微睡みの中で何かとんでもなく壮大な夢を見ていたようだ。目覚めると黒々とした意味ありげなタトゥーに覆われた素肌は、無口な白いシーツに包まれてベッドに横たわっていた。
頭をあげると鈍い痛みを感じた。襲いかかる眩暈に負けて再びベッドに沈む。夢の中にいるようだ。視界が滲むのを忌々しく思うが、引いていく不快感に反比例するようにある不安が襲いかかる。
…俺は、誰だ…?
なにか大切なことを総て置き去りにしているような気がする。
それに…ここは、どこなんだ?
どうしても思い出せない。ずっとここにいたような、今急にここに現れたような…いや、それとも…これそのものが夢なのか…?
夢だとしたらこんなに意味もなく明瞭な夢が今まであっただろうか。いや、今まで…今までなにをしていたと言うのだろうか。
不安が襲い、思わず部屋を見回す。簡素だが上品な部屋には、鏡付きのドレッサーがこちらを見ていた。頭痛を振り払うようにベッドから跳ね起きると、ドレッサーに恐る恐る近寄る。
鏡は…細面の、見覚えのない…それでもどこか懐かしい…顔があった。翠の眼がこちらを見ている。思わず目を背けた。こんな顔、知らない、知らない、知らない!
では今まで自分が何だったのか、どのような顔をして、どのような姿だったか、どのような思想をもち、どう生きていたか…何一つ思い出せなかった。
「…うそだ」
小さく呟く。ああ、この声も、まったく聞き覚えがないではないか。なにかを喪っているのは確かなのに、なにを喪ったかがわからない。すべてかもしれない。すべて失ったのが、いまの自分なのかもしれない。
ドレッサーから距離を取るように後ずさるその瞬間、背後にあったドアが小さな音を立てて開いた。とっさに体が萎縮し、その存在を目視しようと瞳をぎらつかせる。
「目覚めたか」
そこには、長身で均整のとれた美しい男が立っていた。アイスブルーの眼を細め、自らを眺めるその男の端整な顔立ちに、何故か震えが止まらない。それは知らない男と対面した時の恐怖とはまた違う、自分のなにか…もっと根源からの恐怖に近いものだった。それが何者なのかはわからないままだったが。
「お前は…誰だ」
「………そうか、そういうことか」
残念そうに彼はその目を伏せる。なにかを悔恨するような…懺悔するような顔にも見て取れる。その表情を見た瞬間、何故か心の底からこの男を何か、庇護しなければならないようなそんな気がした。何故この男は自分を見てこんなに寂しげな表情をするのだろう。何故眉を寄せ、悔いるような顔を見せるのだろう。
…救わなくては。
それは使命めいて自らの衝動を突き動かす。先ほどまでの恐怖心はまだ消えてないが、何故かその上でこの狂おしいほどの感情を迸らせ一歩踏み出すことしかできなかった。
「!」
「…す、すまない…俺は…何を…?」
気がつくと腕を広げ、男に抱きついていた。男の体温が仄かに伝わる。何故か懐かしい。それがぬくもりに対するものなのか、男から微かに香るそれからなのかは分からなかった。
はっと我に帰る。何を考えているかもわからない、それも初対面の男に抱きつくなんて、命知らずにもほどがある。あまりに無防備だ。自分からそんな行為をしておきながら今更身を硬くすると、男は何も言わず、この痩せた背中に腕を絡ませた。
「え…?」
「本当に何も覚えていないのか…?」
確認するように男が耳元で囁やく。恐る恐る頷くと、男はため息をついた。
Ⅴが目覚めたようだ。バージルはかすかな物音を耳にし、ソファから身を起こす。どれだけ時間が経過しただろう。怠惰な愚弟の仕事を手伝うためにこの地に赴いた。Ⅴを連れていくのは反対だったが、Ⅴ本人がどうしてもついていくと言ってきかなかった。それは仕方のないことだ。その結果がこれだ。
バージルとⅤはダンテとはぐれ…いや、ダンテが突っ込んでいって一方的にはぐれたというのが正しい。少なくともバージルはそう思っている。見失ってしまったという言い方は違うと思う。全てはあの愚弟が悪いのだ。一度事務所に戻ることも考えた。閻魔刀を使えば一瞬で済む話だ。その方がよほど建設的だろう。だが、Ⅴはなぜかしばらくこの地に留まってダンテを探したほうがいいと言い始めたのだ。自分だけでも残って探すとⅤがいう。一人残すわけにはいかないので、渋々二人でこの地を探索した。
