翌週、ギルバートは昼過ぎに書庫に向かい約束通りウシオに勉強を教えることになった。
彼女の理解度を知るために、一度資料を見ずにこちらの質問に答えてもらうことにした。簡単な身体構造などは頭に入っているようだ。
「今、働いているところは内科で……あの、他の科目はほとんどわからなくて」
「そうか……私も本分はそこに近いんだ。でもある程度なら他も教えられると思うよ」
人の体がどのようになっているか、骨や筋肉の部位に始まり、血管の話、そして内臓、肺、脳などの話を一通りしてその日は終わった。ウシオは看護師と言っても実質には助手のようだ。詳しくは聞かなかったが、読み書きはできるが学校に通っていなかったのかもしれない。
遺伝子の話になるまでにはもう少しかかりそうだ。この調子だとコーディネイターとナチュラルの身体構造の差の話を今後30分で終わらせられるのだろうか。
サハラはそういった二人の様子を本棚の向こうから伺っていたようだが、時間ぴったりになると本を抱えてテーブルに近寄ってくる。
「お疲れ様です。お茶でもしましょうか」
「えっ……もうそんな時間なんですか!?すみません、私の覚えが悪くて」
「いや、こちらはちょっと楽しかったよ……すまないね、君は真剣なのに」
人に教えたことがあるといってもそれまでは研究者相手だった。こうして市井の人々に勉強を教える機会がない。それまで当然のように使っていた言葉なども伝わらないのだと気がつけたから、次は言い換えも考える必要がある。そう思うと、楽しい。
ああ、今……楽しいと、思ったのだ。ギルバートの心の底で冷え切っていた何かが、わずかな血の巡りで拍動するのを確かに感じた。同時にふと気がついてしまう。自分は、こんなふうに笑ってはいけないのではないだろうか。そうだ、こんなのうのうと生きていては……。
そう思った刹那、サハラが大きな音を立ててコーヒーをなみなみ注いだボトルをテーブルに置いた。その音で我に返った。何を考えているのだ。自分が恐ろしくなる。日が経つごとに、自分が経験したこと、しでかしたことが不明瞭に暈されていくのだ。それもまた、怖い。今のように急にまた聞こえるのだ。
ギルバートは二人に気取られぬよう息を吐き、コーヒーを受け取った。苦味が脳に行き渡る。昔と比べたらガラクタのような脳だが……役に立てているのだ。過去も今も、不明瞭でよくわからないものにしておきたくない。
ギルバートはその日から、少しずつだが……書庫で見つけた目録や資料を眺めるようになった。多くが電子保存になった今も、過去のものを全て集約はできていない。紙の束には人の叡智が詰まっている。
また、その週のうちにリハビリ士が面会に来た。それもまた、ギルバートの生活を変える一つとなった。リハビリには当然ながら無縁だったから……何をするのだろうかと思ったが、しばらくは簡単なストレッチや、可動域を広げるためのマッサージを行うそうだ。
「シブヤと言います。よろしくお願いします」
溌剌とした女性のスパルタぶりに、このときのギルバートはまだ気がついていない。
ギルバートがウシオの過去を知ったのは、勉強を教え始めて1ヶ月が経った頃だった。あらかた体の組織を理解し、疾患の話を軽くし始めたとき、ウシオの表情が曇っているのを気にして声をかけたのが始まりだった。
「何か……悲しいことでも?」
「いえ、なんでもないんです……ローランさんの前でこんなことを言ってはいけないって、わかっているんですが……わたし、こうやってお勉強を教わってお医者さんになれても、ちゃんと人のお役に立てるか……それが心配で……」
「君はきっと、人の心のわかるいい医師になると思うよ」
「あの」
そう言ってウシオは一度ギルバートの方を見て……一回顔をくしゃっと歪めた。痛そうだ、と思った。どこが痛いのか、ギルバートには心当たりがありすぎて指摘するのが怖い。
「わたし……本当は、男の人が……」
怖いんです。
ウシオは消えいりそうな声で、それでいてはっきりとそう言った。それまで一生懸命テーブルに向かい、タブレットと紙のノートを駆使してペンを走らせていた彼女は……男性が、怖いという。
