とある男の敗北手記

知の野生児だ。
これが、私がギルバート・デュランダルの様子を初めて見た際に覚えた率直な感想である。当時の彼はまだ10歳かそこらで、背も伸び切らぬ少年であったはずだ。しかし彼はその時点で自らの教育をすべて終わらせており、オブザーバー研究員としてこの研究所に参加していた。そのさまを見て、孤高で言葉の通じぬ獣にも似た子どもであると言うこと自体が冒涜であると謗られることかもしれない。
だが、順序立てて時間を使い大人になるという過程をギルバート・デュランダルは知らなかったといっていいだろう。野生に生きる獣たちに既存の慣習というものは通用しないのだ。彼らは常に合理的に生きることのみを求める。その点で、ギルバートを野生児と私は評価したのだ。
彼が操る言葉の巧みさに皆が感嘆し、子を持つ者どもは皆、自らの子が彼のようであれば良いのにと漏らしたものである。
一方で私は、まだ幼いギルバートに対してそういった欲望を抱くことはなかった。彼のような子をほしいとは思わなかったし、むしろ彼が持つ知への貪欲な渇望を前にただただ恐れるしかなかった。
ギルバート・デュランダルという男は、このときすでに、私が持つ醜悪かつ凶悪な正体を見抜いていたのだと思う。
私は博士号を得てこの研究所に所属してはいたが、ここ数年ろくに研究成果を挙げられなかった。実験は失敗続きで、研究所の資金を食いつぶす足手まといとなっていた。同じ分野の優秀な研究者など、掃いて捨てるほどいるのだ。失敗したことだけがわかる論文など、査読に通ることもない。
ジャーナルに載り、資金を得て、更にそれらを運用することがここでの義務である。義務が果たせない男の持つ博士号になんの意味があろうか。
当時の私は、確かに世界を恨んでいたのかもしれない。それを照らしたのは間違いなくまだ幼いギルバートだった。
ある晩のことだった。会議と言う名の罵倒合戦を終え、私は草臥れた顔をして宿舎に戻った。自邸はあるが、ここ数ヶ月帰っていない。成果を挙げるまでは帰れないと言いながら、その実では妻と子に会わせる顔がなく、引きこもるように宿舎の一室を占領していた。もともとここを使うのは研究者の権利なのだと言い聞かせながらも、すれ違う研究者たちが皆若手なのを気負っていつも深夜に帰っていた。
その日はたまたま、普段より早かったと思う。だから今まで気が付かなかったのだ。小さな隣人の存在に。
「あの」
鍵を開けようと内ポケットを探っていたところ、小さな声が下から聞こえた。聞き覚えのある声に私ははたとその方向に顔を向ける。
「おや、君は」
ギルバートがこちらをじっと見ていた。
長いまつげに彩られた黒目がちの目が、困ったように訴えかける。まさしく子ども特有の仕草だった。
「お疲れのところすみません。その……鍵を閉じ込めてしまって」
もじもじとそう言う彼の姿に、私は事態を把握した。それと同時に、この小さな天才にもそういった血の通う人間の証明が存在するのだと何故か少し安堵したのだった。
「構わないけれど、守衛室には?」
「誰もいませんでした。戻ってはくるようなんですが……あの、少しの間、そちらにお邪魔してもいいですか。お腹が空いてしまって」
私はギルバートの小さな耳朶が、ほのかに赤く染まっているのを見逃さなかった。日頃より大人から持て囃される彼にとって、こういう事態は想定外であろう。大人にこうして甘えるような機会など、なかったのかもしれない。
「良ければ守衛が戻るまで、上がっていくといい」
それは間違いなく情け心だったはずだ。私の娘よりも年下の彼が、ひもじい思いをしていることを哀れに思ったのだ。誓って下心などあろうはずもなかった。
幸い軽食は常備している。彼を部屋に上げ、常飲しているカフェイン抜きのコーヒーと明日食べる予定だったサンドイッチを振る舞った。小さな口がそれを咀嚼するのは、小動物めいて可愛らしいとは思った。この姿こそがあの天才児の正体なのだと思うと、大人としての私の溜飲も下がるばかりで、たしかにそれは醜悪なプライドではあったが、見ないふりをしていた。