ここは事務所のある街から200kmほど南下したとある田舎町だ。依頼主はもともとこの地の出身の夫婦で、相続した実家に何か良からぬものが棲みついているらしいから、それを何とかしてほしいという話だった。聞くや否やダンテは身軽に出ていこうとしたのを、バージルにしては珍しく慌てて止めたのだ。そうして三人でこの村…といったほうがいい片田舎にやってきた。最初は簡単な仕事だと思っていた。
簡単には間違いなかった。だがデビルハンターなどいないだろうこの田舎町は、その簡単な悪魔が町ごと飲み込んでしまったような…言ってしまえば地獄のような様相を呈していた。
一体一体は大したことはない。それがうじゃうじゃと群れを成しているのが正直言って不快だった。ひとまず住民を避難させてから、三人は仕事に取り掛かった。とりわけⅤは踊るように戦った。ここしばらく彼は戦っていなかったのもあるだろう。特に双子が示し合わせていたわけではないのだが、他の仕事でもできるだけ彼は戦わせないようにしていた。その鬱憤を晴らすかのように舞い踊るⅤを見て、双子たちも負けじと自らの獲物を雑魚共に向ける。
…あらかた片付け、バージルとⅤはダンテがいないことに気が付いたのだ。
「そっちにはいないだろう」
「ああ」
「戻ってこい、Ⅴ」
バージルの問いかけにⅤはあたりを見回しながら言葉だけで返事する。戻ってくる気配のない魂の片割れにバージルは内心苛立ちを隠せなかった。二人の関係は形容しがたい。なんとも言えない関係だ。確かに同じ魂を共有しているが、当然の顔をしてそれぞれが生きている。あの事件の後…バージルの復活とともにⅤは消えなかった。あの時のことは…もうあまり思い出したくない。信じることはめったにないが、とんだ神の悪戯とやらもあったものだと苦々しく思う。
Ⅴもきっとそう思っているのだろう。奇妙な二人の道筋は複雑に絡み合うが、けして同じ方向を向いているわけではなかった。バージルが珍しくそんなことを考えていたせいだろうか。まったく…気が付かなかった。Ⅴの背後に忍び寄る黒い影に。
「…Ⅴ!」
「バ、バージル!」
互いに名前を呼んだその刹那だった。黒い影は二人を呑み込み…気が付けば…景色は変わらなかった。牧歌的な山間の村々が…いや違う。根本的にこの世界がおかしいということにバージルは気が付いた。まるで誰かの夢の中だ。きっとそれは正しいのだろう。閻魔刀の美しい刀身をすらりと抜いては見たが、解決には程遠い。遠くから木々がざわめく。これもこの世ではない気がする。木々は言う。
お前の大切なものを奪い取った…と。
それが何なのかはわからない。苛立つバージルは地面を足で蹴った。
「貴様のお陰で面倒ごとになった、どう償……Ⅴ?」
振り返るとそこにⅤの姿はなかった。一瞬どきりとする。本当ならばそれはバージルにとって都合のいいものであるはずなのに、Ⅴがいないというそれまで当たり前だった事実にバージルは一瞬でも焦らざるを得なかった。
「Ⅴ…?」
視線を落とすと、Ⅴは地面に倒れ伏していた。先ほどの黒い影に呑み込まれたときに精気でも奪われたのか、呼吸はかろうじてしていることが確認できたが目覚める気配は一向にしない。蹴り上げてやろうかと思ったが反応のない彼に当たったところで何も解決しないことはわかっている。
ため息をついてあたりを見回す。家がないわけではないが…先ほどと違うのは、人の気配が全くしないことだろうか。
今回の依頼者の相続した家とやらはここから歩いて十分もすれば辿り着く。仕方ない。とりあえずそこまでⅤを連れて帰ろう。今ここで何をしても解決の糸口が見えない以上、一度Ⅴを安全なところに押し込んだ上で一人で行動したほうがはるかに精神衛生的によい。
Ⅴの痩躯を抱き上げる。意識のない長くすらりと伸びた手足が抱き上げるのを少し邪魔したが、構わずその折れてしまいそうな体を…これはとても不本意だが…まるで恋人のように抱き上げた。
