地に降りて、幾許 4

ギルバートが初めてこの地に降りて1ヶ月が経つ。まだまだ昼間は暑いが、夜になると冷えるようになってきた。
この日もキリサキは眠っているギルバートの様子を見に行った。角部屋は窓部分が広く、日没の金色の輝きを赤い空がしっかりと抱いているのがよくわかる。
ギルバートはちょうど目が覚めたのか、ベッド上でキリサキをじっと見ていた。薄く開いた唇が何かを言おうとしていたが、こちらが声をかけるとそのままこくんと会釈をする。
濃く縁取られた目元は、少しずつ本来の余裕を取り戻しつつあるが、まだどうなるかはわからない。
再び死の渇望に駆られることがあるかもしれない。治った、元気になったと喜んでいた翌日に自ら命を断つ患者も少なくない。ギルバートはすでに二回アクションを起こしたハイリスク患者でもあるのだ。油断をするつもりはない。本人がそれを望まなくとも、生きている以上のことはないのだ。
キリサキのそんな感情を死ってか知らずか、ギルバートはのそりと起き上がる。記録には今日の食事摂取量は半量だった。今までで一番進んだだろう。
少しずつ、状況はよくなってきている。しかし、一つできることが増えると、困りごとも増えるのが人間と言うものだ。
ギルバートは以前よりは滑らかにこう話す。
「時々……居ても立っても居られない時がありまして……困っています」
どうやら劇症期の薬の恩恵が少しずつ減ってきているようだ。切り替えの話をすると、ギルバートは少し目を閉じるようにして笑う。彼のそう言う仕草がいつ勝ち取られたものなのかは、キリサキの知るところではない。
「昔から、そうだったんだと思います」
いてもたってもいられずに研究に明け暮れ、自らの使命を信じた結果なのだろうか。回復の速さやそう言った特性は先天的なものが多い中で、それゆえに自らの運命とやらを見誤ってしまったのだろうか。
キリサキは口にしないが思うのだ。かつてギルバートが打ち出した計画が果たされてしまった場合のキリサキ自身の運命とやらを。まだそれを問えるほど、ギルバートは回復していないし、それをここで言うつもりもないが……。
「資料室を使ってみませんか」
「資料室?」
キリサキの提案にギルバートは目を丸くする。最近は少しずつ起きていられる時間が増えた。すでに許可が降りている資料室や書庫を余暇として使えるかと思っていたのだが。
「私もあの部屋に何があるかを知らないんです。もちろん掃除をしながらになりますが、サハラナースにも手伝ってもらえば、何か発見があるかもしれません」
「……いいのですか。私は……」
「デュランダルさん。これから多くの義務や制約が発生します。今のところコンパスはあなたの移送については言及してきませんし、私としてもできれば環境を変えたくはありません。きっとこのまま、ここでハルバート・ローランとして生きることを運命付けられていると思っていただいて結構です」
ギルバートはその言葉を黙って聞いていた。なにを思っているかはわからない。最初の夜に浜辺で泣きながら吐露した、愛する人の元にいけない、彼らすら怖いからという切実な訴えをキリサキは忘れることはない。
「しかし、生きているあなたには当然、権利が発生します。知ることもその一つです。ハルバート・ローランとして生きる上でも、あなたは知ることを求めていい」
「……ずっと」
ギルバートが口を開く。そこにあるのは悔いだろうか……辛そうな顔をしているが、もう最初の頃の弱った顔ではない。
「私の何が間違っていたのか知ることはありませんでした。今も……それを知ることは怖かったと言っていい。しかしながら、理解しなければ。どうしても……私は乗り越えなければならないことがあるんです」
「それは、前に話されていた……方々のことですか」
「……覚えていたんですか」
「ええ、忘れませんから」
そういえばそうだった……と、ギルバートは微かに笑った。それから少しだけ、彼がかつて愛したと言う数人の人間の話を聞いた。知っている名もあったが、あえて知らないようにして聞いていた。ギルバートにとってはかけがえのない存在だったのだろう。キリサキの知識でそれを飾るのは間違っている。
「……私が、知りたいと思っても本当にいいのでしょうか」
ギルバートのそんな言葉に、キリサキは彼の予後はある程度明るいのではないかと感じ、これがただの願望でないことを祈った。
そうして、翌週からギルバートに対し書庫を解放する運びになったのだった。