気がつけば互いの話になった。彼の興味はゲノム解析におけるアルゴリズムに存在するらしい。こちらは同じ遺伝子工学ではあるが、どちらかというとゲノム編集がメインだ。もちろん隣接領域ではあるが、着目点が違う。
ゲノム編集技術、ここで言うところのより優秀なコーディネイターを作る術は、私以外にも多くの学者が取り組む課題だった。様々な遺伝子情報から、一番安定する最適な組み合わせを試行錯誤する。皆が優秀な遺伝子を求めるが、それは不恰好な積み木をとにかく上へ上へ積み重ねるようなものが多い。コーディネイターの肉体の脆弱性を完全に克服するのが私の使命だった。もちろん、既存研究が進んだため現在運用されるコーディネイターの多くが基礎疾患を持たず、また病気にもなりづらい。しかし一方で却って薬への抵抗性が強かったり、微量ではあるが骨が過剰につくられたりとしばしばメンテナンスが必須となる。それらを保守・点検し限りなく発生頻度をゼロに近づけるのが私の研究だ。だから、真新しい研究ではないし、失敗も多い。
翻ってギルバートの研究は、そもそものゲノム情報の解析をさらに加速させるものだった。確かに他の研究の土台になる技術だから、これと決まったものができればさらにコーディネイターを含めたゲノム研究の糧となる。しかし、どんなに素晴らしい機器やシステムを使うとしても、現在の技術では世界中の人間のゲノム情報を即座に集積することはほぼ不可能だ。
それをやりたいのだと、彼は言った。だから解析するアルゴリズムそのものを研究したいと。そのために遺伝子工学のほか、数理学や電子工学などにも指先を伸ばしているらしい。
「もっと解析が早くなれば、できることも増えると考えているんです。自分の遺伝子情報へのアクセスは人が当然持っている権利ですから。わかっていれば避けられることをきちんと避けることで、人は正しく幸せに生きられると思うんです」
マグカップを小さな手に包み、ギルバートはそうつぶやく。彼の眼差しに映る未来は夜明けそのものだと私は思った。それは私自身の未来が夕暮れであることの裏返しでもあるのだが……。
ギルバートは意を決したように、私に向き直った。まだ柔らかなラインの残る頬や唇には、燃えるような血色が伺える。それを私はたしかに美しいと思い、息を呑んだのであった。
「実は、テニュアの話が来ているんです。今はオブザーバーとしてこの研究所にいるのですが……ここで、頑張れるか不安で」
テニュアトラック、つまり研究員の選抜課程だ。若手研究者のために置かれている制度で、要は一定の資金を与えられ期間内に実績を積めばその研究所に終身雇用される。
実は私自身、テニュアトラック制度を利用してこの研究所に在籍しているのだ。彼が私に、秘密の話をするように打ち明けたのは、その経験を聴きたいのかもしれない。
飛び級とはいえギルバートには某教育機関に学籍があるのだという。要はその学籍を手放すべきかどうかということなのだそうだ。たしかにこの研究所のテニュアトラックは任期5年、つまり5年以内に目覚ましい結果が出せなければ、また別の研究所も含めた資金源を探す必要がある。パトロンが物を言う工学研究だが、結局パトロンの信頼を得るためにも身分が必要なのだ。
ギルバートほど優秀だとしても、そうした悩みがあるのだ。私は彼の横顔をやっと捉えた気がした。
真に若者らしい悩みではないか。私にも覚えがあった。若者というものは見通しが立たないことが多いがゆえに、挑戦と躊躇が常に紙一重なのだ。撤退もまた別の挑戦である。
「私は君が必ず成果を上げるだろうと思う。必ずしもテニュアが約束されたものだとは言えないけれど、君ならばその経験も無駄にはならないと思うよ。君のような子は、狭い教育機関にいるよりもこういった場にいたほうがいいと思うんだ」
説教臭くなっていないだろうか、と私はそれなりに気を配った。この業界で年齢差を口にするのはナンセンスだが、彼はまだ子どもではあるのだ。
しかしそんな心配は無用とばかりにギルバートは幼い顔をほころばせ、にこりと笑った。