そして林道を歩くこと暫くすると…依頼者の家があった。バージルは内心安堵する。このよくわからない世界で建物が残っているだけで大したものだ。
依頼者の家は、相続で得たというには小ぶりな家だった。依頼者夫婦の妻のほうの生家で、妻の両親は先日不慮の…転落事故で亡くなったとしか聞いていない。まあどうでもいいことだ。悪魔がいるのならば、斬り捨てればいい。たったそれだけのシンプルな答えをバージルは選ぶ。
内開きのドアを押し開け、寝室に連れて行くとバージルにしては優しくⅤをベッドに下ろした。眠るように閉眼したその顔を眺めて、バージルは考える。
このまま目覚めるまで待ったほうがよいだろうか。揺さぶっても、抱き上げても、何をしても起きそうにない。眠っているというより魔力不足で意識を飛ばしているのだろうか。
「それとも別の理由があるのか…答えろ」
Ⅴの体に絡みつく契約のタトゥーに対してバージルは問う。しかしⅤが従える美しい彼らは沈黙したままだ。まあはなから期待などしていないが。その体に触れてみる。滑らかな肌がバージルを拒むことなく受け入れる。
…魔力が少ないのならば、注いでしまおうか。バージルの脳裏に浮かんだ提案を否定する存在は今は誰もいない。反応がないのは興が冷めるが、いつもしていることだ。構わないだろう。
そしてバージルは無言のⅤを抱いた。肌は確かに熱を持つが、目覚める気配は一向にない。一頻りⅤの体を貪ると、バージルは何事もなかったように居住まいを整えた。
Ⅴとバージルは確かに今までも体の関係にあった。でもそれはⅤがバージルの魔力なしには生きていけないからだ。仕方なく二人は体の関係になっていると言える。そこに睦言などはないし、閨の営みといっても渇く体を押し付けあうだけの不毛な関係といってよかった。今更その関係を変えるつもりもないし、Ⅴもそれを望んでいると思っている。
二人の間に流れる無言は、意味を孕んだそれだ。ただ互いに話さないというだけではない。
Ⅴを寝室に残しバージルは家の中を見て回る。小さな家は十分もあればすべて見て回れた。ここが悪魔の生み出した幻だとしたら、あまりにも長閑すぎる。そしてあまりにも明瞭だ。
写実的に描こうとして空気の澱みすらないと感じてしまうように、違和感すら覚えるあまりにも意識のある幻覚で…最初から悪魔の見せる幻覚ではないのかと思うほどだ。
家の中は生活するに必要なものが概ね揃っていた。今もキッチンの陰から老女などが出てきても誰も驚かないだろう。依頼者夫婦もたいがいに年をとっていた。その両親というのだからかなりの老親だろう。事故と言っていたが何だったのだろうか。この生き生きとした幻影もそれに何か関係があるのだろうか。考えていても仕方がない。バージルは書斎を自室にすることを決め、その蔵書を眺めていた。
人文系から自然科学系が多い。畑でもやっていたのかアグリカルチャー関係の本が多かった。さして興味はない。
書斎を出るとリビングに出て、大きな窓から庭へ出られるようになっていた。庭にはいつくかの花が植えられていた。なんの花かは知らない。昔…母が何か教えてくれていたような気もするが、もはやそれも忘却の彼方だ。そこには退屈だが幸せな日常がそっくりそのまま残っていた。バージルにはその経験は限られている。だがそれはきっとかけがえのないものだったのだろう。少ない経験から想像するが、なんとなくもやがかかっていて目の前の光景と反比例して不明瞭だ。
幻が挿げ替えられているような気もする。ため息を漏らしバージルは書斎に戻った。
そして冒頭に戻る。
Ⅴは何も覚えていないといった。それどころか、バージルのことすら忘れてしまっている。大切なものを奪ったという先ほどの囁きを思い出す。大切なもの…それはⅤの記憶だというのだろうか。一瞬、これはⅤが望んだ幻なのではないかとすら思ってしまった。Ⅴは忘れたかったのだろうか。すべての記憶を、バージルのすべてを。この世のすべてを。
そう思うと、何故かしら悔しさすら感じたのだった。本当ならば、Ⅴの記憶が消えたことはバージルにとって少なからず都合のいい話ではあるのだが。