翌週の朝のことである。夜半からの雨も上がり、煌めく午前の日差しが海に注ぐそんな穏やかな空気の中、ギルバートはひとり愕然としていた。
「まあ確かに、あまり歩く生活はしていませんでしたからね」
サハラはそう言って慰めてくるが、あまり耳に入らなかった。
最初は新調した眼鏡が合っていないのだと思っていた。妙に足元がふらつくと言うか、自分ではまっすぐ歩いているつもりなのにどうもうまくいかない。そうこうしているうちに廊下からエレベーターに乗るタイミングで目測を誤り転倒しかけたのだ。たまたま隣にいたサハラに抱き止められなんとかことなきを得たが、この一ヶ月動かなかっただけで歩くことすら満足にできなくなっているという事実はギルバートにとって衝撃でしかなかった。
「いい機会です。そろそろリハビリ士を派遣してもらいましょう」
一部始終を見ていたキリサキがそんなことを言っていたが、聞こえていなかった。
エレベーターで2階に降り、長い廊下を歩く。途中の渡り廊下は壁が全面ガラス張りになっており、居室とはまた違う角度の海が見渡せるのだが、ギルバートがそれを知るのは次に書庫に来るタイミングだった。つまり歩くので必死になり周りを見ると言う余裕は一切なかったのだ。
「ああ、ここですね。私も中に入るのは初めてなんですよ」
サハラがそんなことを言いながら、書庫の鍵を開ける。この建物は随分とクラシックな作りをしているようで、書庫の鍵も物理式であった。ぎい、と重たい音をさせて厚い扉が開く。
「……」
ギルバートは雑然とした書庫を見ていた。特に散らかっているわけではないのだが、全体的に埃っぽく、あちこち蜘蛛の巣が張っている。
手前は簡単な応接室のようになっていた。おそらくミーティングを行うことを想定しているのだろう。椅子がいくつか積み上がっていて、背の低いテーブルが置いてある。いずれも埃が薄く積もっていた。書庫は向かって右側に整然と本棚は揃っているが……中身がどうなっているから、こちらからでは伺えない。
埃を払いながら、キリサキは書庫を一瞥する。
「掃除をしながらにはなりますね」
サハラとキリサキとギルバートの三人で、少しずつ掃除を始めた。
ギルバートがテーブルとソファの埃を払い、床に落ちたそれらをサハラが手早く箒で掻き集める。キリサキは応接間の奥にあるデスクを掃除している。
「いずれここをデュランダルさんが使えるようにしたいんです」
キリサキはそう話すが、立派なデスクだ。こんなところで何かをすると言うことが想像つかない。昔であればそれこそ研究結果をまとめた論文を書いたり、査読から戻ってきたものを修正したり……政治の道に進んでからは、審議会の資料を確認したり、こう言う形のデスクは主戦場の一つでもあった。が、今のギルバートが使うにはあまりに大きい。
「……あれ、これ、モニタですね。デュランダルさんわかりますか?」
呼ばれて近寄る。袖についた埃を払いながら、注意深くデスク下に潜っているキリサキに倣い覗き込むと……型落ちであるが、比較的新しいモニタが鎮座していた。デスク下にあったからか、埃もそこまでついていない。キリサキはそれを引っ張り出す。そこそこ大きなものだが、彼女は難なくそれをデスクに置いた。
いわゆる公的機関が使うモデルのモニタだ。
「本体もありそうです」
キリサキは再びデスク下から大きな筐体を動かそうとする。小型で中身はわからないが……数年前のモデルだろうか。ギルバートはこの手のものは自分でいじりがちで、筐体の外見だけ見せられても年式はわからない。
「電源が入れば分かりそうですか?すみません、私はこう言うのに疎くて」
キリサキが時折話すかつての仕事場の話では、非常電源で最低限の端末しか使えない事態も多かったそうだ。戦地にいればそれはそうであろう。換気扇と電灯がついたのであれば通電するだろうか、埃に引火しないように注意深く電源を入れる。
見慣れた画面だ。パスキーを求められたが……初期設定のままだろうとキーを打つと、そのまま内部に入ることができた。
「使えるんですね。デュランダルさん、いずれこれもあなたに貸与しましょう」
「良いのですか。私は……」
「もちろん制限はかかるでしょうが、何もしないよりは何かしたほうがいいでしょう。サハラナース、報告書を頼めますか」
そう言うと、応接用の椅子をガシャガシャと鳴らしながらサハラが返事をする。キリサキと言いサハラと言い、やたら筋力がある気がする。
「はーい。まあこのお部屋ごと使っていいなら許可も降りるでしょうね」