隠された花の芽吹きを見てしまったような、そういう気持ちがざわりと心を撫で、思わず私は振り払うように笑ってみせた。これが虚勢でしかないことは、随分あとに気がついたことである。
今まさしくこの時点で、私はギルバートの姿かたちを含めた全てに絡め取られたのだ。
「ずっと、誰かにそう言ってほしかったのかも……しれません」
嬉しそうに笑い、こちらを見上げる。大人びた振る舞いの中に秘められた小さな彼の人間としての欠片を握らされたような気がした。それは暖かく、それでいて柔らかいものだった。
女を初めて抱いたときの、支配による達成感に似ているのかもしれない。指に触れた彼のなにかを、私はギルバートの素直な心根だと信じたのだ。
そういった驕りが原因で私は全くの悪意なく、口を滑らせてしまった。
「君のような子を持つ親御さんもきっと鼻が高いだろう。ただのコーディネイターではこうはいかないだろうから」
はた、とギルバートの表情が強張ったのを見て、私はその瞬間、自らの過ちに気がついた。きっと触れられたくないことなのだろう。慌てて取り消そうと、こう言葉を継ぐ。
「私には君よりも年上の娘がいるんだ。だからつい余計なことを言ってしまったね。申し訳ない。気を悪くしないでおくれ」
ギルバートは少しだけ霧がかったような表情をして、こくんと頷いた。
不思議なことにその姿を見た瞬間、必要以上の罪悪感が制御できないほど溢れ出てきたのだ。
もしかして彼の中にある名状しがたくそれでいて物言わずとも薫る花のような柔らかさを散らしてしまったのではないか?そう思うと急に恐ろしくなった。それは彼が見せる年相応の子どもらしさや、秘められた知性の輝きに依るものではなかったと私は考えている。
ギルバートの持つ潜在的に人を惑わすその魔性としか呼びようのない何かが、明らかに発揮された結果なのだ。これはあまりにも非科学的で、それでいて論理的な思想でもある。ギルバートの意図がどこまでそこに関与していたかすら、実は不明瞭なのだ。しかしその時の私はそこまで考えが至らなかったどころか、立ち上がりこういうしかなかった。
「守衛が戻ってきているかもしれないね。少し待っていてくれないか」
ギルバートを部屋に残し、私は廊下に飛び出ると、ばくばくと高鳴る心拍の正体を探った。
彼が子どもだから、気を遣うということでもなかった。少なくとも、彼の進路の話をしているときはまだそうだったはずだと、必死に言葉を並べ替え考えていた。なんの役にも立たない私が、ギルバートに対して何かの手立てになったことをまるで父のように無責任に喜んだのが良くなかったのではないだろうかとその時は本気で思っていた。
守衛は、結局見つからなかった。
私は肩を落とし、すごすごと自室に戻った。逃げるように飛び出したくせに、ギルバートののぞみ一つ叶えられない。
鍵を開けると、リビングにいるはずのギルバートが見当たらない。さっと血の気が引いた。子どもがいなくなるということは、親になったことのある人間であれば誰もが一度は体験する恐怖体験である。すっかりギルバートの親であるかのように錯覚した愚かな私は、あたりを見渡して名を呼んだ。ふと耳に、水の音が聞こえる。振り向くとシャワー室からわずかに光が漏れている。
恐る恐る中を伺おうとしたとき、バタンと扉が開いたのだ。
「どうしても顔を洗いたくて……洗面所を借りてしまって。その……うまくお湯が出せなくて、濡らしてしまいました」
扉の向こうで、柔らかそうな黒髪をゆらしわたわたと手を振るギルバートは……あまりにも、愛らしかった。普段着ている白いシャツが濡れて、薄っすらと下に忍んでいる肌が透けている。私はそのとき、彼に対してけして持ってはいけない、この世の罪の中で一番重い妄想をしてしまった。
濡れて色付く幼い素肌を、私は間違いなく想像上で汚したのだ。
「ああ……ああ、気にしないでくれたまえ。そうだタオルを持ってこよう。ついでにシャワーも浴びるといい」
「守衛の方は?」
「残念だが見つからなかったんだ。良ければ私のベッドで休むといいよ」
「で、でも」
ギルバートが濡れたシャツを気にしながらも、こちらの様子を伺っている。彼に自らの不埒な空想を悟られてはいないか、慎重に言葉を選び、表情を作った。