何も知らないⅤはバージルがそんなことを考えているとはつゆ知らず、この体をその腕に包んでいた。その行動にⅤ自身驚いているようだった。バージルも驚いた。
少なくとも、記憶を失う前のⅤであれば、こんな行動には絶対に出ない。まるでここに来たばかりのころに意識を失ったⅤを抱いたことを無意識に糾弾しているようだった。突き飛ばすことも、抱き返すこともできずバージルはただⅤの目を見る。翠のそれはバージルをまっすぐ見ている。そこには少なからずの怯えは見て取れたが、それ以上にⅤのその三富の奥には…優しい、慈愛に満ちたそれが溢れていた。何故こんな顔をするのか、バージルは何も言わずにⅤのその赤みを帯びた唇に自らのそれを重ねた。
「ん…っ!」
魔力が、少しだけバージルからⅤへと流れ込むのを感じる。Ⅴは最初こそ突然の行動に抵抗していたが、侵入してくる魔力の快楽に呑まれたのか、はたまた違う何かか…気が付くとバージルの体にぎゅっと腕を絡め強請るように舌を這わせた。唇を貪りあい、顔を離す。息を切らすⅤの表情が疑問符で埋められていくのを見て思わず笑ってしまいそうになった。
「…どうして…」
「どうして? 愚問だな」
「愚問…?」
「何故ならお前は……」
そう言ってバージルはふと思った。ここで本当のことを言っても面白くはないし、Ⅴはそれ受け入れないだろう。いや、普通受け入れられない。お前は俺だなんて戯言以外の何物でもない。
ならば何と言うべきか。
「お前は…俺の恋人だからな」
「……え?」
恋人のようなもの、と言おうとして口が滑った。まあ構わないだろう。これから心配されるのはⅤの魔力切れだ。下手に家族だと誤魔化したらそれこそこれからの対処に困る。
「恋人…なのか? お前が…俺の?」
「ああ、そうだ」
「………」
Ⅴは黙ってしまう。何か思いを巡らすように考えているようだった。冗談だ、という言葉がなぜか遠くなる。困ってしまうⅤを見ていて、どこか安心している自分がいる。受け入れられないだろう。こんな男が恋人だと真顔で言われたら、それは困惑する以外ない。しかしⅤの口から漏れ出た言葉は、バージルが無意識下で期待した言葉とは真逆だった。
「…そんなに大切なことすら、俺は忘れてしまったのか…」
そう言ってⅤは項垂れる。そしてその反応に少しだけ焦ったバージルに御構い無しというようにこう続けた。
「…なまえ」
「名前?」
「俺とお前の名前を教えてほしい…思い出すかもしれない」
名前。そうか、そういう発想になるのか。バージルは感心するとともにその答えに一瞬窮した。同一人物であるのだから、ⅤのことはⅤと呼んではいるがそれは仮の名前に過ぎない。だからといってここで別の名前を伝えるのも違う気がする。というか、その方が面倒くさい。バージルはしばらく黙っていたが、やがて諦めるようにそのまま伝える。
「お前の名前は…Ⅴだ」
「Ⅴ? ………へんな、名前」
そう言ってⅤはくすくすと笑った。その姿は子どものようで、バージルの心を引っ掻く。なんて柔和な顔だろう。あのこの世の毒を吸いきったとすら思うような不遜げな笑みを見せていたⅤはもういない。そこにいるのは、素直で己に従順なひとりの青年ではないか。
「俺に嘘をついているだろう?」
「お前に嘘をついて俺にはなにも得がない」
「…変なの」
首を傾げそう笑うⅤが何故か急に愛おしい。あざといわけではない。そこに流れる感情は自然そのものだ。その表情も、いつもの偏屈な雰囲気ではない。まるで子どもの…いや、子どもの頃の自分を見ているようで、なんだか恥ずかしいような、隠しておきたいようなそんな気さえする。
「お前の名前は?」
「…バージルだ」
「バージル…」
何度もそう呟く。恥ずかしいからやめろとも言えずそのままにしていると、先ほどまでの表情がなんだったのかと思うほどⅤの表情がみるみるうちに曇った。
今にも泣き出しそうなⅤの様子に、バージルは問いかける。
「どうした」
「…だめだ。なにも思い出せない…お前のことも、俺のことも…すまない…」
