風の凪ぐ音が聞こえる。月の無い夜の帳の中でその景色がどうなっているのかは伺えないが、きっと冷たい風が吹き付けているのだろう。
与一郎は身を起こしてその気だるさを改めて思い知った。
…全部嘘だったらよかった。実はこれは与一郎が見ているとても都合の良い夢で、本当のところは何も事態は変わっていないだとか、そういう類のものならばいくらかはましだったような気がする。
苦々しげにその隣を見やると、忠三郎は何も無かったかのように静かに眠っていた。仄かに想像していたものよりずっと静かで、起きる気配が微塵も感じられなかった。ここ数日あまり眠れていなかったとは聞いているから、仕方のないことかもしれない。起こしてやろうかと手を伸ばすが、その体に触れる前にどうしても止まってしまう。
この体はつい先刻まで、与一郎と共にあった。言葉通りの意味だ。全てが溶け合い一つになるような感覚だったのは覚えているが、抱かれている間に何があったかは、早くももう思い出せない。どんな言葉を交わしたかも、痛みも、苦しみも、悦びすら。あるのはどんよりとした、形のはっきりとしない虚しさだけだった。実際は何も言葉など交わさなかったかもしれないし、なんの感情も持たなかったのかもしれない。そんなもの、最初からなかったのかもしれない。
なんだか急に体を清めたくなってきた。というより、それを口実にこの場から逃げ出してしまいたくなった。この夜のことは忘れたくはないし、時間や立場を越え忠三郎とともに居たいとは確かに思う。だが、今はなんだか遠ざかっていたくて仕方がなかった。何故だろうか。忠三郎を呼んだのは間違いなく与一郎で、この場は今も与一郎の居場所のはずなのに、まるで取り上げられたかのように居心地が悪い。
理由は…わかっている。この行為が何よりも不毛だと、与一郎が感じてしまったからだ。装いを乱されたその瞬間から、その寒々しさを感じてしまったからだ。外の風よりも冷たく素肌を吹き付けるような、不毛な行為。抱かれている時ですら与一郎は孤独を隠しきれなかった。この身の孤独を、忠三郎は感じ取ってしまっただろうか。共有してしまったのではないだろうか。だとしたら、やはりどこまでも不毛だ。
誘ったのは確かに与一郎だった。それに応えたのは間違いなく忠三郎だった。両者の合意の上で、ことに及んだ。そのはずなのに。
まるで与一郎が、無理矢理忠三郎を手にかけたようだ。まるで初めて人を殺してしまったように、その事実は与一郎の心を揺さぶった。本当に殺してしまってやいないだろうか。
忠三郎を見やると、背中が、こちらを見ていた。いつの間にか寝返りを打ったらしい。本当ならば、寂しいと感じたり、軽薄な忠三郎の行動に怒ったりしてもいい立場なはずなのに、何故か安心してしまった。その背中はかすかに動いていた。動いている、生きている、殺してはいなかった…よかった。素直にそう思った。忠三郎に気づかれないように小さくため息をつく。元来こんなことをいちいち気にするような性格ではなかったはずなのに。
すべて忠三郎のせいだ。そうに決まっている。そうとでも思っていないとやっていられない。…わかっている。そんなことではないことくらい。それでも思わざるを得なかった。こんな自分を抱いた、それも優しく。見たことも聞いたこともないくらい、忠三郎は優しかった。今一度己の手を見る。この手は忠三郎を誘って、手にかけた。それは暖かかった。暖かく、豊かだった。与一郎には眩しすぎるほど。
そう、光が強いほど影が濃くなるように、忠三郎が豊かで暖かいほど、与一郎の心は冷たく吹き荒む。ここまでしたのに何も手に入れられなかった。そんな虚無感が、与一郎を襲うのだ。
何のために、何を喪い、何を手にしたのだと言うのだろう。その手にしたものは与一郎の細い指先から逃げてはいないだろうか。海に広がる砂や水のように。何も残さず、ただ与一郎を見つめるばかりではないのだろうか。お前は何も手に入れられなかった。そう言いたげに。
一方で、忠三郎は眠ったふりをしたまま考えていた。忠三郎は忠三郎で、考えていた。
