眠りにつく前に忠三郎は神のもとに跪く。胸にかけた十字架を手に、何かを呟いて頭を垂れている。
与一郎がいても変わらないその習慣は、神秘性をこめて美しくあると同時に、もはや与一郎の嫉妬心を的確に煽ってくるものでしかなかった。
忠三郎が何かにすがっている。自分ではない何かに身も心も捧げている。大したものではないのかもしれない。しかし、それがどうしても我慢ならなかった。
子どものする幼稚な嫉妬とそれはなんら変わらないことくらい、知っている。
そして与一郎は知っている。神を通して忠三郎が見ている、美しい男の存在を。その後姿を…与一郎は知っている。
与一郎が忠三郎に求めていたのは慰めではない。甘やかされたかったわけでも、もちろんない。
ただ、ただたった一つの、忠三郎の情けが欲しかっただけだった。それは友情という陳腐な言葉でも十分なはずであった。なのに、満たされようとすると人間はさらに求めてしまう。もっと深く、もっと醜く、人間は求めてしまう。全てを手に入れたくなってしまう。祈る姿は確かに美しいが、神というよくわからないもののために祈っていると思うと、それに全てを捧げていると思うと、ましてやその先にあるのが自分ではない誰かの呼び声だと思うと、与一郎の心を不快な汚泥が満たしてしまうのだ。希望よりなにより、地獄の淵を除くがごとくの絶望感が襲うのだ。それを救うのはやはり忠三郎でしかなかったし、その声を、与一郎を呼ぶその優しい声を与一郎は切に望んでいるのだ。
どうしてそれを望むのかと言われてしまえば、答えに窮する他はない。与一郎はそれに答える言葉を持っていない。ただ手にしたのは、忠三郎と交わしたいっそ退廃的なまでの、まるでくしゃくしゃになった紙に描かれた絵のような、ちっぽけな約束だった。
「いつまでそうしているんですか」
与一郎は忠三郎の背中に声をかける。
帯を緩め、もうこの体は忠三郎を求めようと疼いているというのに、当の忠三郎はなにもない顔をして祈っている。ほったらかしにされた身も心も、忠三郎を冷たくにらむ。
「俺の気が済むまでだ」
「いつ気が済むんですか」
忠三郎は振り返らない。それがとても嫌だった。このまま何処かに消えてしまいそうで、それこそ、神のみもとに行ってしまいそうだ。最後に見た姿が後ろ姿だったなんて、絶対に嫌だ。そんな後悔をするくらいなら、いっそこの手でその最後を無理やり手元に手繰り寄せたほうがよっぽどましだと、それくらい思っている。
彼の真後ろに立つと忠三郎は顔を上げた。それでも与一郎には振り返らない。その顔をみせることはない。その目が何を見ているかも、わからない。ああ、いやだ…。
「…どうした与一郎、今日はいやに子どもっぽくして」
言われて思わず顔を歪めた。確かに会おうと誘ったのは与一郎だったし、どうしても会いたかったのも事実だ。先述したがそれが子どものする稚拙なものだということもわかっている。しかしいま、それを忠三郎から幼稚な独占欲などという言葉で飾られたくはなかった。忠三郎の肩に手をかけ、後ろから抱きしめて耳許に言葉を寄せる。
「子どもですか?こんなことをするのに」
「与一郎、やめなさい」
忠三郎だけ大人のふりをするなんて、ずるい。
そんな言葉昔は使ってこなかったくせに、今更与一郎にかけるだなんて、ずるい。
それは全て右近に出会ったからなのか。忠三郎が変わってしまったのは、神と出会ってしまったがためなのか。だとしたら、悔しい。取り返してやりたい、この手で。
「ひどい人、俺の気持ちを知っているくせに」
「そういうことは言わない約束だっただろう」
そう言われて頭に血が上りそうになる。最近忠三郎はすぐに「約束」という言葉を使うようになった。本人は否定するだろう。しかし、二人の間にはすぐに約束という二文字が浮遊するようになった。それは与一郎の想いに常々冷や水をかけるようなものだった。
これからそういうことをするのに、忠三郎は構わずこれは約束事の一つだと言わんばかりに祈りに没頭する。
忠三郎にしなだれかかり、小さく嗚咽を漏らす。
これも計算のうちだ。これに忠三郎が弱いことは知っている。子どもらしい、与一郎にしかできないこと。わかっている。子どもなことくらい。実際忠三郎の方が自分より年をとっている。忠三郎が自分ではないあの美しい後ろ姿を追っているということも、わかっている。彼が忠三郎を愛していることすら与一郎はよく知っているし、あとは時間の問題だということもわかっている。二人を阻むものは今やもうほとんどないことも。
しかしそれがなんだ。いま、忠三郎を独占できるのは自分だけ、自分だけなのだ。その事実は誰も打ち崩せない。右近でさえ!右近ができないことを自分がやっているのだ。忠三郎の傍にいて、約束を守り、その体を開くのだ。
「与一郎…」
忠三郎がその体を捻り与一郎の体に触れる。
ああ、待っていた。この瞬間を。神にも右近にも背いて自分に向かうこの瞬間。
この瞬間でなければ、与一郎は報われない。いや、確かに与一郎は一生報われないのだろうが、それでも、振り向かれるこの瞬間だけは、今の与一郎にとって変えることのできない瞬間だった。
「こちらを向け、忠三」
与一郎の言葉に忠三郎が笑いながら伏せていた目を上げる。こんなことをしているときくらいだ、与一郎が忠三郎と本当の意味で対等になるのは。
そのまま唇を重ねる。噛み付くように、全てを奪い取るように、それは愛の確かめ合いと言うよりは獣の威嚇合戦に似ていた。互いの境界を主張し合うそれは、明確に線引きがされていた。二人はけして一つにならない。これからの行動がどうあろうと。まるでそう物語るような口づけだった。
忠三郎はいずれ右近ともこうするのだろうか?
