薔薇の名は不二

いつの時だったかわからない。ただ、その時が来たことだけは確実に覚えている。
時のない光の中、彼が幸福と名づけた庭の隅でラウ・ル・クルーゼはある決意をした。
それはギルバート・デュランダルという存在を変えてしまった責務や、彼がもたらした世界に愈々耐えきれなくなったことなどが起因したもので、キンクした糸がいつかぷつりと切れるように、それは当然起きることであった。
ラウはとにかくギルバートから離れるために、そっと庭を抜け出し、息を潜めながら遠ざかった。とはいえ、目測できる世界ではない。煌めく光の中を漂うに過ぎない。しかし彼に気づかれぬよう、その存在から離れた。
どうしてこうなったのかを考えるだけで吐き気がしそうだった。ギルバートは全て自分のためだと言っていた。彼が愛したラウ・ル・クルーゼという男は果たして本当に自分なのだろうかという疑いすら存在した。かつてあった彼との日々こそが、ラウにとっては本当のことだった。そうであれば、今在るこれは一体何だと言うのだろう。
しばらくして、彼の影から離れ切ったところでラウは気がついた。その指先が透けている。先に進もうとすると、ともすれば全て消えてしまう。ギルバートから離れれば、この体は存在できないということを知っていたはずだ。そして、消えてしまうのであれば、消えてしまっていいと思ったはずだった。そうだ。消えてしまえばいいのだ。そして永劫の闇の中に散るべきだ。なぜならば、それが真実だから。在るべき形だったから。
それが……何故だろうか。消えることが、怖いと思えた。途方もない恐怖心だ。ここまで何かを恐れることがかつてあったろうかとすら思う。
消えたくない。消えることが怖い。自分が消えた後のギルが何をするかを考えたくない。
闇はこちらをじっと見ている。ラウを嘲笑うことも、憐れむこともなかった。闇は無であり言葉を持たないが、ラウにとってはそれすらも絶望であった。
そうした光の届かぬ場所に辿り着いて、ラウはやっと溜め込んでいた涙をこぼした。そして透けていく指先を眺め、いくつもの記憶をたぐった。
脳裏を過ったのはレイの笑顔だった。自分が消えてしまえば、レイの存在を知るものはギルその人だけになる。本当ならばそれでも良かったはずだった。彼だけでもレイを覚えていてほしかったはずだった。それがいま、何故こんなにおそろしいのだろうか。
ラウはしばらく光の外を見ていた。相変わらず言葉を述べる舌を持たない闇が無口に煌めき、よくわからない影をも蠢いている。ギルバートすらも感知できない外の世界に言ってしまえば、ラウは瞬く間に消えることができるのに。
ラウは唇を噛み締め、踵を返した。光の中に戻っていく。それは自らの意思だ。けしてギルバートのためではない。レイのためでもないかもしれない。だが、ラウは自ら望んで彼の元に戻った。ギルバートはその姿を見て微笑んでいた。柔らかな光があたりを照らす。
そのときラウは思ったのだ。彼は待っていたのだろうと。ラウが自らの意思で、ギルバート・デュランダルを選ぶという瞬間を。震えを抑えることがやっとだった。表情をつくることも、言葉を操ることも。かつてならば簡単にできたことがどうしてこんなに難しいのだろうか。救いと名づけられた黒き光はいまも燦然と輝いている。
「おかえり」
ギルバートは満足そうに笑った。ずっと、見ていたのかもしれない。そうだ。ここは彼が創ったのだから、ラウの行動など全て見ていたのだろう。彼は止めなかった。わかっていたのだろう。
辺りには薔薇が白い花弁を揺らしていた。まるでラウがギルバートの元に戻るという決意に対し称賛の拍手を送るように。割れんばかりの拍手はラウの居場所すらも奪う。本当の姿も、名前も、声も全て塗りつぶしていく。
「彼らは先ほどまで枯れかけていたんだ。君が戻ってきて活気を取り戻した……この花はとある国では『二つとない』という意味の名前がついているそうだよ。私も気がついたんだ。君の代わりなんていないし、君は二つとないんだ。気が付けて本当に良かった。それがわからなかったら、私はきっと大きな間違いを犯してしまっただろう。君のおかげだよ、ラウ。君が自分でここにきてくれたから……」
そこからの記憶は、おそらくないのだと思う。ギルバートによるものなのか、ラウ本人の意思によるものなのかはわからない。とにかくそこからの記憶は途切れている。あの白い薔薇……フラウ・カール・ドルシュキをその後見ることはなかった。