地に降りて、幾許 2

夜空が見える。
カーテンを閉めずに、ギルバートはベッドに横たわっていた。眠ってしまいたい欲求を、かき消して余りあるほどに、えもいえぬ恐怖心がぞわりぞわりと近寄ってくる。
……眠る瞬間に世界が真っ暗になってしまうのが、どうしても耐え難かった。眠ったことを咎められ、さらに苛烈な辱めを受けた経験は、けして眠ってはならぬという脅しめいた感情を今も色濃く落としている。
闇夜は冷笑的な態度でそんなギルバートを謗るのだ。お前の罪はこれだけではないと、次から次へと罪状を挙げてはこの体を嬲った。自分が人であることが不思議だとすら思った。
これだけのことをされて死ぬこともしない自分は、もしかしたらコーディネイターだとか、ナチュラルだとか、そういう差すら超えてしまって、もはや何か人間とは違う生き物なのではないかとも思った。
いや、それも違う。きっと生き物ですらない。自分は不穏で下賤な忌まわしい何かで、人の心を喰らいつくす化け物なのではないかと疑うほどだった。
ふと……思い出したのは。この素肌に初めて触れた男のことだった。あれはまだ駆け出しの研究者時代。アカデミアで実績を積む時期に、ギルバートはひとりの男に体を許した。当然ながら色恋沙汰ではない。
研究者とは、研究のための研究をしがちなのだ。そして必ずしも儲けを出す研究をするとは限らない。彼らは研究ができればそれで良いのだから、次から次へと『研究をするための研究』をしてしまう。金にならない研究にも金がかかる。研究者としての欲を出せばその額は釣り上がるばかりだ。
かつて踊り子の多くがパトロンに飼われていたように、ギルバートにもそう言った筋のパイプがあったのだ。彼らはこの体を撫でて言った。最高の器に最高の知性が灯っていると。下卑た男たちを喰らい尽くし、いらなくなったところで全て処分した。その時は何も思わなかったはずだった。快楽を得るのは嫌いではなかったと、思う。嫌いであればあんなことはしなかった……とも思う。
だから、この体は怪物なのだと……思いたくはないが、事実がそうだと告げている。

眠りにつくほんの一瞬、ぶわっと体全身が沸騰するように総毛立ち、何度も目が覚めた。サハラを呼ぶという発想は出てこず、荒い呼吸のまままた微睡に呑まれていく。薬が効いていないのだろうか。
「デュランダルさん、大丈夫ですか?」
はっと気がつくと、サハラが目の前で心配そうに覗き込んでいた。起きあがろうとするが、体に力が入らない。汗で服は濡れていて、ひどく怠かった。
「熱がありそうですね。体温と血圧、あと酸素濃度を計らせてください」
そう言ってサハラがギルバートの服に手をかけたとき、ぞわりとあの時の記憶を素手で掴まれたような感覚がした。いやだ、やめてほしい、そう願ったが声に出たかはわからない。震えるギルバートを落ち着かせるようにサハラは手を握り、指を一定間隔で軽く叩いた。ぽん、ぽんと優しく触れられると、意識が不思議とそちらに移った。気がつくと測定は終わっていた。不思議だ。今、何が起きたのだろうか。
「発熱してるみたいですね。解熱剤を持ってきましょう」
サハラが立ち上がり、部屋を後にしようとする。
待って。一人に、しないで。
その声を出すことができず、ギルバートは絶望した。ここはきっと安全なのだろうが、それを保障する要素が今のギルバートの中に存在しない。掠れた吐息だけが、もうここにいない看護師のやたら大きな足音に追い縋るが、無駄な抵抗だった。
息を……息を吸って吐いて数字を数える。サハラはすぐに戻ってきて、そんなギルバートを労わるように上体を起こさせ、解熱薬を内服させた。昔、同じことをしたとギルバートは思い出していた。ずっと薬を与える側だった。
あの時に向けていたのは、憐憫の感情だったと思う。ラウやレイの存在を、どのように自分の理想の中に組み込むかということばかりを考えていた。
……きっとそれを、間違っていたと思えれば、良いのだ。
どうしても、間違っていたと思うことが難しい。レイに撃たれ、死ぬこともできず、あれだけのことをされたにも関わらず……生きることだけが主題となっただけで、自らを省みることの全てができているわけではない。どうすれば良かったのか考えても、あれ以上の答えは出てこない。
口数少ないギルバートにシーツをかけ、サハラが出ていった音が聞こえた。
眠れなかった。耳の奥……頭の中がずっと痺れているような気がして、それでいて何も考えずにはいられなかった。昔ならば、すぐに解決できるような考え事も、まったく糸口が見えない。昔、レイが積み木を崩しながらもなんとか積み上げていたあの光景が遠くに思い浮かんだ。ふっとあのときのコーヒーの匂いすら思い出せるのに、肝心のレイがどんな表情だったか、思い出せない。
ああ……なんということを、したのだろう。レイは死んだ。もうどこにもいない。タリアも。自分は彼らから奪うだけ奪い、それを手に抱えていることすらできず、結局今こうして、ただ生きているだけの何かになっている。
天窓から月の光が差し込んでいる。まるでギルバートを糾弾するかのようだ。呼吸が浅くなる。目端に浮かぶ涙は、けしてギルバートが過去を悔やんで流しているものではない。ただ、与えられた暴力に対する、怖れの涙でしかなかった。
海が、啼いている。ギルバートは確かにそれを聴いていた。ずっと、ここに来た時から。目を閉じたが……ああ、聴こえる。誰のものだかはわからないが……しばらくその声を手繰っていた。懐かしいそれらをギルバートは聴いてしまった。そして、気がついてしまったのだ。
呼んで、いる。
ギルバートは目を開き体を起こした。そして窓を見て、気がついたのだ。呼んでいるのだ。ずっと。

