「お前は顔がまずい」
物心ついた頃から今に至るまで、父に何度も言われてきた言葉だ。茶化すわけではなく、大真面目でいつも父はそう言う。顔が良くないのだから人より努力しろと、そう発奮させたかったのだろうか。今もその真意は知らない。
別に十兵衛は剣の道で生きて行くのだから、顔なんか関係ないと思ったこともある。刀を振るうことはけして好きではなかったが、自分にある才能は知っていた。上達が早いと周りが囃すのも当然だと思う。だがそれでも父は言うのだ。
「お前は顔がまずい」
何度も言われるうちに、自分の顔がどんな顔なのかわからなくなっていた。水面に映る自分は、確かに不細工に見えたから。父に反抗したい気持ちよりも、父の言うことは正しいと信じたい気持ちがその頃はまだ上だったと思う。本当に子供の頃の話だ。父である宗矩のことは今も敬愛している……本当におかしくなってしまうほどに好きだ。だが父が自分を見ないことは、早くにわかっていた。そこに歪んだ気持ちはあったと思うが、澱んではいなかった。多分。
ある時、父の仕事の都合で十兵衛はのちに将軍になる少年・竹千代に従うことになった。とはいえ突然仕事に入るわけではなかった。だからその出会いは十兵衛がまだ竹千代に出会う前の話だ。
大人たちの話に飽きて、十兵衛は一人で外に出た。手ごろな枝があったので、これで戦うとしたらどういう打ち筋になるであろうとひたすら振っていた。気が付くと、息が切れ汗をかいていた。時折吹く風が濡れた肌を癒したが、乾かすには至らなかった。もっと励まなければ、父が認めてくれるまで……いや、こちらを見てくれるまで。
「もし、柳生殿の御子息か」
だから、背後に近寄る男の存在に十兵衛は全く気が付かなかった。声をかけられびくりと振り返る。不覚を取ったという気持ちもあったが、どちらかというと、慣れない場所で不審な行動をしていた自覚はあったので、怒られるのではないかという幼い子ゆえの恐れの方が強かった。
しかし、彼は十兵衛を見ると穏やかに笑う。年のころ二十歳ほどだろうか。柔和な眼差しにきりりとした眉が彼の性格を物語っている気がした。
「ああ、やはり……精が出るな。私はこう言うのがあまり得意でなくてな。羨ましい、どうやるんだ」
そう言って十兵衛の足元に転がる棒を拾い上げ、眺める。柳生家ではまず会うようなことのない男性だったと思う。軟弱と言えばそれまでだ。だが、なんだかそこにある仄甘い柔らかさが、何故か嬉しかった。
「向こうに人がいるとして、こう振ると……体が勝手に後ろに傾くので、そのまま打ち下ろします」
「なるほど……それならば子供の力でも十分な打撃を与えられるだろうな。このとき左の足はどこを向いている?」
「まっすぐ前です……あまり後ろを向きすぎないようにして、腕でなく胴で打つ感覚です」
三厳の言葉を男はふむふむと聞く。人に教えたことはあるが、大抵柳生家に出入りしているものはある程度心得があるから、それ以前の話になると三厳も感覚で話さざるを得ないことに気がついた。いつか人に教えることがあるのであれば、これでは良くないと反省したくらいだった。
やがて二人して何度か打ち合いのようなものをしたり、振り方について再び解説したりを繰り返して、気がつけば二人とも汗だくだった。
彼は笑いながら息を切らしてこちらを見る。
「ああ、せっかくの愛らしい顔が汗だらけだ。これで拭うと良い」
差し出された手拭いは質素なものだったが、十兵衛には十分すぎた。それまで得意げに彼に剣を教えていた三厳だったが、愛らしいというその言葉に、普段から父にかけられている言葉が頭によぎり、咄嗟に首を横に振ってしまった。
「私は顔がまずいので」
すると彼は目を丸くする。そして声を出して笑った。先ほどまでとは違う、快活な笑い声だった。
「誰がそんなことを、こんなに可愛らしい子供に意地悪をする者がいるものだな」
「意地悪ではありません、本当です。だって、だって……」
咄嗟に意地悪ではないと否定したが、その時十兵衛は初めて父が自分に悪意を持ってそんな言葉を使っているのではと言う疑いを手にしたのだ。言葉を詰まらせて首を振る十兵衛に、彼は困ったように宥めた。
「ううん、俺からしたらお前はとても可愛らしい子供なんだがな……ほら、そこに池があるだろう。映してみよう」