ギルバートははた、と言葉を失ってしまった。そんなことはない、と言おうとしたのは……自分の性別もそうだが、彼女の振る舞いからしてもとてもそうには見えなかったからだ。しかし、同時に思い出したのだ。ウシオもまた、現在のギルバートが男性に対して覚える言いようのない恐怖感、忌避感を……知らないのだ。きっと、気がついてないかもしれない。そうであれば、彼女の弁を聞いた方がいい。
「私はオーブの生まれではないんです。……という国を、ご存知ですか」
彼女の出身地はギルバートも視察で行ったことがある。長らく続いた紛争で崩壊したが、停戦協定をむすび復興に向けて着実に歩んでいる国だったはずだ。
「私は政府の兵士としてリクルートされたんです」
「……君が?」
とてもではないが、兵士として使えるとは到底思えないし、そもそも某国が停戦したのは5年以上前のはずだ。年齢が……いや、まさか。
「囮部隊でした」
紛争は市街地をメインにしていた。そうか、反政府組織に紛れ込むための……眉根を寄せるが、それを糾弾していい資格はギルバートにはないのだ。
「だからわたし、学校に行けなくて。でも、わたしが頑張れば、母も父もいい暮らしができると……騙されて」
両親は激化した戦闘に巻き込まれて相次いで命を落としたのだという。孤児となった囮部隊の彼女は、最初は政府側の軍人たちに、次は潜り込んだ反政府組織の男たちに強姦されたそうだ。おそらくだが、囮というよりはたまたま生き残っただけの自爆テロ要員だったのだろう。少女は疑われにくく、彼女らの体目当てに近寄るものも多い。そうすれば多くの男、いや、戦闘要員を巻き込むことができる。そしてその生存者の多くが性目的の人身取引に利用されたのは、ギルバートも聞いたことがある。
……かつて地球では臓器の密売が闇の商売のひとつとして実在していたそうだ。それは遺伝子研究とそれに伴うコーディネイターの運用が始まる頃には撲滅された。培養臓器が急速に広まり、リスクしかないマフィアとのやりとりを省略した上で、安全に臓器移植ができるようになったからだという。ギルバートもその辺りの話は文献でしか知らない。
殊更、子どもの臓器は高く売れたのだと言う。親、つまり子どものスポンサーは我が子の臓器移植のためならばいくらでも金を出すからで、結果として多くの当てのない子どもたちは言葉巧みに騙され捌かれた。科学技術の発展とともにそういったことは根絶された。
しかし、臓器売買がなくなったからと言って、不幸な人間が減るわけではない。子どもを商品とした人身取引は、臓器が売れなくなっただけでは消滅しなかった。性目的の人身取引では多くの少女が今も売買されている。また、あらゆる軍事保有機関も考えうる限りの言い訳を並べ立て男女の別なく子どもたちを兵士として使用している。取引された中でまともに学び、幹部候補として育てられる子どもはほとんど皆無と言っていい。よほどの理由がある場合だけだ。しかし……ギルバートはそういう子どもしか知らない。
前線で使い捨てにされ、生き残ったとしても戦争が終われば『旧』少年兵として置き去りにされる大人になった彼らの目を知らない。ギルバートが知る少年たちは皆ある程度特別な人間だった。そしてそれはけしてコーディネイターであることを根拠とはしないのだ。運命としか言いようがない。
ウシオは、おそらくそうやってギルバートが見捨ててきた多くの運命の一人だったのだろう。
「でも」
ウシオは長い沈黙の後にこう話した。
「私はサハラちゃんに助けられたんです。サハラちゃんが私を医療キャンプに連れて行ってくれて……病院の跡地で、戦争がとっくに終わっていたことを知りました。わたしはずっと、そこのキャンプも政府の施設だと思っていたんですが……サハラちゃんが、もういいよって」
あの時わたしは、軍人をやめられたんです。ウシオはそう言って、目を伏せた。
サハラとキリサキは、かつてあちこちの紛争地域で医療提供をしていたそうだ。派遣期間が終わり、キリサキはオーブにある病院に勤めることになり、サハラも続いて移住したのだという。ウシオを連れて。
「ここで、海を生まれて初めて見ました。キラキラと光っていて……ここで幸せになりたいと思って、わたしからサハラちゃんにプロポーズしたんです」
その言葉とともに奥の方からドタンと大きな音がした。サハラが転ぶなり本を取り落とすなりしたのだろう。わざとかどうかはわからないが、思わずウシオと顔を見合わせて笑ってしまう。