「そうか…」
再び項垂れたⅤの瞳には涙が浮かんでいる。ひっくと喉が鳴るのをバージルは黙って見ていた。静かにⅤは泣いている。
「泣くな」
「で、でも…」
こういうときどうしてやるのがいいのかバージルにはわからない。だが、子供の時に…どうしても涙がとまらないときに、母がよくしてくれていたことを思いだした。
「…バージル?」
Ⅴの体を引き寄せ、背中をぽんぽんと叩いてやる。なぜかしら安心したものだ。たったこれだけのことで…涙が引いたものだ。それが何故かはわからない。
Ⅴはしばらくされるがままで、バージルに体を預けていたが、そのうちもじもじと体を揺らし、バージルから目を逸らしながら、恥ずかしそうにつぶやく。
「バージル…キス、したい…さっきの……」
「キス?」
「ん……その、なんだか…すごく……むずむず、する…」
体を離しⅤの様子を眺めると、頬は上気し唇は意味ありげに色づいている。キスか…記憶をなくす前は儀式的に口づけを交わしていた。唾液からの魔力で事足りる場合もあったからだ。
「ほう、どこがだ?」
「…からだ、ぜんぶ…」
「…ほう…」
そう言ってⅤは自らのその痩躯を抱き、ふるふると震えた。翠の目は潤んでいる。先日の情交で魔力が足りないわけではなさそうだが…補充しておくに越したことはない。
口を開けと命じると従順にその通りにするので、バージルはⅤの柔らかな唇に自らのそれを重ねその口腔内に舌を侵入させる。
「ん、ん、ぅ……ふあっ…んんっ…ひっ」
歯列をなぞり、舌を絡ませ吸う。びくりびくりとⅤの体は跳ねる。まるで初めて深い口づけをしたように初々しい反応に少なからずあるバージルの支配欲が刺激される。
唇を解放すると、Ⅴは荒い呼吸を繰り返す。まるで溺れた子供のように大きく上下する背中を一瞥し、バージルはわざとらしくため息をつく。
「これで満足か?」
「あ…ぁ……っすご、い…バージル……もっと…」
きっとそれは魔力が充填される悦びなのだろうが、今のⅤにはわかるまい。これ以上ない快楽を素直に享受するしかないのだ。Ⅴはバージルの体に自らの痩躯をすりつけ、甘えるように強請る。それをバージルはついつい手で跳ね除けてしまいそうになる。記憶を手放す前のⅤならば、こんなことまずしない。こんな、なにごとも知らないという風に無防備に、体を預けることなんてしないだろう。
「……あまりベタベタするな」
「で、でもっ…こ…恋人じゃ、ない…のか…?」
Ⅴはバージルを見上げる。その翠の目には怯えと疑問が滲んでいた。
恋人…恋人ならばどうするべきであろう。恋しあって結ばれた二人であれば…睦言を交わし、体を抱き合い…わからない。バージルにはその最適解が遠い。
「…仕方ないな…キスだけでは済まさんぞ」
「…え」
「せいぜい俺を喜ばせてみろ」
おおよそ恋人はこのような言い方はしないのだろうなとバージルは思いながら、自らの唇をぺろりと舐めⅤの細い体を押し倒した。Ⅴの瞳が今度こそ恐怖一色に染まり上がるのがわかった。バージルの嗜虐心に火がつき、轟音とともに燃え盛るのを感じた。
ああ、もっと怯えた顔をしてほしい。自分に恐怖し、群れなす背中に足掻くことすら許したくない。
「な、なにを…するんだ…?」
「Ⅴ…わからんのか?」
「どうして…服を、脱がせ…やっ! そこ、触っちゃ…」
服を脱がされ生まれたままの姿にされたⅤが胸元を触られわずかに抵抗する。言葉とは裏腹に上気し色づいた素肌が誘うように汗ばんでいる。
「……ふむ」
バージルがなにを考えているのかわからないのだろう。Ⅴはただひたすらにバージルの指先の意図を探っているようだ。触れられ慣れたはずの体がまるで処女のように震えるのを見て、更にバージルの心にある炎は燃え盛るばかりだ。初めてその肌に触れた夜のことを思い出す。最初は…確か、こう触ってやった。バージルはⅤの腰に手を回すと、その体を無理やり引き寄せる。ひっと息を呑む音が聞こえ、微かにバージルの腕の中でⅤがもがく。
「どうした? Ⅴ、キスよりもいいことをしてやろうというんだ、逃げるな」
「…キス、よりも…?」