「……」
十兵衛は手を引かれ、池の前までやってきた。池は水がわずかに流れるばかりだったが自分の顔を見るには十分だった。ゆらめく水面に映る自分は、良いのかまずいのかまだわからない。
「どうだ?」
「よくわかりません……」
十兵衛の言葉に、彼はそうかそうかと頷くと、十兵衛の頭を少しだけ撫でた。
彼は土井正次と言う十兵衛より八歳年上の青年だった。十兵衛はその時まさに、彼に恋をしたのだ。まるで長い冬を越え、雪解け後にみずみずしく若草が茂るように、そこには小さな花があるように、十兵衛はその心の喜びを噛み締めた。
父に連れられ帰った後も、胸がどきどきして眠れなかった。恋であることに気がついたのはもう少し経ってからだった。
最近おかしいと正次は思う。
伯父の推薦で仕事を始めて数年。それなりにやってきたと思う。伯父は家康の、そして自分は秀忠の落胤だなどと言う謂れもない噂話は仕事を進めてくれば消えると思っていた。実際、正次の態度を見てそんなことを言ってくる人間は余程の変わり者くらいになった。しかし、そういう手合いならばまだよかったのかもしれないと今なら思う。
「殿……あの方は……」
傍の人間が伺うようにしているのを、目を合わせるなと口にする。これではまるでこちらが無視をしていじめているようではないか。実際はそうせざるを得ないのっぴきならない理由があるのだ。
そういう正次の後ろめたさを知ってか知らずか、気がつけばずんずんこちらに近寄ってきた少年は、目をキラキラとさせてこう捲し立てる。
「土井様! ああっ偶然ですね! こんなところで会うなんて!」
偶然なはずは多分ないのだ。きっと彼はここで正次の仕事が終わるのを待っていたのだろう。それもおそらく非番か勤務明けに。何故断言できるかというと、それはここが会おうと思わなければ会えない詰所からの廊下であるからだ。
そこまでしなくても、普通に呼びたければ呼べばいいのにと思うのだが……彼が自分を気に入ったと言うのならばいいのだが、最近どうも様子がおかしい。懐くにも限度があると思う。
「ああ……待っていたのか」
「そんな……志摩様はここでずっと待っていた私のことを心配してくださったのですか! 嬉しい……」
そう言って目を潤ませている。偽りではなく心の底からの涙だと思う。そしてなぜか会話がかみ合わない。
十兵衛を可愛らしいと言ったのは、確かに本心ではある。だが別に衆道やそういう意味を持って伝えたわけではない。これは誓って言えることだ。
正次は自分の言葉のどこかおかしかったのかもしれないと何度か考えたが、それでもやはりおかしいと思わざるを得なかった。ではこの十兵衛がおかしいのか。改めて見る。
年はまだ十三そこらだという。正次よりはるかに年下だが、年齢だけ見れば確かに相手として間違いはない。だが彼は家光の傍に仕え、家光のお気に入りになろうとしている少年だ。手を出せば何が起こるかわからない。そんな危ない橋は渡れないし、渡ろうとも思わない。そのあたりが十兵衛には通じていないのだろうか。相変わらず彼は目を潤ませたまま、正次の周りをちょろちょろする。
初めて会ってから三年ほど経つが、この三年間は十兵衛を大きく成長させた。おそらくまだまだ背丈は伸びるだろうが、既に正次とほぼ目線は同じだし、体格はもう追い越されそうだ。そんな彼に周りを取り囲まれるのは正直言って身の危険すら感じる。
「わかった、あまり大声を出すんじゃない……」
これでは本当にそう言う仲のようではないか、頭を抱える正次を覗き込む十兵衛の表情は、まるで浮浪児の飢えた目だ。胃も心も肌も満たされないと言いたげなその体を、抱いてやれば解決するのだろうかと一瞬よくないことが頭を掠める。だがそれはただの気休めだ。それで立場を危うくするのは十兵衛も同じだが、彼はまだ幼い。それがどれだけ身も心も傷つけるかを、知らないことこそが彼の危うさだ。
「では、では、私の稽古に付き合っていただきたく」
「お、おう……?」
自分なんかが相手になるわけがない。相手は家光の指南役である柳生家の子だ。噂では宗矩の子供たちの中で一番才能があると言う。
一方で正次も何も知らないわけではない。武家の子として一通りは叩き込まれたが、それはあくまで最小限だ。子どもの頃から母に言われたことは一つだった。
