眠りたいもう眠りたい

望んで得た力ではない。もう死ぬとわかって戦いに臨んだのは、たとえ周りを巻き込んででも全て終わらせようと本当に思ったからだ。
もちろん、逡巡もあった。しかし、生きたまま人としての性を燃やし続けることがどうしても耐えられなかった。その頃はまだ自分は人間だと思っていたと思う。既にこの身はあらぬ奇跡を起こし続けたと言うのにも関わらず、それは救いにも願いにも似ていた。
そして大きな決断ののち、光秀は一度死んで……目覚めてしまった。もう二度と、目なんか覚めなくてよかった。
そう思ったからだろうか、それからというもの光秀は一睡もしていない。一度眠ろうと体を横たえ目を閉じたが、鳴り止まぬ沈黙の中を漂うだけに過ぎなかった。それは苦痛でも快楽でもなかった。ただ無味無臭の砂でも噛んでいるような、虚しさだけがあった。
まちがいなく人ではなくなったという事実だけがただそこに転がっている。何かを語ることもなければ、動くこともなかった。ただ、光秀の視界の隅にずっと映っていた。不快とまではいかないが鬱陶しかった。
そうした日々に違いが生じたのは、そう遠くない時期だった。忠興を初めて抱いた後のこと、光秀は彼を寝かしつけその体が寝入ったのを見て、初めて自分も少し眠気を感じているということに気がついた。
彼を愛することで、少しだけ人らしい振る舞いが取れるかもしれないとその時は思ったのだ。別に眠らずとも平気だ。もう死んだ身なのだからこれ以上死ぬわけではない。しかし光秀は死んで初めて、眠りの偉大さに気がついたのだ。この恐ろしいまでに永い日々を眠らずに漂うことは、多少なりとも苦痛であった。
忠興を愛したのは彼に愛を与えるためだけではない。自らを癒すためだ。忠興が藤孝の身代わりにはならないことくらいよく知っている。それらは自らの渇きを少しでも誤魔化すための稚拙な技でしかない。
だが、それらに光秀は身を委ねようと思った。そして願った。愛を与えること、人を知ること、それらだけを考えた。
光秀は自らの拠点として、とある寺を模した空間を作り出すことにした。庭には桜を植え、色とりどりの花が咲くように願う。しかし光秀が一人でその庭を眺めていても、木々や草は風に揺れるだけでその花をつけることはなかった。
人にはなれないと暗に告げられているようだった。その後光秀は何人か、忠興の周辺の男と寝るようになった。するとやはりすこしばかり眠気が来るものの、眠りに至るにはほど遠かった。夜はいずれ白む空に打ち滅ぼされるし、雨が齎らす闇でさえ一瞬の余白に過ぎなかった。
光秀は何人かの人間をこの庭に喚んだ。するとみるみる庭の花は色づいたり、枯れたり、また咲いたりをした。自らにないものを見せつけられても、光秀はそれをもう羨むこともできない。
男に身を委ね体を汗で濡らした光秀はこの寺に戻るとまず体を清める。何事もなかったように血管を透かす白い肌はむしろ忌々しいとすら思う。傷を負うこともない体は、しかし一方で傷を癒すこともない。見えない綻びをそのままに、何度も温めた水を体に掛けた。
ねむりたい。そう思う。それだけが願いになっていった。
光秀は忠興に一つの望みを与え……その後、彼の腹の子を正しく育てるために一人の女をこの寺に呼んだ。
彼女は特別だった。彼女を呼んだその瞬間、中庭には花が咲き乱れた。流石に驚くほどだった。しかしその特別さが何に起因しているかは知らない。恐らく、彼女は誰の特別でもなかったからこそ、特別だったのだと思う。誰にもならない彼女が心底羨ましかった。彼女のつぶらで愛らしい目は、光秀の願いを全て叶えた。強く、それでいてしなやかな彼女の姿を見て、似てもいない熙子を思い出していた。
彼女に全てを打ち明け、その後光秀は……何十年ぶりであろうか。微睡みについた。現世では忠興が今にもその命を散らしそうだと言うのに、光秀はただ自らを眠らせるため集中した。暫くの眠りは平穏を齎していたがやがて若く柔らかな手に起こされた。
その手は最初は恐る恐る光秀に触れたが、やがて乱暴にこの身を揺する。もう誰と名乗られずともわかるその愛しい指先を掴むと、逆にその体を引き寄せた。
「なんですか、婿殿……ああ、また随分と若い姿になっちゃってまあ……」
「やめろ、俺に触れるな!お前のせいで、俺もわけのわからんことになっただろうが」
光秀の腕の中で暴れる忠興は、先ほど会った頃よりもずっと若く……いやむしろ幼いと言った方がよいのか……とにかくその口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せるところなど初めて会った頃のようだ。しかし、彼はここにいてはいけない。いくら光秀が望んでも、彼は正しく死なねばならなかったはずだ。
「どうしてここに来たの、私は呼んでいないんだけれど」
そう言って忠興を見る。叱られた子どものように彼はばつの悪そうな顔をする。彼もきっとわかっているのだろう。どうしてここにいるのか。