「……それでもまだ、男の人が怖くて。仕事ではできるだけ女の人しかいないところにいるんです。だけど、あの……ローランさんとはこうしてお話ができるんです。だから、だからわたし、変われるかもしれないって……思ったんですけど、まだわからなくて」
彼女の地獄は、ギルバートにはすべてわかるものではない。他の男よりはわかるところはあると思うが……いや、それもまた驕りだ。しかし……。
「……その答えになるかはわからないけれど。私にとって君は、希望になるかもしれないね。私の昔話を聞いてくれるかい」
詳細は伏せたが、ギルバートはそこで……自らの経験を語った。もしもこれでウシオに自らの素性を悟られても構わないと思ったのだ。それは本棚の向こうにいるサハラにも聞こえていたはずで、彼女もまたギルバートの名を知る一人だが……ギルバートの言葉を遮ることはなかった。問題がないと判断したのだろうか。
一通り話して気がついた。それはとても不思議な体験だった。自分の経験を……核心部は伏せたとはいえ、思った以上に冷静に話している自分がいたのだ。言葉にすることで、自分の身に起きたことが少しずつだが整理されていく気がした。
ウシオは、ギルバートの言葉を聞いて……何を思ったろうか。それはわからなかったが、まっすぐとこちらを見てじっと聞いていた。それが良かったのかもしれない。
とにかく不思議だったのだ。ギルバートが受けたものは正しくなかったと言い切ったキリサキの言葉も思い出した。いまのギルバートは自らに起きた事象を正しくないと言えるのだ。それも冷静に。昨日までは口に出せばそれだけで世間が歪み、眩暈と吐き気で起き上がることもできなかったと思う。
「どうしてだろうね」
素直にそれも口にした。ウシオも、どうしてでしょうと首を傾げた。
こんなに急に回復するとは思わない。これがウシオという共通の経験者を見つけたからだとしたら……間違いなくギルバートにとってウシオは希望たりえた。ウシオがギルバートを恐れないように、いつかギルバートも恐れを持たずに生きることができるのかもしれない。
それから穏やかな関係は続いた。
聞けばウシオはレイとほとんど年が変わらなかった。レイ。あのか弱く、それでいて素直な強さを持つ魂に、ギルバートがしたことは奪うことだけだったのではないだろうか。ラウと同じように生きることも、死ぬこともなかった。望みを持って生きていれば、いつか彼の運命は自分ではない誰かによって開かれていたのかもしれない。
ギルバートはずっとそれを恐れていたのかもしれない。もしもその運命を手にした時に、レイの眼差しが自分をいったいどう映すのか、ということを。
ウシオに対してギルバートが向ける視線は、苦しい過去を戦い抜く仲間のようでありながらも、どこかで引いたものなのだ。ああ、この目を……レイに向けていたら、違ったのだろうか。
「これは難しいだろうね」
ウシオはけして飛び抜けて優秀ではないし、どこかで幼さも残っている。しかしそれはいつか来たる明日への推進力なのだとも思う。それは、間違いなく人間の証明たらしめている。
「随分と調子がよさそうですね」
キリサキとの面談は、ここにきた当時は1日に3回。書庫に入る頃までは2回に減り、そこからしばらく経った最近は夕方1回だけとなっていた。
元々彼女が勤務する病院との掛け持ちだったが、当初通りの話になったという。彼女の仕事の話も少し知る機会ができた。上司である老医師は、素性は知らないながらもギルバートを案じているそうだ。けして会うことはないだろうが……少し前ならば、嫌だったはずの男性からのそうした想いを、今は少しは受け取ることができている。
安寧であるはずだった。だが、ここ最近のギルバートは新たな不安が出てきたのだ。
「……発信器、ですか」
キリサキはそう言うと、少し難しそうな顔をする。
「ええ、私は……コンパスだけでなく、世界から見ても紛れのない戦争犯罪者です。この指先が起こしたことについて、ここ最近考えることが増えました。サハラも、ウシオも……過去の私であれば、きっと見殺しにしたに違いない。キリサキドクター、あなたでさえも」
「……そうであったとしても。私はあなたに発信機をつけるということを容認できません」
