汝が身を離れざれ

「国千代が竹千代を支えなさい。弟なのだから、兄を立てるのは当たり前。いつも兄を思って、兄のためにわが身を呈してでも仕えなさい」
母のその言葉の本当の意図なんて今更わからない。額面通りに受け取った方がいいという人も、いやいやそこにはお前へだけの特別な隠れた言葉があるのだという人もいる。実際忠長をまるでもう一人の天下人のように扱う露骨な人間も多かった。悪い気は正直しない。しかしそれらは全てどうでもよかった。
忠長は駿河大納言と呼ばれるようになった現在も、欠かさず剣術や勉学に励んでいる……と、自分では思う。その理由をやはり穿った価値観に当てはめる人間がいた。そんなに難しいことではないのだ。それらの事象をまるで秘密めいた、それでいて何かとんでもない刺激的な事実で埋め尽くすつもりはない。
忠長は兄・家光のためならば死んでもよかった。誇張でもなんでもなく、兄のために命を散らすことなど何も惜しくなかった。何故かそれを言うと皆嫌な顔をする。そしてその言葉の裏になにか理由を欲しがるのだ。忠長にとってはそれが何よりもの理由であるにも関わらず、まるで服の中に入った蒲公英の種が……忠長は昔からあれが何故か大嫌いだった……縦横無尽に蠢くようなもどかしい顔をするのだ。
兄のためだった。全て。子供の頃から、勉学も剣術の稽古も生活の立ち振る舞いも完璧でなければ嫌だった。兄のため、兄の隣にいる自分のせいで兄に恥をかかせないため。
それでいつかきっと、時折兄がこちらを見て微笑むのだ。その時に立派な自分が、やはり笑顔をもって応えられるそんな関係になるために。
それが全部、この瞬間にだめになったと思った。
「私はお前が嫌いだ、今すぐここから消えろ」
兄の引き攣る顔は、忠長を全てだめにしたのだと思う。兄のためにしたこと、兄のために積み上げたものを、兄は何事もなかったように崩した。それに対してため息さえしたのだ。
どうして、と問うことはもはや許されなかった。遠くで居ないはずの母の声がした気がした。父の横顔を見た気がした。
崩れ落ちる忠長は、しかしまだ家光の弟だった。たった一つ崩れなかったちっぽけな自負。同じ血を分けた弟という誇りが、忠長をむしろ惑わせ苦しめた。
何もかもから逃げ出せればよかった。本当に自分はあの家光なんて人間とは関係なくて、なんとも思ってもいないとか、もしくは嫌いだとか、そう心の底から思えれば幸せだったかもしれない。それが結果的に同じ状況を生んでしまったとしても、本人がそう思っているのならばまだ救いだったと思う。
しかし忠長にとって家光という存在は削ぎ落とすどころか、嫌悪することすらできなかった。兄の背中が遠くなる事実も、その目が忠長の望まない光景を見ているのも、知らない香りを纏うことにすら、気が狂っておかしくなってしまうほど忠長は家光を愛していた。
兄のいない空っぽの上座にうっすらと漂う彼の残り香に対してすら激しく嫉妬するなんて、普通の人間ならば絶対にしないことくらいわかっている。理解されようなんて思いたくないし、そもそも理解させようなんて思わない。したり顔で近寄ってくるなんて御免だ。
この空も、浮かぶ雲のひとつひとつも、そよぐ風ですら兄のために用意されたのだ。そんな世界に塗れて生きることだけが幸せなのだ。誰の理解も、誰の共感もそこには必要ない。たった一つ、兄からのひと匙の希望さえもらえればそれでよかった。
「どうしてお前はまだそこにいる、聞こえなかったのか」
兄の冷たい言葉に忠長はやっと、自分の頬が涙で濡れていることに気がついた。風が頬を冷やしていく。あまりの寒さに皮膚が死ぬのを抑えられない。
小さく、それは忠長の意図を外れるほどに小さい言葉は、沈む船から逃げ出した忠長の本心だったのかもしれない。
「どうして……兄上、どうして……国は、兄上のために……」
唇から次々と漏れ出るそれらを家光は眺めていたが、やがてもう一度長いため息をつき、こう言った。
「兄弟だというのにな」
その言葉の中にある本当の家光の意思が、結局のところどのようなものだったのかを忠長が知ることは一もなかった。