忠興は光秀から視線を外し、少し後ろを伺うようなそぶりを見せる。言わずともわかる。忠興が結局離さなかったのは光秀の手ではない。その手は色白で、線の細く、だけれども意思の強さを感じる男のものだ。
「そもそも、立允だってお前が」
小声でそう嘯く忠興を再び抱きしめる。ああ、こんな香りだったか。一度眠ったこの体はその匂いを新鮮に享受する。温かな体の熱を奪い、口づけすらしてやろうかと思ったが、その瞬間忠興の体が光秀の意図しない動きをした。忠興の体を光秀から奪ったのは、先般の男だ。他の誰でもない、光秀の願いを受け忠興がその腹を痛めて産んだ奇跡の子だ。
「何をなさっているんですか、母上」
「立孝……いや、違うんだ……これは」
立孝は面白くなさそうに光秀を一瞥する。彼とここで会うのは初めてだ。厳密には福寿院で立孝……当時はまだ坊と呼ばれていた……を養育したのは光秀ではある。子を育てるのは別に苦ではなかったし、立孝も別に苦になるような振る舞いをしなかった。しかし、彼は幼いころから光秀とは違う……それでいて厄介な力の持ち主だった。大きな衝突がなかったのは争いを互いに望まなかっただけで、その気になったらきっと光秀も手を焼くだろう。
そういうこともあって、わざわざ彼を呼ぶ必要がなかったし、呼んだところで何も話すことはなかった。一応は光秀の血を引いているはずなのだが、そう言ったことを苦にも楽にも感じていないようだ。それに、生きていたころは表向き忠興を父と呼んでいたが、ここでは隠す必要もないと判断したのだろうか、忠興を公然と母上と呼び、まるで光秀から隠すように立ちふさがった。
「母上は下がっていてください。ここならば多少暴れても構わないでしょう」
立孝が光秀の手を徐に掴む。熱した鉄板に水でもぶちまけたかのような音と共に、光秀の手が焦げて……一部溶けた。いつかこんなことをしてくるだろうとは思ったが、まさかここで会って早々そんなことになるとは思わなかった。言葉通り手を焼くことになるとも思わなかったが。
「立孝、一体何をしている!」
忠興が慌ててそう叫んだ。光秀は声をあげて笑うと、手を二、三度振った。先ほどの眠りのお陰か、手を振り終わるころには何事もなかったように修復している。とはいえ何度もされたらたまったものではない。こんなに手のかかる子どもだったようには思えないのだが……彼は忠興のために生まれ、忠興のために生き、そして死んだ。だからどこかで気が付いたのだろう、光秀が忠興に対してけして人のような愛情を与えてなどいないことに。
「母上のためです。あまりこの人と触れ合わないでください」
「お前、そんな子どもじゃないんだぞ……」
「おや、婿殿は私と触れ合いたいのかな?」
忠興が光秀を睨んだころには、再び立孝が光秀に踏み込んでいたが今度ばかりは避けた。まったく、愛嬌のないところだけがよく似た。
光秀はけらけら笑う。少なくとも立孝や忠興の気が済むまでは三人で過ごすのだから、最初の衝突は仕方がないか。
「やめろ立孝、俺が喜ぶと思ったのか?」
「しかし母上」
それから立孝と忠興が話し込んでいるので、しばらく放っておいた。またなんだか眠い。別に立孝の攻撃に弱ったとかではなく、むしろ……彼らとの触れ合いで何かを得たのかもしれない。ならば、ここで暮らすのも悪くないのかもしれない。最後に遺された望みが、すべてここにあるのであれば……それに。
「そういえば、婿殿も立孝殿も姿を変えられるのですから、一度江戸にでも遊びに行きませんか?違う姿で歩くのもまた一興ですよ」
光秀がそう提案すると、忠興ははあとわざとらしく溜息をつく。
「お前みたいなことをする趣味はないんだがな……」
「私は母上とお出かけしたいですけれど」
「……立孝?」
まさに立孝にも同調を促していたはずの忠興がここにきて退路をふさがれ困っている。
ああ、そうだ。昔から困っている彼を見るのが好きだった。なんでもないことに困って、それどころか自分で困ることばかり集めて、そういうところは可愛らしいと思う。立孝はにこりと笑うと忠興の手を取る。
「きっと楽しいですよ」
「いや、しかしだな、お前が言うほど……」
「立孝殿もそう言うのだから行けばいいのに。いいですよ、私も別で動きますから二人で楽しんでればいいじゃないですか」
光秀がそう言うと、忠興も思うところがあるらしく、また溜息をついて立孝の手を握り返した。
「わかった、わかった……今度な、今度そうしよう」
「よかったですねぇ、立孝殿……じゃあ私はもう少し寝ようかな」
なんだか今ならばよく眠れそうだ。忠興は光秀をじとっと見ていたが、立孝に声をかけられそちらに行ってしまったようだ。
遠くなる話し声を横に、光秀は目を閉じる。嗅いだことのない花の香りが鼻梁をくすぐり、柔らかな陽射しに温まった体は再び眠りについた。

2024年11月13日