「あなたは伯父様を支える人になりなさい」
伯父……利勝は、人の話をよく聞き、折衝役となることで取り立てられた。その人の言い分をうまく聞くためには、聞き手の知識と教養、そして経験が何よりもものを言う。それを支えると言うことは、つまり正次に求められたのはまず勉学だった。
だから体を動かすことは必要最低限だった。正次たちを上の世代は戦知らずと呼んでいたが、正次にとっての戦場は間違いなく人と人の間に存在した。しかし、幼いとはいえ十兵衛に稽古に付き合えと言われたら、それを無碍にしない方がいいのではないかと思うし、もしかしたら彼だって、正次のことを穏やかな兄貴分のように思っているだけで、そこまで深いことなど考えていないかもしれない。
そう思うと急に、意識していたのは自分だけなのではないかと恥ずかしい気すらしてくる。だから断ることなく、正次は十兵衛に連れられ屋敷の稽古場に向かった。
結果的に言うと、それは悪い噂にはならなかった。利勝にも特に注意されることもなかった。武家の本懐を大切にしていると少しだけ囃されたが、まあ、悪い気はしない。ただ、気になったことがあった。稽古に付き合った後、十兵衛がぽつりとつぶやいたことだ。
「顔が悪いと言うのは父上です。でも、父上は間違っておりません」
真剣な顔をして、そう言う彼になんて言えばいいかはわからなかった。彼の父である宗矩とは面識があるが、とてもそういうことを言うような人間には見えない。一見寡黙に見えるが、話をしてみればむしろ気のいい男だと思っていたくらいだ。しかし十兵衛が嘘をついているとも思えない。
父と子の関係などというものは、外からは伺い知れないものだ。どんな人間でも、親としての顔や子としての顔がある。それはわかっているが……正次はふと、仕事が終わって酒を呑む伯父の遠い眼差しを思い出していた。きっと外の人間は知らないだろう。彼が機嫌よく調子はずれの鼻唄をうたいながら酒を呑んでいる姿など。
「父はいつも正しいのです。本当にあの人の言う通りになるのです。だから、私は……」
「十兵衛殿」
俯き、涙をこらえている彼の頭を、正次は撫でてやるしかできなかった。宗矩が何を思ってそんなことを言ったかの真意を知ることはない。しかし、それで十兵衛が傷つき、苦しむのであればそれは違うと思う。
生まれや育ちというものは、子どもが自ら望んで変えられるわけではない。それは正次が一番よくわかっている。夕闇が迫る中、二人で暫くそうしていた。誰からも見えないところで、それでいてそれは清らかだったと思う。
それから十兵衛はしばらく家光の元にいたが、些細なことで柳生家に帰された。本当に些細なことだと十兵衛は思う。
家光に反抗したつもりはない。しかし、彼の眼差しに応えられる器では今はまだない、そう思ったことを率直に口にしただけにすぎない。家光は静かに怒っているようだったが、やがてその表情をそっとしまい、蟄居を命じた。周りはまるで十兵衛の人生が終わったかのような顔をしたが、むしろそれは新たな人生の始まりでもあった。
十兵衛が江戸に帰ったのはそこから十年以上経ってからだった。あれから十兵衛は自らを変えるために自己研鑽に励み、彼の過去の姿を知っている者は皆驚くほど、身も心も猛々しくなった。それもこれも、父や兄弟、家光、そして誰よりも初恋の相手である正次にふさわしい人間になるためだった。しかし、江戸に戻り働き始めても、しばらく十兵衛が正次に会うことはなかった。
正次はその頃、姓を元の三浦に戻しており、忙しく働いていた。それはもちろん十兵衛も知っていた。それどころか、どこに行けば彼に会えるかも知っている。だが、昔のように羽のようには会いに行けなかった。正次も忙しいのだ。迷惑になってしまうのではないだろうか。それにやっと会えるのだから、もっと劇的に再会したい……そんなことを考えていたら、江戸暮らしがひと月を越えてしまった。
だからその誘いは十兵衛の心を動揺させるには十分だった。正次が十兵衛の元に使者を立て、ぜひ会いたいと言ってきたのだ。十兵衛はその時ありとあらゆる可能性を頭の中でこねくり回した。まるで幼い子どものように、これから起こりえる事象を想像しようとした。しかしなにもわからない。だから頷いた後、一晩眠れなかった。まるで正次と初めてあったあの日のように。少し酒を呑んでも、気がまぎれることはなかった。