別に世間が言うほど、父と母は自分を愛してなかったわけではないと思う。弟との区別もしっかりしていた。どうしても体が弱いので、周りにとっては健康な弟の存在がちらつくのだろうが、それは邪推も邪推であり、都合のいい夢物語に過ぎない。
家光は弟である忠長が、そう言う意味ではなく心の底から嫌いだった。最初から嫌いではなかったと思う。生まれた頃のことは流石に記憶にないし、もしも覚えているほど弟と年が離れていれば、また違う結末なのかもしれない。しかし、親に弟を可愛がれと言われたので可愛いと無理矢理思ったとかそういう記憶はない。その感情は素直で純だったはずだ。
弟のことが嫌いになった決定的なきっかけがあるわけではない。ただ、器用になんでもこなす弟が、まるで何かとんでもない意味があるかのようにこちらを見つめてくるのが怖かったし、そこにある恐れそのものを悟られることが嫌で仕方がなかった。
恐怖とは、往々にして嫌悪を連れてくるものだ。いや、違う。嫌悪とは、恐怖の胎を借りて生まれてくるものだ。
だから、家光の忠長への嫌悪感は、おそらくそういった恐れを媒介に生まれたものであろう。認めたくはないが、それだけ忠長という存在は家光の中では大きかった。これがただの愚鈍なだけであれば、小さき存在としてそれから視線を外すことなどいくらでもできただろう。
しかしそれができるほど、忠長は小さくなかった。どころか家光の行く道すべてに立ちふさがり、じいっと見つめてくるのだ。嬉しそうな顔にも見えたし、悪意のある顔にも見えた。きっと、大した意味はないのだろう。忠長の中での物語を知るつもりはない。しかし、知らないでいたく思っても彼が見せてくるところがある。最早それは十分に家光の怒りを買う理由になると思う。
「そなた、名は何という?」
闇夜の中、家光が声をかけると、少年はビクリとしてさらに頭を垂れ畏まった。正直今日はそんな気分ではない。とはいえこの少年を下げさせるのも億劫だ。
彼は初めて見る顔だ……仕官したばかりらしい。つまりはそう言うことだ。初物をこんな気分で抱く気にもならないから、適当にあしらおうと思っていた。
「大場吉兵衛と申します」
肩が震えている。普段ならばその初々しさを愛いと思うだろうが、何故だろうか全くそう思わない。少し怠いようだ、早く寝てしまいたい気持ちすらある。だから家光はつまらなさそうにその名を繰り返した。
「……吉兵衛」
少年は再び全身を震わせ、恐る恐ると顔を上げた。怯えたような目をしていた。しかしそれもすぐに引っ込み、少し嬉しそうな表情になる。
「はい、上様」
家光はその目を見た瞬間にそれまでの違和感の理由がわかった。急に背筋が寒くなるような、それでいて頭の後ろの方が燃えるような怒りが家光の感情を支配する。少年の顔を一瞥し、眉間に皺を寄せると唇を歪ませることだけが、家光のできるすべてだった。
「愚鈍な弟に用件はない、去ね」
すると吉兵衛だったはずの少年がはっと悲しそうな表情をし、気がつくと目の前にはよく見た……そしてもうできることならば見たくもない……弟である忠長の姿があった。吉兵衛はもうどこにもいない。どういう術だかわからないが、昔から彼はそういうことをしてくるのだ。兄の気を引くためにそれを惜しむこともない。今のところその才能が公には出ることはないが、いつ瓦解するかも知れない。
忠長は涙に濡れた美しい顔をくしゃくしゃにして、家光に訴えかける。
「何故、兄上は私を愛してくださらないんですか」
家光はその言葉に答えることはなかった。
愛するも何もないのだ。家光から与えられた兄弟らしい情を手放したのは、こうやって不気味な妖術めいたことをしてでもこの足元に縋りつこうとする忠長の方だ。
そう、彼がすべて悪いのだ。家光に非はない。
忠長を追い出し、苛立つ指先を乱暴に拭う。こういうことをしてくるから、愛しようにも愛せない。彼は尋常ではない。いつからそうなってしまったかは、やはりわからない。どうにかしているのは自分も同じなのだろう。その自覚はある。だが、こちらの非が一だとしたら向こうの非は数には表せないほど多いのではないだろうか。

家光はやがて忠長と政治的にも対立した。孤立した忠長は、彼なりに取り繕うとしたのだろうが、彼の行うことはすべて裏目に出た。家光はそれを冷めた目で見ていた。彼に対する嫌悪感は増していくばかりだった。
