心の末路にすぎないではないかと。
そんなことも知らずにしばらく愉しんでいた光秀だったが、忠興の様子を見ると、おや、と呟く。
「もしかして、男を抱いたことはあっても抱かれるのは初めて?」
光秀のその言葉におそらく他意はないのだろうが、忠興はぐっと唇を結びその顔を睨むことしかできなかった。それを答えと知ったのだろう。彼は忠興の頭を撫でると、そっと口づけてこう言った。
「そうならそうと早く言いなさい、もっと優しく抱いたのに」
その言葉は何よりも忠興の自尊心を傷つけるものだった。ただ、新たな涙が溢れてきては頬を濡らした。男を抱いたと言ったって、忠興は光秀以外の男と関係していない。男の体では興奮しない。光秀だから、義父の彼だから成立したものなのに。あっという間にひっくり返されて貪られた身体は、与えられた強引な熱でまだ汗に濡れている。
それを哀れに思ったのだろうか、光秀は宥めるように忠興の肩に触れた。
「これでもう動けますよ、ほら」
忠興は光秀の手を振り払い、はあはあと息を漏らしながら手の甲を目元に押し当てて泣くことしかできなかった。暫くそうしていた。
「まったく、しょうがない婿殿ですね」
光秀はそう嘯いて忠興の腋に手を差し込み起き上がらせる。重くなったなぁと誰にともなく言いながら、そのままこの体を抱えて立ち上がった。抵抗したかったが、体が思うように動かなかったのと、抱き上げられたときに、その行為を歓んでしまっている自分に気が付いて何もできなかったし、涙がさらに溢れてきてどうにもならなかった。
忠興の絶望をよそに光秀は寝所まで運ぶと、寝かしつけるようにしてこう言った。
「今度はもっと優しくしてあげよう。また招ぶから」
そして忠興の瞼をそっと撫でて、消えた。