「KT=38.6℃、BP=112/75、P109、SPO2=96%……おそらく環境変化による一時的な発熱と思われます。過換気も見られ、パニックも起こしているかと」
「そうか……」
電話口のサハラの報告に、キリサキは眉根を寄せた。オーブ支部からの注文では、できるだけ少ない人数でギルバートを監視しつつ療養に充てて欲しいとのことであった。しかしサハラにしろキリサキにしろ、四六時中彼に相対していられるわけではない。休養は必要だ。せめて看護師をもう一名、とキリサキは伝えたが、物資面での支援はあるものの、人員は都合がつかないという。おそらくだが、セキュリティの関係だろう。ギルバート・デュランダルがここにいるという情報そのものをなんとしてでも封殺するための行為だ。
サハラに頼み、ひとまず最初の5日間だけは、隣の部屋で待機させることとなった。キリサキも、少なくともしばらくは今まで以上に眠れなくなるだろう。勤務先が理解を示したのは幸いだが、二人のうちどちらかが倒れた時点で瓦解する体制だ。
「妻を向かわせられば良いのですが」
そう話すサハラのパートナーも看護師だが、まだ経験が浅い。しかも精神医療分野はほぼ未経験だという。いくら婚姻関係にあり信用があるとはいえ、そこから先は技術の話だ。
もちろん、サハラがしばらく家族に会えないということに対しての申し訳なさもあるが……。
ギルバートは難しい患者だ。アルマがどれだけ苦心したかは、面談して3分で理解できた。表情の変化に乏しく、かと思えばひどく怯えた目をしてこちらを見てくる。生活動作は問題なく行えていると報告書にあったが、サハラの報告では更衣に対しての拒否が見られ、先ほどのバイタルチェックでも多少の緊張があったと言う。
食事はともかく投薬が滞りなく行えたのはきっと奇跡だろう。暴行現場では異物を食べさせられるなどの被害にも遭っているというのだから、どちらかで必ず拒絶はあると睨んでいた。
しかしやはり本人の主訴通り、眠りの問題の方が大きいようだ。
椅子の背もたれに体を預け、キリサキは天井に目線を上げる。ギルバートの回復のために何をするべきか。オーブ支部からは更なる監視体制強化のため、彼に位置情報を共有するネックバンド等の着用を義務化するよう要請がきているが、まだ最悪の事態が起きる危険因子を排しきれていない。そうでなくとも今日処方薬を組み替えたばかりで、薬効が定着するにはコーディネイターでも7日から10日はかかるだろう。その間の副作用だって見逃せはしない。
それを引いたところで、ギルバートの状態を見ればそのようなものを着用できないことはわかる。首や腕は拷問において一番狙われる場所だ。命の危機を感じさせるには首を、社会的な危機を感じさせるには腕や脚を狙う。
ギルバートが受けた拷問の全容はおそらく本人しかわからないが、どうであれ壮絶な体験をした患者に余計なリスクを負わせるのは医師として見過ごせるものではなかった。
要請に対してキリサキは保留と返した。上長は往々にして現場を知らない。しかしいかなる患者であれど、キリサキは患者に代わり対抗する姿勢だ。そうやってここまできたのだから。
報告を聞いたら眠るつもりだったが、寝付けそうにない。珍しいこともあるもので、普段ならば眠る時に寝ておくべきと思うのだが、今日はやはり気が逸るのだ。しばらく酒もコーヒーもお預けだな、と思いながらせめて体を横にした。
1時間経った頃。キリサキの通信端末がけたたましい音を立てた。サハラからのオンコールだ。急変したのだろうか、急いで身を起こし応答する。
「キリサキだ。どうし…」
「離設です!デュランダルさんが居室内にいません!」