正次が十兵衛を呼んだ理由は、思ってもみない事実を十兵衛につきつけるものだった。
「あまり体調がよくない」
久しぶりに会う正次は、穏やかなまま年齢を重ねていた。それを悪い冗談かと狼狽えていると、彼は小さく笑って十兵衛に酒を勧めた。こんなに美味しくない酒を正次の前で飲むことになるとは思っていなかった。まるで海水でも呑んでいるようだった。
「せっかく城をいただいたが、もう長くないかもしれない。だからその前に十兵衛殿に会いたかった。会って礼を言いたかったんだ」
「そんな……礼?」
舌の上で言葉が転がるだけ転がってなかなか出てこない。たくさん言いたいことはあったはずだ。今までどれだけ努力したか、どれだけ正次を想っているか。本当ならば自分でもどうかしているとわかっているこの感情を、どれだけ正次に向けているか……昔なら簡単に話せたろうか。
正次はしかし、十兵衛のそうした言葉未満の空気に柔らかく微笑んだ。少し白髪が混ざったが、今もその眼差しは力強くそれでいてすべてを受容するものだった。あの頃から正次は変わらず、十兵衛が途方もなく好きな空気を纏っている。
「六年ほど前に、上様の鷹狩りに随行した時に猪が出てな。まっすぐ上様の方に突進したのを斬ることができたんだ。昔、十兵衛殿が私に剣の稽古をつけてくれただろう、そのおかげだ。礼を言う」
正次の言葉に、十兵衛が思い出したのはあまりにも苦い記憶だ。あまりにも拙い口実で正次と二人きりになって、稽古というにはあまりにも脆いことをして、本心を口にする勇気だけがどうしても出なかったくせに弱音まで吐いた。押し留めていた父の話までしたのだ。
あんなこと口にしなければよかった。もう父は顔のことを言わない。まるで興味がなくなった風だ。それでいいと思っていたが、今もまだどこかで納得がいかないのだと思う。
「私なんて、何もしていません……それどころか、お見せするべきではない顔まで見せた。恥ずかしい限りです」
「いやいや、十兵衛殿のお陰だ。これは但馬殿にも言われたことだよ」
「父上が? お戯れを、そんなこと言うわけが……」
「私がそんな冗談を言う筈がないだろう? 実はあの後、少し文句を言ったんだ。私からでなく伯父殿からだが……少しは効いたんじゃないか」
正次の言葉を信じないわけではない。しかし、そんなこと知らなかったし、宗矩も億尾にも出さなかった。正次の伯父といえば今や大老の身分で、確かに父と仲が良いようだったが、まさか自分のことを話すとは思わなかった。
十兵衛は今度こそ、本当に何も言えなかった。言葉になるどころか頭の中がカッと熱くなって、今すぐ走り出したくなる衝動に襲われた。父や正次に対する想いを拗らせて、真っ当に接することもなく、いまただこうして震えるだけの十兵衛はどれだけ幼かっただろうか。からだも心も大人になったと自分では思っていたが、一番大切なことを子供の姿のままに成長してしまったのかもしれない。
正次は何も言わない十兵衛に何かを悟ったのだろうか、ふふ、と息を吐くように笑うと傍に寄った。背丈ならばとっくに通り越した。体格だって絶対に負けない。しかし、正次の少し痩せた指に頭を撫でられる十兵衛は、昔のまだあどけない少年の姿のようだった。
「こちらにいた時もあれだけ稽古をしていたんだ。さぞや努力したのだろう。立派になったな。父君のことは私には詳しいことはわからないが、十兵衛殿は今も可愛らしい顔をしていると私は思うぞ。いや、これは言い方がまずかったか……いい顔になったな、十兵衛殿」
聞き終わる前に十兵衛は正次に、本当に子どもが縋るように抱きついて泣いた。病人だぞ、と言いながら正次は十兵衛の肩を撫でた。十兵衛が泣き止むまで随分と時間がかかった。
ぐすぐすと涙を拭い、十兵衛はそれまで言えなかったことをやっと口にした。そこに至るまでどれだけの時間がかかっただろうか。途方もない夜を越えて、出てきた言葉はとても簡単なものだった。
「ずっと志摩様のことが、好きでした」
「そうか、それは……困るな……」
十兵衛の言葉にそう返すと、正次はまた笑った。
了