Ⅴがその翠の目でバージルを見上げる。不安げなその目の中に、より心地よいものへの渇望が見て取れる。純粋で素直だ。記憶をなくしただけでこうなるのか。少しゾッとする思いだ。Ⅴが自分と同義な以上、この反応は自分自身のそれともいえる。あまり深く考えたくはない。
打ち消すようにⅤの唇をふさぐと、与えられた快楽に再びⅤは陶酔する。やはり素直だ。
「ん……」
「Ⅴ、ここを触ってみろ」
そう言ってその細い指をとり、Ⅴの下腹部にあるⅤ自身に指を這わさせる。Ⅴの指の上に自らのそれを重ね、扱くように上下させるとⅤの体がびくりと跳ねる。Ⅴは怪訝な顔をしてバージルの顔と下腹部を交互に見る。
「な…なに、を…?これ…」
「このまま擦れ…いいからやってみろ。うまくできたらいいことをしてやる」
「…んっ…でも…」
「やれ」
バージルの低い声にⅤは明らかに恐怖したようだった。そうだ、その顔をしろ。バージルはほくそ笑むとわざとⅤから体を離す。名残惜しそうにバージルに寄ろうとするⅤを手で跳ねのけると、続けるよう目で命令する。するとⅤは震えながら、バージルが思ったよりも従順で素直な言葉を漏らした。
「や、やって、みる…」
震えながら自らの雄に指を絡ませ、まるで初めてそこを触るように恐る恐るといった具合でⅤはそこを扱き始める。意図せず行われる痴態を眺めバージルはせせら笑った。普段なら絶対にしないことをしている。いつかはやらせたいと思っていたことだ。だが記憶を失う前のバージルとⅤの関係は…ただ情を交わすだけの関係だったから、機会もなかった。
Ⅴはそれに気が付いてすらいない。何せ記憶がないのだ。どこまで記憶がないのかはわからないが…反応を見るにセックスの記憶すらないのだろう。これは面白いことになった。
「ア、ん…ぅ、ん…っ」
バージルがそんなことを考えているとは知らず、Ⅴは必死に精を振りまくための行為に耽っている。
もう限界が近いのか、体はじっとりと汗ばみうすら赤く色づいている。ああ、今すぐこの体を組み伏せ気が済むまで抱き潰してしまいたい…そう思う気持ちを抑え、バージルはⅤがあられもない悲鳴を上げて達するのを見ていた。
「っは…あ、あ…」
Ⅴがあっけなく果てたのを見下ろして、バージルはコートを脱いで放るとベッドに息を切らすⅤを優しく押し倒した。
これから何をされるのか知ってか知らずか、Ⅴは素直にバージルの体に腕を絡ませる。精液のついた手で触れられるのはいい気はしなかったが仕方ない。そう命じたのは自分だ。
「あ…」
「はしたない奴だ」
「…はしたない…? これは、恥ずかしいことなのか…?」
「…」
なんだろう、調子が狂う。どこまで忘れているのかと思っていたがここまで忘れているとは思わなかった。貞操観念も吹き飛んでしまったのか、この男の今の状態がわからない。
「恥ずかしくても、いい…バージル…もっと…」
「俺相手に強請るとはいい度胸だ」
「でも…恋人なんだろう?」
そう言われてしまうと返す言葉もない。恋人。その距離感が正しくはどのようなものなのかわからない。Ⅴの言う恋人がどのようなものなのかはわからないが…。
「仕方ない。ほら、足を開け…可愛がってやる」
従うⅤの体を開かせる。抱かれ慣れた体はこれからのことを期待してひくひくと蠢いている。早くこの体を手にしたい。いつもしていることなのになんだか今日は特別だ。どこを触ればこの体が悦ぶかはわかりきっている。抱きしめて耳朶を舐める。
「っひゃ…!」
思わず手を突っぱねるⅤの手を取って、くつくつと笑う。
「嫌か?嫌ならやめるが」
「や、や…やじゃ、ない…! から、もっと…」
笑って指をその滑らかな肌に這わせる。途中禍々しくも美しいタトゥーに触れる。
いつもバージルと情を交わすときは、バージルの手が触れるたびにそこの黒い契約のしるしは僅かな電流を発していた。まるでその指を迎合するように。まるでその指に抵抗するように。しかし今はそれがない…ただの人の肌だ。魔獣たちの感覚が今はない。
