地に降りて、幾許 3

ああ、人々の魂の溶け合う場所……ギルバートは白波に歯向かうようにそこを目指して歩いて行く。素足が沈み込む時、このまま彼らの元へと還る喜びすら感じられた。ああ、待っていてくれ……私は……。
気がつくとギルバートは、何事もなかったように自宅の書斎にいた。いつも通りの革張りの椅子だ。不審に思うが、だんだんとそれまでの記憶が不明瞭になっていく。眠っていたのか?今まで見ていたような光景は、全て夢なのだろうか……?
立ち上がって気がついた。目が見えている。それまでかけていた眼鏡はどこにもなかった。愈々、今までの記憶は薄くなっていく。そしてギルバートは気がついたのだ。後ろにある扉を開け、客間を抜けた先の寝室に……ラウとレイ、あの二人がいるはずだ。
迷わず扉を開けた。愛しい魂たちとの再会を果たすため。
「ラウ、レイ……!」
そこには誰もいなかった。視界が歪み、ギルバートは思わず目を閉じる。再び目を開けると、そこはあの悍ましい、思い出したくもない惨劇の場所だった。ここで、ここで犯された。体を傷つけられ、何もかも取り上げられた。男たちのあらゆる欲望の捌け口にされた、ここで、ここで……頭の中で何か強い電流が走ったようなわけのわからない緊張が、ギルバートの呼吸を乱し立つことすらままならない。
「ギル」
驚いて振り返る。誰もいないと思われたそこに、こんなところには絶対にいないはずの二人がいた。
ギルバートは……そのとき、理解してしまったのだ。目の前にいる愛おしいはずの二人が、その二人でさえ、あの美しく聡明で安らぎを与えてくれたラウとレイですら、今のギルバートには恐ろしくてたまらないのだ。
嗚咽を漏らして蹲る。やっと会えたというのに、それはあまりにも遅すぎた。もうこの魂はこの二人と一緒にはいられない。あの男たちの下卑た眼差しがそこにあるわけがないのにも関わらず、ギルバートはこの二人の姿を見ることもできなければ、声を聞くことすらたまらなく怖い。全ては壊れ、汚れているのだ。体も心も、魂ですら。この二人はあんな男たちとは違うというのに。
「ギル、どうしたの?」
「随分と珍しいこともあるものだ。君がそんな姿を見せるなんて」
声が響くたびに、壊れた魂が音を立てて崩れていく。目を閉じているはずなのに、耳を塞いでいるはずなのに、世界の全ては混沌に帰した。違う、こんなことを望んでいたわけじゃない。こんな結末は望まない!
いやだ、ちがう。
「デュランダルさん!」
その時、破裂音のような音と共にあまりにも力強い光が押し寄せ、苦しくて目を開き顔を上げた。
ざば、と音が響く。海だ。そうだ、ここに行かなければならなくて。しかし、それでは……。
考える間も無く、声の主であるキリサキの手がデュランダルの手首を掴み、抵抗する細い体を押さえつけた。砂浜から海に入ってすぐの、少し深くなった場所で、ギルバートはキリサキに発見されたのであった。

濡れて素肌に貼り付くシャツを一迅の風が撫でる。それをぼんやり感じながら、ギルバートは表情を崩すことなく、はたと涙をこぼした。
それまでかけていたはずの眼鏡は、気がつけばどこにもなかった。波にさらわれたそれは、ギルバートの淡い期待のように、もうこの手に戻ることはないのだ。簡単な作りの黒縁のグラス一つなくしただけで、いまのギルバートは世界を正しく見ることもできない。白くぼやける世界に漂うようだ。
これを絶望というには明るすぎる。
「私は……」
乾いた砂浜がギルバートの罪を知らないまま、好奇心を殺すこともなく服や肌にはりついてくる。それらを払う気にもなれなかった。
一方で心は想像以上に凪いでいた。それは海からの夜風のように。そうだ、ずっと呼び声だと思っていたこの音は……波と、この風の音にすぎない。勘違いだったのだ。総て、知っていたはずなのに。
ギルバートは、ぽつり、ぽつりと言葉を口にし始める。涙と共に溢れ出る言葉には絶望のインクが色濃く落ち、砂浜を濡らしては消えて行く。次第に様々な感情が滲み始め、顔を歪め啜り泣いた。
「もう、会えないのはわかっていたのに、会えて、嬉しかったのに、どうして、どうしても、思い出し、て……違うのに、それも、わかってて、でも」
そうしたギルバートのたどたどしい訴えを、キリサキはただ隣に座って聞いている。彼女の服もまた濡れているだろうに。ギルバートを海から取り返したキリサキは、この身を砂浜に座らせたのだ。彼女に担がれるようにしてここまできた。歩くことはできた気がしたが、力を入れるために何をしたらいいかまるでわからなかった。
白波が遠い。今もまだ、違うとわかってはいるにも関わらず海からの声を聞きたいように聞いてしまう。
ギルバートはしばらく嗚咽を漏らしていた。記憶の中だけの彼らすら、もう安らげるものではなくなってしまったのだ。
そういったことを、話したと思う。それをキリサキは黙って聞いていた。ラウやレイのことを知らないはずの彼女はギルバートの様子に対し静観の姿勢だったが、やがてギルバートの言葉数が少なくなってきた頃、口を開いた。
「デュランダルさん、私は医師です。医師はあなたを裁くことはできない」
昼間と同じ話し方のはずだったがどこか力強かった。その声にギルバートはわずかに顔を上げる。
「あなたは本来ならば司法によって糾弾されるべきでした。しかし同時に、贖うための時間や環境も用意されるべき人間でもありました。残念なことにそれは叶わなかった。人として一番忌み嫌うべき暴力にあなたは晒されました。私はそれに対し心から無念に思います。なぜならそれは間違っているからです。あなたがあのような目に遭うことは、けして正しくなかった」
思い出したく、ない。しかし、思えばそれらに対して真正面から、ここまであの日々を否定されたのは初めてだったかもしれない。
潤む目尻を指で拭い、キリサキの方を見ると……よく見えなかったが、おそらく彼女は怒っているのだと思った。
「そういった輩のせいで、あなたは自らを取り戻すことすら困難になってしまった。苦しかったでしょう、痛かったでしょう……しかし、それはけして贖罪ではありません。私は……デュランダルさん。あなたが生きて贖うために医師としてここにいます。勘違いなさらないでください。あなたはとんでもないことを起こした。だからこそ、あなたはあなたの命を手放してはならない」
キリサキの瞳は、じっとこちらの目を捕えて離さないが……言葉とは裏腹に、憐憫すら漂わせていた。彼女はギルバートの手首を再び掴んだ。それは、怖しいほどに強かった。強く、暖かい手だった。彼女は生きている。生きているということはこれほど力強く、それでいて燃え盛るように熱い。
「あなたほどではありませんが。私も人間の欲望を叶えるために造られた人間です。結果として私は彼らの希望を果たさずここにいますが……それでも、すでに生きていますから。戻りましょう……サハラナースが探しているはずです」
キリサキはサハラに連絡を取ろうとポケットを探り……微かに笑ったような声が聞こえた。
「デュランダルさんは眼鏡を、私は通信機を無くしてしまいました。新調する言い訳が見つかったので、今度オーブ支部に請求してやりましょう」