「頼みますよ。成果を一つ挙げたことですし、ひとまず休憩しましょう」
キリサキが笑う。彼女は……最初にここに来た時に、デュランダルを追及しているような目をしていると思ったものだが……実はそうではないと最近気がついた。彼女はじっとこちらをみているだけなのだ。まるで全てを記憶するように。
彼女は忘れられないのだという。全貌は知らない。ただ先天的にそう言った特性を持つ人間は、コーディネイターという概念ができるはるか以前から存在するということは自明だ。卓越した才能でもてはやされる人間もいれば、それらが逆に障壁となり世間から隠されていた歴史があることも知っている。ギルバートがかつて掲げた理想は、そう言った人々に光を照らすためでもあったはずであった。今は……もう、わからないのだ。何も正しくなかったとは、まだ言えない。
椅子に座ろうとしたとき、ふと扉の上に……入る時は気が付かなかったが、何かが引っかかっているのが見えた。何かのパスカードだろうか?そう思い、扉に近寄る。サハラやキリサキでは身長が足りないかもしれないが、ギルバートなら届きそうだ。完全に意識がそちらに向いていた。だから気がつかなかったのだ。外からパタパタと小走りで近づいてくる人間の足音に。
「あれ、どうしました?」
サハラがこちらに気がつく。その瞬間彼女もカードに気がついたのか、おやと息を漏らした。
扉を少し開ければ、カードを取ることができそうだ。内開きの扉を少し明け、よろめく足元に力を入れて腕を伸ばそうとしたその時だった。
「えっ」
「……え?」
ギルバートは、扉の向こう側にいる見覚えのない少女と目が合った。彼女はギルバートの姿に一瞬息を止めたような顔をしたかと思えば、みるみる蒼白していった。ギルバートが首をかしげ誰かと声をかけようとしたその時である。
「ひゃ、きゃあああああああああああ!!」
少女の悲鳴に驚き、体勢を崩したギルバートは今度こそ派手に転倒した。ちょうど昼時のことだった。

すみません、と目の前で涙声の少女が頭を下げる。癖のない長い髪はギルバートと髪と同じ色をしていた。
「私が大声を……あげてしまって!その、本当に、びっくりさせてすみませんでした!」
彼女は恥ずかしそうに頬を染め、ギルバートに謝り続けた。そのたびにぶんぶんと頭を下げ、なめらかそうな髪が無慈悲にも振り回されていた。
「被害はこっちだけだから大丈夫だよ」
サハラは呑気なもので、手をひらひらさせている。何故こんなに嬉しそうにしているのだろうか……ギルバートは確かに尻餅をついただけだが、それを受け止めようとしたサハラが前のめりに倒れ、多少本の山が崩れ埃が舞った。サハラは顔から突っ込んだように見えたが、無事らしい。タフな女だと思う。
戸惑い続けるギルバートを起こし、ズボンの埃を払ってやったキリサキは大きくため息をついた。
「サハラナース、減俸の覚悟はできていますか」
ギルバートはこの時、今までキリサキがいつも不機嫌そうな、冷たい目をしていると思っていたのが一切の勘違いであったことを思い知った。それほどこの時のキリサキが明らかに怒っていたからだ。それを見た少女が慌てふためいたようにキリサキに弁解する。
「違うんですドクター!あの、私がお弁当をサハラちゃんに渡せなくて、それでお腹減ったらいけないと思って……受付に行っても人がいなくて……それで……勝手に入ったのはわたしなんです!」
全く……と、キリサキはその少女の訴えを一度留めた。どうやら彼女はサハラの家族のようだ。サハラよりだいぶ年下の……妹だろうか?そういえば、妹がいるという話を検温か何かの時に聞いたことがあったが……。
キリサキは息を吐いてギルバートに向き直り、こう話す。
「こうなってしまった以上、紹介してしまった方がいいでしょう。この方はウシオ・ロマノさん……サハラナースのパートナーです。看護師をされています」
ウシオという少女は、ギルバートに向かってもう一度頭を下げた。パートナー……ということは、つまり……妹では、ないということだろうか。キリサキはギルバートの理解を待たずにウシオに向き直る。
「それで、この方がハルバート・ローランさんです。コンパスで医療の仕事をされていましたが元々体が弱かったこともあり、療養でこちらに。現在はこの施設の書庫長という名目になっています」
嘘は……そこまでついていないのだが、なにもかも違う経歴をすらすらと話され。咄嗟に頷くしかなかった。かつて自分もこうやって誤魔化していたなとふと思い出したし、政界というものは皆こういうことができる人間ばかりではあったが、まさかここにきてその才能を発揮する人間と出会うとは思わなかった。