オーブの海は、かつて母に例えられたという。人間というものはより大きなものに畏敬の念を覚え信仰するものだ。海もかつてはそうであったのだろう。そして母という器に対しても、多くの人間は畏怖し敬意を表するのだ。
どちらにせよ、ギルバートには縁のない話であるはずであった。彼の思想はヒトの中のより小さく、より重要な世界にこそ存在した。ゲノム情報を大海に例えた先人がいたが、それはただのロマンチストによる空想に過ぎない。海の方が似ているのだ。そう思っていたはずであった。
今はそれでも、歩みを止められない。
ラウ・ル・クルーゼとの関係について、友情だの愛情だのと飾り立てるのはナンセンスだとギルバートは思う。離れ難かった。それだけが事実だ。彼の眼差しの先にある日没にも似た地獄さえ、ギルバートの中にある激情を掻き立ててやまなかった。
そのラウがレイを連れてきた日、彼がまだ幼くか弱い魂に対して向けるこの眼差しこそが、正しく慈母と表現されるべきものだと思った。きっとそれも間違ってはいない。正しかったはずの過去だ。
ラウやレイとの日々は、人の傲慢がなければきっと存在しなかった。
しかし同時に、タリアとの別れも、人の傲慢がなければきっとありえないものだったはずだ。ギルバートにとって彼らは希望であり続けたが、そもそも総て絶望を母にしている。
部屋を出たギルバートは、サハラに気づかれるという畏れを一切無くしていた。まるで当然と言った顔で、非常階段を見つけると2階に降りた。1階と2階は吹き抜けになっており、なだらかな階段があった。暗がりを降りるギルバートの表情は、自分でもどのような顔をしているかは想像つかない。しかしきっと使命に燃える目だったと思う。かつてのように。
外に出られる道を探した。エントランスホールに目立った通路は見当たらない。扉の施錠はパスキーを求められるものだった。ギルバートはどこか冷静に、辺りを見渡した。どこからだろうか、空気の流れを感じる。目が悪くなってから感覚がより研ぎ澄まされた気がするのだ。
ふと玄関と反対側に位置する埃っぽい廊下の向こうに、窓が見えた。そこから空気が循環している。開くかもしれない。
躊躇いなくギルバートは歩みを進める。窓は微かに開いていて、何かが噛んでいるのか少し重かったけれど開くことができた。この高さなら乗り越えられそうだ。そんなことはしたことがなかったが、廊下の隅に放置されていた椅子を踏み台にして、ついにギルバートは窓枠を超え外に出ることに成功してしまったのだ。
その間もずっと聴こえていた。呼び声は優しくそれでいて懐かしい。近づけば近づくほどに、涙が溢れそうだ。やっと、やっとだ。ここまでくるのにどれだけの夜を越えてしまっただろうか。
君はどう思っただろうか?愛してるなんて言ったことも言われたこともないけれど、そこにあったのは確実に愛情だったはずだ。
そしてギルバートは、声を追い海に向かって歩き始めた。一人で外になんかもう二度と出られないと思っていた。しかしもう終わるのだ。彼らが呼んでいるのだから。
ああ、苦しい。湿り気のある生ぬるい空気が、ギルバートの呼吸を妨げる。体に流れる血が騒ぐのだ。このまま終わりにしなければならないと。そこに思想などという高尚なものは存在せず、ただ義務のみが転がっている。この命を、もうおしまいにしなければならない。正しさや好き嫌いはそれらのすべてに存在しない。
砂浜は……思ったよりも、ざらついていた。ゆくゆくはこの一粒一粒になるのだ。彼らのように。うらやましい。早くそうなりたい。否、そうするべきだ。そうならなければならない。早く、早く、疾く……。

キリサキは勤務先から施設までバイクを飛ばした。せめて初日は当直すべきだったという後悔は、自分の危機感のなさを煽るだけ煽る。比例するように運転も荒くなっていき、駐車場と言う発想すらなく通用口の横に乱暴に停めた。
普段は大切にしているヘルメットを投げ捨て、あたりを見渡す。サハラが走って通用口を開けた。
「ドクター!」
「状況は!?」
「カメラ確認の上、こちらの資料閲覧室の窓から海に向かった恐れがあります」
「支部にはまだ連絡していないな?」
「ええ」
概要のない緊急通報のみを鳴らし、キリサキは再び外に飛び出した。施錠の確認をするべきだった。彼は……緊張や不安のため体を強張らせていたからサマリーよりも小柄に見えただけで、実際には長身で手足もスラリとしているのだ。これくらいの段差、なんて障壁にもならない。
車道を飛び出し、防砂林の前で立ち止まり、周囲を見渡す。高い建物がこの辺りは多い。サハラと通話を繋いだままにして、キリサキはそれぞれの建物に人影がいないことを確認した。
オーブ支部が勘づく前に、取り返さなければ。全権がキリサキにあるわけではない。ギルバートは今もなお危険人物なのだから、こんなところで行方知れずとなったことがわかったら、確実にコンパスは彼を取り返すだろう。たとえその命を止めてでも。
それだけは避けねばならない。医師としての最後の砦だ。キリサキは林の先を睨む。海の方に向かっていったとサハラは言っていた。彼女へ行き先を告げて再び走りだした。

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