三十二歳の別れ

「もう終わりにしよう」
既に聞き飽きたその言葉に、与一郎は閉じていた目をゆっくりと開く。声の主を辿って視線を投げると、忠三郎はこちらに背中を向けていた。少し苛立たしい。そう言う大事なことはきちんと向き合って目を見て話すものだろう。こんな時にこんな風に言うものではない。それは軽率というものだ。
夜は優しくも白々しく、灯のゆらめきを呑み込んでいる。まるで今の忠三郎の言葉のようだ。本当に白々しいったらない。
「……その話、もう五回目ですよ。そんなことを言って、終わらせるつもりもないくせに」
「数えていたのか、生真面目だな」
そう笑う忠三郎がひどく呑気に見えて、思わずその背中を叩く。閨の痴話喧嘩なんかするつもりはないけれど、言っていることが言っていることだ。それくらいわかってほしい。
痛い痛いとやはり笑うので、与一郎も身を起こす。
どうしてこんな関係になったかなんて、今更すぎてもう言いたくもないのだが、とりあえず今まで五回も別れを提案されるくらい……つまり、少なくともそれ以上は、忠三郎と寝ている。
本当はこんなことになるつもりはなかった。確かに与一郎は忠三郎のことが好きで、こういうことをしたいと思っていたけれど……でも、それは叶ってはいけないものだと思っていた。叶ったら、世界がひっくり返ると本気で思っていた。
結局、世界はひっくり返っていない。何事もなかったまま、過ぎていく。ただ静かに秘密だけを抱いて。顔を合わし、体を重ねるたびに、虚しさと秘密だけが強くなっていく。
まあ、今となってしまっては、そんなこといくらでも言えてしまうけれど、本当にそうなのだ。
「あなたがずぼらすぎるんです」
最初に寝たのはいつだっけ、そう思いながら言葉を紡ぐ。なんだかつい最近な気もするし、遠い遠い昔のような気もする。本当はどちらでもないのだろう。最初は互いに酒も飲んでいたし、勢い任せのものだった。あれから何年も経ったのに、何も変わっていない。関係はそのままだ。
もしも本当にこの関係をやめにするのなら、きっと互いに何も言わずになかったことにするのだろうか……? 最初からなかったことにして、何事もなかったことにして、そんなことでまた単なる友人として生きていくことができるのだろうか……? あれもしてやった、これもしてやったと思うほど関係が深くなった今、もしもそこまで関係が浅くなったら、見返りも求めずにそれができるとは到底思えない。
「そういうところが好きなんだろう?」
そして振り返った忠三郎のその目を見た瞬間……一瞬でも、揺らいでしまった。その瞳に映る自分の醜さに声が出るところだった。ああ、だからこちらに背中を向けていたのか。そんなもの、惰性だ。なじるのならなじればいい。なんでそんなに自信満々でいられるのかわからない。
「ばか」
そう言ってまた叩くと、何を思ったか忠三郎はその手を取り与一郎の体を抱きしめた。そこにある熱にどきりとする。この熱が、さきほどまでは間違いなく与一郎だけのものだったのだ。
「……俺は不安なんだ。」
忠三郎が与一郎の耳元でそう囁く。ああ、この言葉をまともに聞いてはならない……それは確実に与一郎の意思を砕くものなのに……耳を傾けずにはいられない。
静かでやかましい夏の夜が、じとりと滲む汗の匂いを伴って忠三郎の言葉を彩る。
「いつか、お前と離れてしまうその時を思うと、不安で仕方がないんだ」
「だから自らその手を離すと? 忠三郎殿はかくも気弱な男でいらっしゃる」
「茶化すな……本気なんだ。本気でお前を手放したくない」
その心配を他のことに向けてほしいものだ。与一郎はため息をついて忠三郎の肩に手をかける。そしてそのまま忠三郎を引き倒した。
「……安心しろ、お前がいなければ俺は女にはならない」
「与一郎」
「勘違いするな、お前のことなんか俺は最初からどうとも思っていない」
そう言って噛みつくように口づけをした。

その夜を境に二人の関係はぷつりと途切れた。本当に彼の言う通りになった。五回目にしてやっとそれは終わった。
そして、その記憶が薄れる頃に忠三郎はこの世を去った。
忠三郎がいなくなることで、与一郎の生きる世界は全て変わると思った。もうあれほどの幸福も不幸も起こりえないと思うのだ。
世界は確かに変わっていった。だが、それはけして忠三郎がいなくなったからではなかった。多分、彼がいても世界は変わるし、変わらないところはずっと変わらないのだろう。
きっとこんな風にさりげなく終わるのだ。与一郎の魂も。わかっているつもりだったのに、それだけがどうしてもわからない。
あれが若気の至りだったと、与一郎は言い切れるのだろうか。二人で過ごした過ちの日々が、いっときの心の迷いだったなんて思いたくもない。確かに何かはあったのだから。
世界の変わる音の中で、与一郎は微睡みの中で微笑んだ。