その頃、家光は実は自分にもう一人、腹違いの弟がいるということを知った。保科を名乗る彼を高遠から呼び出して傍に置くと、彼こそが正しく家光の弟であることがよくわかった。きっと運命の悪戯で出会えなかった正しい兄弟の姿が、今ようやく邂逅を果たしたのだと心から感激したものだった。忠長の存在は少しずつ家光の中で小さくなっていった。嫌悪感も、恐怖心すらそこにはない。ただの無関心が広がるばかりだった。
それから暫く経ったある晩だった。ざわざわと風が空を切る音が響いていた夜だったと思う。
正盛を閨に呼び寄せた家光は彼を膝に乗せ、生き急ぐように唇を重ねた。早く会いたかった。暫く多忙でこうして会うことがなかったが、会えない時期というのはより一層、正盛への熱い想いで埋め尽くされるというものだ。
呼び合うように何度も何度も、角度を変えて口づけをする。正盛はにこりと笑うと家光の背中に手を回し、全てを委ねてきた。たまらずその体を寝かせ、隠れている白い肌を露にする。
正盛の佇まいが好きだ。彼は誰よりも近くにいるが常に家光の遥か遠くにいる。家光の頭を撫でるなんてことは、彼にしか許していない。その手に撫でられることは、家光の唯一の癒しであった。
別にこの世のすべてを愛する必要などないのだ。家光がそこに気が付くまでに、何度悩む夜があったであろうか。その夜の一つ一つに正盛はいた。多くの少年と閨を共にしたが、結局は彼に行き着くのだと思う。
正盛を抱いた。彼は家光のすべてを受け入れる。家光がそうしたいと言えば、彼は家光を抱くこともできる。絡み合った指の間で、互いの汗が混ざる。何度も求めあい、家光はこう言った。
「お前に出会えてよかった」

その翌日、家光は別業で正盛の邸宅を訪れた。穏やかな空気の流れるいつもの情景だったはずだった。
しかし正盛の様子がおかしいのだ。家光の前で身を固くし、頭を上げさせようにも頑なにその顔を見せようとしない。普段ならば家光が来る前から愛らしく待ち、その姿を見ると本当に嬉しそうに安心した顔を見せるのに。
「何があった」
家光が問うが、正盛はやはり頭を上げない。彼の近習も主人のそんな状況に困っているようだ。静かな空間に正盛のすすり泣く声だけが微かに聞こえる。
「上様が他の佳い方にばかりお目をかけて、この正盛寂しゅうございます」
「他の? 馬鹿を申せ、昨晩もお前を呼んだのだぞ」
「お戯れを、正盛は昨晩この屋敷から一歩たりとも出ておりませぬ」
「お前こそ戯れを申すな、どういうことだ」
正盛は顔を上げる。涙で濡れたそのかんばせを美しいとは思うが、今はそう言っている場合ではない。どういうことだろうと思うのだが、最早口にできる言葉は一つだ。
「私はお前を呼んだ、お前は来た……いや、これについては仕方がない。今宵もお前を呼ぶから、そこではっきりとさせよう。私にはお前だけだ」
そう言って家光は堀田の前まで降りると、仄かに赤く染まったその頬を拭ってやった。彼を疑うわけでも、疑いたいわけでもない。しかし、どう考えてもおかしい。もっと疑うべきだったのだが、一方で目の前の正盛に対して家光ができることと言えばそれくらいだった。気まずい空気のまま、約束を何度もした。
その晩。家光は約束通り正盛を呼んだ。彼の姿を見ても特に違う様子はない。家光は彼を愛で、唇を重ねる。身じろぎする愛しいかたちは確かに正盛のものであるはずである。
しかしにこりと微笑む彼を見て、家光はあることに気が付いた。いや、気が付いてしまったと言うほうが正しい。
思わず力任せに正盛を突き飛ばす。無防備な細い体は毬のように跳ね、床に転がった。
「上様、何を」
正盛の言葉を踏みにじるように家光は立ち上がり、その這いつくばる塊を見ていた。凝視といっていい。どうしてこうなるのかはわからないが、彼は堀田正盛ではない。少なくとも、家光の知りうる正盛ではない。
「本性を示せ、貴様」
「……」
その瞬間に正盛だったはずの影は消え、そこに現れた姿を見た家光の感情と言えば、到底言葉では言い表せないものだった。吐き捨てるように息をつくのがやっとだった。
伏せたままのその男は、啜り泣きながら顔を上げる。涙に濡れた頬がてらてらと光を反射しているのが忌々しい。そうだ、昔から彼は顔だけは家光好みだった。