少なくともウシオはその話をすっかり信じ込んだようで、よろしくお願いしますとまた頭を下げた。
サハラは終始ヘラヘラしながらその様子を見ていた。初めて会った時との差が大きすぎないかと思うが……サハラにとってウシオという人間はそういう存在なのだろうか。
まあ無断で予備のカードキーをウシオに渡していたということをキリサキに追及されることがわかっていたのでそういう態度しか取れなかったのもあるだろうが。キリサキとサハラはそうしたやりとりをしていたのだが、詳しいことはギルバートにはわからなかった。
わかったことと言えば、コンパスオーブ支部は一部が海と接していることもあり、この棟を含めたいくつかの……セキュリティリスクの低い施設は、一般人と導線が同じ道がいくつかあるようだ。
そういえば、ギルバートだって……海に出たではないか。防砂林を超えたらすぐに砂浜があった気がする。あの時は必死だったので覚えていないのだが……。
そして話の流れで、ウシオがサハラの妻であることが明確にわかった。そうか……ここは、それが認められているのだろう。きっと。不思議となんとも思わなかった。別にそれは自分がかつてラウやレイと家族として暮らしていたからというだけの理由ではない。彼女たちが家族であることを、おそらく当時の自分が見たら鼻で笑うだろうなということが分かったからだ。今は、そうは思わない。理由は……サハラを、知っているからだろうか。
ひとまず掃除どころではなくなった。時間も時間だし、昼食を……という流れになった。ウシオはおそらく弁当が入っているのであろう袋をサハラに渡し、またぎくしゃく動きながら声をあげる。不思議な動きをする上に、よく通る声だ。最初に聞いた悲鳴もそうだが……。
「で、ではわたしはこれで……」
「ウシオさん、お昼は食べましたか?」
キリサキはウシオを呼び止めそんなことを言う。いいえ…と彼女が答えると、こんな提案をした。
「ではウシオさんも交えて4人で昼食にしましょう。話したいことがあります」
……話したいこと。サハラのことだろうか。ギルバートにとってサハラは恩人の一人だから、あまりきつい処分にならないといいのだが。
そんなことを思いながら……昼食を取ることになった。
「ローランさんは、脚が……よくないんですか?」
同じ階にある談話室へ向かう途中、ちらちらとこちらを伺っていたウシオはおずおずとそう尋ねてきた。
……ハルバート・ローランという名前を意識しないで生きていたので、慣れない。が、慣れさせるしかない。それによろめきながら歩いているのは事実だ。曖昧に頷くと、ウシオはギルバートの右側にそっと立った。彼女がギルバートが倒れそうになった時に支えようとしていた意図がそこにあったと気がついたのは、ずいぶん後になってからであった。
この建物は、隣の棟にある食堂から定時で食事が届くシステムになっているそうだ。キリサキが食事を載せたカートを持ってきて、昼食の運びとなった。
サハラは……詳しくは教えてもらえなかったが、食べられないものが多く、普段から弁当なのだという。
「意外と体が弱いんです。私」
そう言いながらサハラは弁当をむしゃむしゃと食べている。言動がまるで一致していない。
「私、コーディネイターじゃないので」
そう続けたので、はたとギルバートは目を向けた。彼女がナチュラルだとは思わなかった。
「アレルギー性の反応が?」
ギルバートの問いにサハラはうーんと首を捻りながら、茶を啜る。前に彼女に勧められた不思議な味の茶だが、実はオーブでは一般的なものらしい。
「体調によって大丈夫なときとダメな時があるんですよねぇ」
「つい最近まで、サハラナースはウシオさんの作るものしか食べない主義の人間だと思い込んでいましたが、本当の話だったんですね」
キリサキの言葉にサハラが笑う。
「まあ確かにウシオの作る料理は世界で一番美味しいですけどね」
「ちょ、ちょっと!」
和やかな光景だ。こんな雰囲気で食事をすること自体、いつぶりだろうか……ちらりと掠める、かつての記憶に本当ならば飛び込みたいが、まだそれはできない。
相変わらず食が細いギルバートにしては、今日はいつもより食べられたようで、こうして食卓を囲むのって大切ですよねとサハラはしみじみ口にしていた。彼女にも、家族はいるのだ。こうして。
「あの……ローランさんは、お医者さんだったのですか?」