同じように神に跪き、同じように右近の肩を掴み、こんなに荒々しく、こんなに哀しく…いや、きっと違う。
それは愛をもって行われるはずだ。それは不朽の愛を携えて、熱く、優しく、いっそ狂ってしまうほど。
そして二人は確かめ合う、互いの愛の形を。そして重なった…二人の同じ思いを確認して笑うのだ。こんな獣めいたものではない。眩暈がする。そんなことわかりきっているはずなのに。
長すぎる口付けのあとに忠三郎が与一郎の顔を覗き込む。咄嗟に顔を背け、隠す。
「泣いているのか」
「…泣いてなど」
「ならばなぜ、顔を見せてはくれない?俺はこんなにお前に顔を見せているのに」
嘘、今の今までその顔は神のものだったくせに。ぐっと言葉を抑えて、睨む。
「泣いているじゃないか」
そういうと忠三郎は与一郎の目元を拭う。恋人同士じゃあるまいし、と言葉が喉元まで来たが、それを言って虚しく思うのは自分だけだと気がつきまたも飲み込んだ。
思ったことの一部も言えない関係だ。それに何も気がつかないのだろうか。それとも気がついていないふりをしているだけなのだろうか。忠三郎はこういうとき本当に自然に…それこそまた涙が出るほど、普通に振る舞う。
その普通が、与一郎の欲している物だということを彼は知らない。まるで本当に想いあっているようだ。実際はそんなことありえないのに。総て与一郎の我儘を忠三郎が呑んでいるだけに過ぎないのに。そこにある約束なんてひどく脆いものだというのに。
「泣いていようといまいと、忠三には関係ない」
だからこれは、与一郎ができる精一杯の反抗だった。反抗なんてするほど偉くもないけれど。
「またそうやって、可愛くないことをいう」
「可愛くなくて結構」
そう言って、顔を背けた。忠三郎は与一郎の頭を撫でると、ふ、と笑う。その顔がいやだ。いや、いやじゃない。好きだ。好きなのだが、なんだか、いやだ。
「待たせて悪かった」
そう言って与一郎の額に唇を寄せる。なんでこんなことを当たり前だというようにできてしまうのだろう。先ほどまで総ての欲を捨て祈っていたあの背中とこの唇が、同じ人間のものだとは到底思えない。
「……最初からそういえばいいのに」
「…だがこれだけは譲れないんだ、許してくれ…こういう言い方は変か」
「うるさい」
そう言って負けじとその体に抱きつく。忠三郎からかき消すように、祈りも、右近も。
うるさい、忠三郎の皮膚が、血が、うるさい。こいつらは常に言うのだ、右近が、祈りが、神が、と。そこに自分を見つけられなくて、どうしても自分を見つけられなくて、与一郎はその体に爪を立てる。
「痛い」
そういって笑う忠三郎を、この手で壊してしまいたい。そうでないのなら、壊して欲しい。本望だ。忠三郎に壊されるのなら。
そこまで想っている事をきっと忠三郎は知らないのだろう。知らなくていい。知って欲しくない。だけれど、知って欲しい。
矛盾していることはわかっている。忠三郎の幸せと、自分の幸せは違うのだから、矛盾するのは当たり前だ。どちらの幸せも手に入れたいだなんて、子どもの我侭だ。わかっている。
「もう、我慢できない」
与一郎の言葉に、忠三郎の目に確かに男が揺らめいた。
ああ、幸せでなくてもいい。ただ、いまここに忠三郎がいる。これだけで、いい。たとえ二人の行く末が誰からも望まれないものであろうとも。
待っていたのだ、一人の男となった忠三郎を。今だけは、神や右近に心を奪われた忠三郎ではなく、たったひとりの…自分だけを見てくれる、与一郎の初恋の男なのだ。
再び互いの唇を貪る。このまま溶けて互いの境界線がなくなればいい。祈りの傷跡も、右近の移り香も。すべて消えてしまえ。今だけは、今だけはこうしていたいのだ。それができるのは、与一郎だけだ。
祈りの後の世界は、与一郎だけが知っている。