「兄上」
「忠長、これはどういうことだ」
「私はただ、兄上に……兄上の情けがどうしても欲しくて」
泣きながらそう訴える弟を家光は見下ろしていた。彼は間違っていると何度も言い聞かせた。実際に間違っていると思う。彼が正しく弟として家光の隣にいる情景など、誰よりも家光が求めたものだと思う。そうであれば昔と変わらず、兄弟でいられたかもしれないのに。
保科正之という弟を得て知ったことは、自分はけして人を正しく愛せない異端者ではないということだ。忠長を弟として愛せないことをずっと後ろめたく思っていた。だが今となれば彼がおかしいのだから、愛する必要もないのだ。
家光は背筋を崩すことなく、忠長を見下ろして問う。
「正盛はどうした」
「……少々眠ってもらいました」
その言葉に家光は今度こそ間違いなく背筋の震えを覚え、それを払うために動いた。家光は忠長の細い体に寄り、何かを期待したような彼の頬を張った。掌に爪が突き刺さるのも厭わず握りしめた拳は、まだこのよくわからない弟に危害を加えたいと叫んでいる。
ぎりぎりのところでそれを抑え、押し殺した声を出した。今すぐに殺してしまいたかった。それに釣り合うことをこの愚かな弟はしでかしたのだ。
「貴様、私を騙すばかりか正盛にも手をかけたというのか」
その言葉に忠長の表情が歪むが、その口端は不気味に上がる。吐息はやがて色が付き、忠長はくつくつと笑い始め、声高く笑った。気色の悪さしか覚えない。彼の望みも、彼の悦びももう家光に察せるところには存在しない。
「なにがおかしい、何を笑っている! 今すぐ去ね、貴様の顔など見たくもない」
「兄上こそ、なにをそんなにお怒りになっていらっしゃるのですか、あなたは確かに私を抱いたではないですか」
そして忠長は立ち上がると、ずかずかと家光の元に寄った。兄として、人を統べる者としてそれはとんでもない屈辱だったのだが……一瞬、怯んでしまった。弟の目は異様なまでに澄んでいて、そこには自分しかいなかった。同じ目線に立つ彼は不敵に笑む。
「その事実だけでこの忠長、十分でございます。それを抱えこの命、散らせていただきます」
その言葉と共に忠長は去っていった。その背中は、一生家光の目に焼き付き苦しめることになるが、そのときはその運命を知ることはなかった。

その後忠長は父秀忠の死と共に改易され、死んでいった。きっと喜んで死んだのだと思う。その体に染みついた家光の何かを嬉しそうに手にしたまま。結局それを奪い返すことはできなかった。何を奪われたかも、何を与えられたかもわからないままだった。
ただ、闇に消えたその存在が確かに実弟のものだったということだけが、家光にわかるすべてであったし、それ以上のことを知る必要は最早なかった。
それからしばらくして、家光は閨に正盛を呼んだ。今度こそ間違いなく彼は正盛だと思う。
もう忠長はいない。どこにもいないのだ。彼の命は正しく消えた。もう彼は兄をかき乱そうとはしない。それができるとしても、それをしたら今度こそ家光は正真正銘妖となった弟だったものを斬り伏せるだろう。
正盛を抱き寄せ、睦言をその耳に吹き込んだあと……本当に日が昇りそうになったころ、思い出したようにこう呟く。
「私は一体どこで間違えたのだろうな」
正盛は家光の涙に気が付いたのであろう。そっとその指で頬に触れると、その水を拭って舐めた。
正盛の慈しみの仕草は家光の心を確かに癒したが、それでもそこにある正しさの不在を埋めるには至らなかったと思う。しばらくの沈黙を破ったのは正盛だった。彼も彼で思うところはあるのだろうが、視線を下に落としたまま、首を横に振った。
「上様は何も間違ってはおりませぬ」
それがただの慰めでもよかったのかもしれない。いずれ訪れる別れが早まっただけだと正盛は言うのかもしれない。しかし実弟を、彼がどのような人間であったとしても……守らねばならないのが兄の務めであるのならば、家光の罪は明らかなものだ。
「……いや、間違えた。間違えたが、どうにもできなかった」
そう言って、片割れ時が死んでいくのを二人で見た。過ぎた間違いを埋めることはできない。しかし確かにそこにあった不可思議で大きな存在だったはずの弟を、忘れることはなかった。

2026年7月6日