これは、ギルバートがずっと考えていたことだ。この体はもう、ギルバート・デュランダルではなく、ハルバート・ローランなのだと思えてしまえばよいのだが、だからといってかつての自分を完全に殺すことはできない。殺したくもない。共に生きようと思う。あのとき傷ついていたはずの自分を、傷つけたはずの人々の魂を抱いて生きるためには、罪を贖い……自らを律しなければならない。そのために、必要なのだ。自分が絶対にここから離れないという証明が。
キリサキはしばらく考えていたようで、唇に指をあてていたが……ふと息を漏らし、こちらを見た。
「わかりました。実はオーブ支部からはそういうことをせよという要請がきていたのです」
「そうであれば話が早いのではないでしょうか」
「いえ、しかしそれではあなたのできないことが多すぎる。デュランダルさん。以前、パソコンの使用を許可しましたが……申し訳ありませんが、いくつか履歴を見させていただきました。遺伝子工学のジャーナルにご興味が?」
「……」
それは、そうだ。ウシオに勉強を教えるかたわら、少しだけパソコンを調べ……かつて自分が在籍していたアカデミアの紀要や論文を見ようとしていた。それは一応表立っては、ウシオのためだったが……実際は、知りたかったのだ。過去の自分が打ち出したものが、何を示すのかを。同時に様々な別の学会の資料も見ようとしたが……すべて閲覧制限がかかっていた。
キリサキはギルバートの様子を見て、頷いた。何かを合点したようだ。
「それではこうしましょう。発信機は付けてもらいます。しかし、あなたの権利を拡大しましょう。閲覧制限は解除してもらいます……デュランダルさん。ここでは難しいかもしれませんが、いつか、論文を書いてもらえませんか」
「……どういう、主題のものでしょう」
「もちろん、遺伝子に関わるものです。遺伝子は、個の尊厳や幸福に関わるか。それは多くのデータを必要としますし、いずれここだけでは足りなくなるでしょう。それくらい回復してください……それでもし、かつての自分が正しいのではと思ったら……」
私と、討論しましょう。
キリサキはそう言って笑った。彼女はこんなに楽しそうに笑うのだと思った。
きっとそんな日は来ない。しかし、そうでなくとも、現代の医療や患者へのアプローチでキリサキと語り合いたいことは山ほどある。サハラとも、ウシオとも。話さねばわからない。話しても、わからないことは多いと思う。それでも話さねば、情報は増えることはないのだ。
頷くと、キリサキはこんなことを言った。
「私の親友があなたを心配しています。いつかあの人とも会えるでしょう。アルマカウンセラーを、覚えていますか?あなたが以前、私に唯一の友人と紹介された方のように、あの人も私にとってかけがえのない人間です」
ああ……そうだったのか。途端に、少し目の前が開けたような気がした。アルマは、ずっとギルバートを注意深く観察し言葉を投げていたと思う。キリサキと彼女がどのような会話をするのかはまだなんの想像もつかないが、きっとそこに流れるものは暖かなものだ。
「……きっと伝えてください。私は、やっと今、人としてここに立ったような気がするんです」
天窓から覗く空を、じっと見ていた。四角く切り取られた夜空はかつて自分たちがいたところすら語ることはない。ただ星が、見えるだけだ。彼らが語り出すことはない。そこに誰がいるのかも、何が起きているのかも。
昔、ラウがレイに見せていた古典映画を思い出していた。絵本のような映画で、どう見ても子ども向けのものだと当時はさして興味もなかった。星を眺めるふたりの種族の違う動物は、今思えばラウとのふれあいにも似ていた。多くの不幸の中には、必ず心根の清いものも存在していたと思う。見ていなかったのはギルバートだけで、本来であればそこに存在していたのだ。
今も……ギルバートは、考えている。あのときのレイの横顔を、幼い耳にかかる金糸の如く細やかで煌めく髪の毛を。
彼らの声を思い出していた。今はまだ、会うことは叶わないが……いつか、会うことがあるのならば……その時に彼らの声を忘れていたなんてことがないように。
ギルバートは寝室に新たに置いたデスクに向かう。首と腕についた発信機は、戒めではない。これは一種のまじないだ。一人ではないと、気づくための。そして小さなパソコンに向かう。出すあてもない論文を、少しずつ、書き進めていく……文字を打つ音が、遠くに聞こえる波の音に乗って、やがて消えていった。
了