ギルバートの離設事案は、オーブ支部には「一時的な見当識障害によるものであり、当事案における継続審議は不要」と報告された。
実際、無断で外に出たは出たものの、やや深い場所だったとはいえほとんど波打ち際で転倒していたようなものなので、事件性よりも事故性を強調した。
本人の意思はともかく、そうでも書いておかないと彼をまた不要に制限するような状況になりかねないとキリサキが判断したからで、どうせ報告に対してさらなる追及を受けるだろうと踏んでむしろ反論するための準備を進めていた。
しかしそれは杞憂に終わった。コンパスオーブ支部は報告をほぼノーコメントで受理した。その上でギルバートの回復経過に合わせた治療士の派遣や、ギルバートの拠点となっている建物……これはオーブ支部の資料庫兼宿舎なのだが……の、資料室の使用許諾などの提案をいくつか打診してきた。
上長付の担当事務官によると、どうも急にそのような流れになったそうで、以前ギルバートがコンパスに身柄を置かれていた際、資料整理などの雑務を療養の一環で行っていたことを理由としているらしい。
オーブ支部というよりは、もっと上のコンパス内部から出た案だという。
キリサキは……そう言った政治的思惑で患者を翻弄することにははなから反対の立場であるのだが、今回に関してはありがたかった。ギルバート・デュランダルという人間については思うところはいくらでもあるだろうが、今はキリサキのクライアントだ。
ギルバートは緊張の糸が切れたのかそれから10日ほど眠り続けた。時折目を覚ますので、その際に軽く水分や食事、薬を提供した。ほとんど喋ることはなかったが、顔色や声は少しずつ回復していった。
身長の割に低体重なことを気にしたサハラが高栄養食の使用を上申してきたものの、いまは眠ることを優先させた。キリサキは勤務先の許諾を得てギルバートの治療のみに専念することにした。院長を務める老医師はキリサキの申し出に穏やかに背中を押し、笑った。かつて派遣された紛争地で知り合ったこの老医師は、キリサキの親と言っても差し支えないほどの付き合いだ。
「それは君の戦争だろう。私が口を出すことじゃないよ。せいぜい手柄をあげてきなさい」

キミヤー・キリサキはコーディネイターだ。
彼女の父親は優秀な人間で、実子に対してもずば抜けた能力を求めた。人智をも越えかねない要求は、却って生まれてくる子どもを生きづらくさせると説明されたはずであった。しかし、父親が押し切った。その上で彼は、娘の能力に満足しなかった。
悍ましいことだと思う。
キリサキは5歳の頃、中枢神経疾患に似た症状をわざと起こさせる手術を受けた。意図的に脳梗塞になり、一時的に言葉を失った。それらの末に手に入れたのが、並外れた記憶力だった。キリサキは、一度見たものや聞いたことを全て残らず覚えてしまう。いや、言い方が悪い。忘れられないのだ。それが彼女の人生においてどれだけの過去をもたらしたか、語り始めたらきりがなくなる。それでも父親は、さらなる知識の深淵に取り憑かれ、娘をも巻き添えにする勢いであった。
キリサキにとって父とは、医師でもなければ人間ですらなかった。ただの脅威でしかなかった。キリサキが父親と決別したのは、自らが医師となってまもない頃だ。親友であるアルマにだけ事情を説明し、そのまま戦地の医療団体に身を投じた。それは更にあらゆる惨禍を覚えてしまう結果になった。
全て覚えている。忘れることはない。顔がえぐれたまだ幼い少女。脚を吹き飛ばされ、それでも明るく声をかけてきた青年は、その後傷口から血が止まらなくなり目の前で息を引き取った。
ギルバートのように拷問された人間も、性暴力を受けた人間も、性的人身取引によりあちこちで被害を受けた人間も、見てきた。忘れることはない。忘れないからこそ、ギルバートを死なせるわけにいかないのだ。それまでの過去を否定したくない。たとえギルバートという人間が、戦争犯罪に問われる立場であったとしても。
だからこれはまごうことなきキリサキの戦争だった。

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