魔獣たちの庇護がない今、この細い体を守るすべはない。記憶を失う前は、Ⅴは本当に嫌な時は魔獣たちをちらつかせてバージルを牽制していた。本当は牽制にもならない。魔獣たちが束でかかっても今のバージルには勝てないだろう。だが対抗手段があるということはⅤの中でもバージルの中でも意味を持った。それがないのだ。いまⅤはバージルに対して抗弁するすべを持たない。バージルにとってそれはとても面白いものだった。
「バージル…! あ、あ…な、なにを…?」
「良いことだ。キスなんぞよりもいいぞ…」
後ろの蕾は先日抱いたときの名残かわずかに柔らかい。つぷりとバージルの指を呑み込む。
「っひ…!い、あ…!」
「痛いか?」
「…ううん…痛くはないけれど…っ! う、あ…」
痛くはないだろうがその違和感は計り知れない。かき混ぜるときゅう、と締め付けてくる。力を入れるなと耳元で囁くとその刺激でも感じるのかより一層締め付けられた。指を増やし広げるように曲げると、Ⅴは体を震わせた。
そういえば随分と浅いところで善がっていたことがあった。この辺りが好きなのかと浅めのところで指を動かすと甘い吐息に嬌声が混じる。一頻り後ろを慣らし、もう大丈夫かと指を抜くと、掠れた声でⅤが訊ねる。生白い頰を熟れた果実のように上気させ、痩せた体はひくひくと蠢いている。
「ひゃ、あ…な、なに…?」
「わからんか」
「…なにを…?」
この期に及んで何をするかもわかっていないその体を貪ることに罪悪感がないかと言われれば、ないとは言い切れない。だがよく考えてみればこれまでだって似たようなものだったではないか。
初めてこの体を抱いた時だって、Ⅴはまるでその行為に慣れているように振る舞っていた。今の反応がきっと特殊なのだ。
バージルはそっとⅤの手を取り、自らの雄に触れさせる。怒張しているそれをⅤは首を傾げて触った。これが自分をこれから貫くなんて思ってもいないのだろう。
「見ていろ、目をそらすな」
「…待ってくれ、まさか」
「目を、そらすな」
「や、待っ…っひ、ぐ…!」
有無を言わさずにバージルは自身をⅤの体内にねじこむ。もがくⅤの体を抱きしめるように封じ、押し込めるところまで進めると、その体内がうねりⅤの抵抗とは裏腹にバージルを包み込む。抱かれ慣れた体と抱かれ慣れない心がⅤの動揺を誘ったのだろう。その悲鳴はバージルへの非難というよりも自分への驚きを孕んでいた。その視線はバージルの言いつけ通り結合部に注がれている。
「ん…っ!」
声を抑えようとするその手をバージルは取り、まるで拘束するように優しく抱きしめた。しばらく虚空をさまよっていたⅤの手が、バージルの体にしがみつくように抱き返す。はあはあと息を切らし必死に耐えているⅤは、一体何を堪えているというのだろう。それまで見せられていたⅤの姿はあくまで従順で素直だった。今なら彼の本当の気持ちがわかるかもしれない。ちょっとした好奇心で耳許にわざと息を吹きかけると、びくりと体が跳ねる。
「ひゃ…!」
「善いだろう?」
記憶をなくす以前からⅤは耳を触れられることを頑なに嫌がった。嫌がるのならとそれ以上触ることはなかったが、どうもそこを弄られるのはそこまで嫌いではない…というか、快感を覚えるらしい。なんとなく察していたが、そこを暴いてどうこうする関係ですらなかったのだ。
だが今は少し違う。この素直な青年を思うがままに染めてみたい。自らの魂の欠片が、なにも知らないと言うのなら、彼自身すら知らないすべてを晒してみたい。そんな気すらする。笑いながらゆるく腰を動かすと、Ⅴの体が面白いように跳ねる。朱色に染まった肌がいやらしくバージルを誘う。それが彼自身の本心でないとしても…いや、無意識だからこそか。
「あ、あ、あ…っん、んっ」
甘い声がバージルの耳をくすぐる。その声にも驚いているのか、Ⅴはしきりに口元を押さえようとする。それが気に入らない。
「声を聞かせろ…Ⅴ、お前の声を」
「でも…俺は…っひ、あっ…」
艶のある声がひときわ部屋に響く。深いところを擦られるのがそんなに善いのか、Ⅴは体を震わせてバージルの体にしがみつく。その指に力がこもり、バージルの体に食い込む。ああ、やはり反応のない体を弄ぶよりも、こっちのほうがはるかに好い。