「気にしないでくれ。私は予備のベッドがあるから。どのみち仕事をするつもりだったんだ」
「……すみません」
ギルバートにタオルを渡し、ドアが閉まるのを確認すると私はリビングに戻り高まるおぞましい衝動を落ち着けるために冷蔵庫を開けた。安酒を少しだけグラスに注ぎ、一気に煽る。喉を焼くようなアルコールの刺激で我に返らないか期待したが、かえって気が研ぎ澄まされるだけでその醜さが鮮明に見えるだけだった。
私はその時はたと思ったのだ。ギルバートが顔を洗おうとしたのは、私がいない間に泣いてしまったからなのではないか。
彼の中の親の不在を認めることは、優秀な頭脳を持っていたとしてもまだ幼いあの心根を、まだ柔らかく素直な未熟な性質を刺激してしまったのではないか。
彼の涙を見たかったなどという自らの浅はかさに絶望しながら、私はソファに座った。
「あの」
目が覚めると、ふわりと芳しい湿った空気が鼻をくすぐる。どうやら眠ってしまっていたらしい。肩を揺すったギルバートの小さな手を見て声を上げそうだった。温められた指先の血色が、あまりにも艶めかしかったからだ。
「あ、ああ、申し訳ない。うっかり眠ってしまったよ」
「いえ、こちらこそシャワーも使わせてもらって……その」
「え、あ」
視線をギルバートに移した私は今度こそ息を呑んでしまった。タオルを体に巻いただけの姿で、洗い髪もそのままにギルバートが隣に座っていたからだ。跳ね上がる心拍数を年齢によるものだと言い訳ができたらどれだけ幸せだったろうか。
「き、気になさらないでください。その、よく考えたら着替えがないので……朝になったら乾くと思いますから、えっと……やっぱり、私がここで寝ます。恥ずかしいんですけど……」
寝るとき、普段も服を着ないんです。
ギルバートはそう言って、赤く染まった頬を俯かせた。
なんということだ。思わず愕然としてしまった。私はただ必死に、彼にかける言葉を探していた愚かな男に成り下がっている。
普段から彼は素肌のまま、シーツにくるまって眠っているのだろう。たった一人で。優秀とはいえまだ家族とともに暮らすべき年あいの彼が、この研究所ではその当然得られる恩恵すら享受できない。
彼を初めて見たときに、野生児だと評したことをひどく後悔した。ギルバートは、たとえ彼がそうしたかったとしても、孤高な獣のごとく合理的には生きられないのだ。本来ならば、この研究所にいる時点でそんな日常を諦めるのは当然である。しかしこのときの私はもう完全に彼の虜となっていた。ただ、君がベッドで寝たほうがいいとしか言えなかったのだ。
ギルバートは、泣きそうな顔をして……こちらを見上げ、私の袖に触れた。そして首を横に振ったのだ。
「あの、もしも嫌じゃなかったら……一緒に寝てくれませんか?こんなこと、恥ずかしくて誰にも頼めません。でも……ずっと、寂しくて。家族がいないから、ここの皆さんとは話も合わないし……」
ギルバートはそう言うと、タオルのみをゆるく巻きつけただけの体をこちらに少しだけ預けてきた。しゃくりあげる声と、石鹸の香りと、温まった体温が当時に私を揺さぶる。このようなことがあり得ようものか。私は彼に同情に哀れむというポーズを取ることで、そのガラス一枚下に蠢く醜悪としか形容できないほどの汚れた思想との視線をなかったことにしたいが、そのガラスにはとっくにヒビが入っているのだ。透明だったガラスは白いクラックで彩られ、今にも向こう側が世界に雪崩れ込んでくる。
私は……だから、間違ったのだ。世界を見誤った。
「そこまで言うなら」
そう言った私に対して、ギルバートはニコリと微笑み、思い切り抱きついてきた。ああ、もう終わっていい。彼の体の重みを知った私は、ついに化け物となってしまったのだ。
化け物となった私の耳元でギルバートがこう囁く。ほのかに甘い声であった。
「ありがとうございます。ロスマン教授」

続くはず

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