食器を台車に戻そうと立ち上がった時、ウシオがそう聞いてきた。医者。確かに、そう言う一面を利用していたが……否定せずにいると、ウシオは決心した顔でこちらにこう言った。
「あの、お勉強を教えてください。私、お医者さんになりたいんです」
キリサキもサハラもこちらを振り向いた。ギルバートには彼女に勉強を教える資格もないし、できるできないに関わらず答える言葉もない。必然として、黙るより他なかった。
沈黙に負けたウシオが今までの言葉を打ち消そうとした瞬間だった。アイスコーヒーをボトルから直飲みしてキリサキがこう言った。
「いいかもしれません。ローランさん、お願いできますか?」
「いいのですか。私は……教える資格など、どこにも」
「だからです。そう思っているのならなおさら教えた方が良いと思います」
キリサキの言葉の真意が掴めないが、ウシオは明らかに嬉しそうにしている。何が何だかわからないがそのまま許可が降りて、彼女には新たに入館カードが作られた。毎週2回、ギルバートの体調に合わせて勉強を教えるという奇妙な師弟関係がここに生まれたのである。

午後に再開された片付けは難航を極めたが、ひとまずテーブルとデスク、椅子などは綺麗に揃え、埃は取り去った。
しかし部屋の奥までびっしりと並ぶ本棚の片付けとなると長い目になりそうだ。キリサキはあまりの文字の量に溜息をついていた。恐らく、忘れられない弊害がこう言うところに出るのであろう。しばらくはサハラ、ギルバート、ウシオの三人で本棚の整理にあたることとなった。
そしてサハラが作業している間に、ギルバートがウシオに短い間だが勉強を教えるというシステムを作った。ギルバートの体調が悪い時は、サハラとウシオが交代で片付けをするそうだ。
最初の週は、ギルバートが発熱してしまい、いずれも勉強を教えるに至らなかった。慣れない作業もあり疲れが溜まったのだろうか。キリサキもサハラも無理をしないようにと口を揃えてたので、ウシオが勉強に使っているという資料の写しを眺めながら、できるだけ眠った。
薬の効きがよくなったのはいいことで、悪夢もその頃には少しずつ見なくなっていた。それでも、明け方になるとひどく不安に襲われることは時折あったが……何故だろうか、大丈夫だとどこか別の視点で自分がそう思うような……不思議な体験を何度かした。
キリサキはギルバートのそう言った様子を見てこう言った。
「回復傾向ではあります。ですが、まだ油断はできないと私は考えています」
回復過程で、やっと調子がよくなった頃が危ないそうだ。体が動き、余計なことを考える余裕が出てしまう時が自らの体に及ぼす害は……ギルバートもここに来るまでで経験した。それを言えるほどまだよくはなっていない。それはわかっている。
キリサキはこう続けた。
「ウシオさんのお勉強の時間は30分程度に留めるように伝えておきます。また、週に一回リハビリ士が来ることになりましたが、こちらも最初は室内で短時間行います。他の時間は無理せず寝ていてもかまいません。少しずつ体力をつけていきましょう」
相変わらず食事が進まないことなどから、高栄養のゼリーなどが少量出ることになった。ある程度体が動くようになった気がしたが、やはりまだ足がもつれるようだ。それもいつかリハビリでマシになるのだろうか。
その日の夕方、海の方から雲が湧き立つのを眺めていたら、俄かに広がった雲が太陽によって染められた赤い空をあっという間に覆い尽くし、激しい大雨になった。天窓を叩く雨粒が叫び声のようだ。
ああ……ここに来た時に、思い出した聖典が本当になってしまったようだ。雨は続き、海が押し寄せ……世界にたった一人ぼっちになった自分を想像していた。木でできた船が濡れて香りたち、いつ終わるかわからぬ旅路は希望とも絶望とも言えない色をしていた。
……神は、いない。
しかし、人間には神と神にまつわる物語が必要だったのだ……。
そんなことを考えているうちに、再び雨は上がり、何事もなかったように空は輝き始めた。
ふと天窓が気になった。ガラスの向こうにはもう夜がざわめいている。強い光の中でも確実に向こうには宇宙が……あるのだ。あの場所に……そう思って、天窓を開けた。重い戸を開くとむせかえるほどの湿度と同時に、暖かな海からの風が部屋に無邪気に転がり込んでくる。そして光のさす向こうに抱かれるように、夜の……宇宙のそのままの姿があった。

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