先だっての反応のないセックスも、それより前の無言の体の押し付け合いも、砂を噛むようなセックスだったと今なら思える。嘘でも、恋人だと言ってするこの行為のほうがいいのだろう。これまで人の…うわさ話のようにしか聞いたことのないそういった営みが、こういうものなのだろうかと断片を手にした気分だ。まだすべてはわからない。というか、わからないということがわかった。
ダンテたちと生きていくと…あの事件の後、成り行きでそうなってしまった。そこにバージルの意志はなかったし、たぶんⅤの意志に至っては最初からなかったと思う。ダンテはおそらく、自分たちが良からぬことをしないように見張るために一緒に暮らすことを提案したのだろう。それはわかっていた。今のバージルに、これ以上の力を手に入れる気が全くないわけではないのだが、今は少しだけ、ダンテに頼るようにして生活することが仕方のないことだと思い始めている。
人間らしい生活なんて御免だと最初こそ突っぱねることも多かった。だが最近はそれすらしなくなっていた。受け入れたのではなく、諦めたといったほうがいいのかもしれない。
だが今は…Ⅴの反応を通して、人間らしい生活とやらに少しだけ…ほんのわずかだが、興味を持ちはじめているのかもしれない。
「バージル……! そ、その…」
体をひくつかせ、Ⅴがバージルを見上げる。深い森のような色をした目が、涙ぐみバージルの姿を滲ませながら映す。
「どうした?」
「あの…今の俺が言うのも…おかしいかもしれない…っん…でも…す、すき…だ…」
「…そうか」
バージルの反応が薄いことでむしろ自らの発言を省みたのか、Ⅴはあわあわと手を動かす。そして必死に弁解の言葉を紡ごうとするので、バージルはⅤの体を押さえつけるようにするとその体を貪るように腰を打ち据えた。
「や、ちが…だから…っ! あっ、あ!」
「可愛い奴だ…」
可愛い。本当にそう思った。この魂の半身を可愛いと思うことなど初めてかもしれない。この状態だから可愛いのか、向けられる好意だから可愛いのかは知らない。だが、なんとかしてこの魂を、不完全な自らのもう一つの…本来ならば隠しておきたいその姿を、守りたいとすら思った。
「あ…バージル…!も…うっ…」
迫る限界にⅤは指先にさらに力を籠める。心地よい痛みにバージルもその動きを激しくする。それによりさらにⅤの声が上擦り、息を切らし切迫したものとなった。
「Ⅴ…受け止めろ!」
「ひ…! あ、あ…あっ…う、わ…」
Ⅴの中にどくどくとバージルの精液と魔力が流れ込む。Ⅴが無自覚で求めていたそれは、彼を快楽で満たし名状しがたい力となって包み込む。
行為が一頻り終わった後も、Ⅴはバージルから離れようとしなかった。バージル自身少し物足りない気もしたが、Ⅴの体力を考えたらここが潮時だ。抱き潰してしまうにはまだ惜しい。
キスを強請られ応えると、バージルの唇を甘えるように舐める。こういうことは覚えているのかと思ったが、よく考えたらこれに関していえばしたこともされたこともなかった。Ⅴはバージルに凭れると、そういえばと切り出した。
「ところで…ここは、どこなんだ? お前と…俺の家なのか?」
今更過ぎるその問いに笑ってしまいそうになる。魔力が満ちてやっと周りが見えるようになったのだろうか。
「違う、正直言ってここがどこなのか俺にもわからない」
「…どういうことだ?」
「今のお前には信じられんだろうが…悪魔が作り出した世界だろう」
その言葉をⅤはまともには受け取らない。吹き出すようにしたあと、ころころと笑い出した。
「ふふ…バージル、また嘘ついたな」
「そう思うなら勝手に思っていろ。実際お前は記憶を失ったじゃないか」
「それは…そうなのか?」
首をかしげるⅤの体を引きはがし、先ほど邪魔だと跳ねのけていたベッドのシーツを引っ張り上げる。すっかり冷たくなったそれをⅤにかぶせると、子供をあやすようにその肩をバージルにしては優しく叩いた。
「まあ、どのみちここから出る手段は何かしらかあるはずだ…今日はもう遅い。明日詳しくそれを探すぞ」
「…そうだな」