裏切ってしまった。何もかもを。自分は意志の弱い人間だ。結局与一郎は最後まで何ひとつ言わなかったが、あのどこか冷めた目が、行為中に忠三郎の胸を何度も刺した。そう…あの目が、たまらず忠三郎の恐怖心を煽ったのだ。
酒に酔っていたなんて言い訳、今更通用するはずがない。いい年をして何をしているんだ。これからどうするつもりだ。相手はよりにもよって与一郎だぞ。多くの言葉が自分を詰る。それに対して返す言葉なんて、この手に持っているわけがない。
…一番大切にしていたのはなんだっただろう。信仰だっただろうか。友だっただろうか。そのどちらもだろうか。それともまた、違うものだっただろうか。その大切な友人に誘われるがままに、大変なことをしてしまった。もう後戻りはできない。もう取り戻せない。教えも、友人も全て壊したのだ、この手で。間違いなく。
寝返りを打つふりをして与一郎に背を向ける。これがやっとのことで、忠三郎ができる最低限のことだった。気恥ずかしくなったわけでも、与一郎を粗雑に扱うわけでもない。むしろ逆だ。大切にしたかった、それだけは堂々と言える。今も変わらない、はずだ。
だから、向き合えないのだ。向き合って言葉をかけるなんてそんなこと軽々しくできるほど、軽薄な人間になれなかった。
与一郎は一言、寂しいと言っていた。
その寂しさを、この手は埋めることができただろうか。それとも、広げてしまったのではないだろうか。忠三郎は思い悩む。もう二度と、大切だった友に会うことができないような気がして。…そうではない。そういうことではないのだ。きっとまた、与一郎とは会うことができるだろう。だが、どう言う顔をして会えばいいのか、どんな言葉をかけてやればよいのか、それがどうしても思い浮かばないのだ。また笑顔で会えるだなんてそんな楽観的にはとてもなれなかった。それを考えたら、忠三郎が与一郎にしでかしたことは間違いなく大罪だ。それすら考えずにまるでその場凌ぎのように抱いてしまった。優しくも荒々しく抱いてしまった。与一郎の体は熱くその眼差しとは裏腹に激しく忠三郎を求めた。忠三郎はそれに応えてしまった。それはけして応えてはならない呼び声だったということは、わかっていたはずなのに。
そもそも忠三郎には右近という心に決めた男がいた。それは与一郎も知っていることだった。叶わぬ恋を抱えているのは忠三郎だけだと、つい先ほどまでは真剣にそう思っていた。だがそれは間違いだった。与一郎もまた、忠三郎に叶わぬ思いを寄せていたのだ。だから、それが寂しいと与一郎は言ったのだ。あのときの与一郎は見たことも無いほど弱弱しく、今にも倒れてしまいそうなほどだった。だから慌てて抱きとめたのだ。そこから先は…ここで語る必要も無いだろう。もう十分だ。年下の彼を、一時の気の迷いで弄んでしまった。これ以上言えることなんてない。
与一郎が身を起こしたようだ。気配は感じるが、何をしているかはわからない。その姿を見てしまったら、与一郎を汚してしまった事実が確定してしまうような気がして…いや実際は確定しているのだが…その姿を振り返って見ることはできなかった。
なんだか無性に泣き出してしまいたくなった。それは逆だろうと自分でも思う。泣かせるようなことをしたのは自分だ。与一郎ならまだしも、忠三郎が泣くのはお門違いだ。嗚咽をこらえ、一雫の涙を落とす。一瞬でも満ちてしまった。与一郎の体をもてあそんで、充足してしまったその絶望と嫌悪感だった。誰にも見せられないものだと思ったし、実際誰にも見せたくない。
そう考えると、与一郎の気配を感じるのも怖くなる。与一郎が、怖い。柄にもなくそう思ってしまった。
ただ、もっと優しくしたかった。それだけなのに。
暫くして、徐に与一郎が口を開く。
「ひどい人ですね」
「……」
誰に向けたか言葉か明言はしていないが、自分に向けられたということだけは確かだ。ひどいひと。その通りだ。何も言い返せないし言い返す資格を忠三郎は持っていない。
「眠ってしまうなんて」
どうやら独り言のようだ。声音は冷たく、突き放すように厳しい。先ほどとは打って変わってまるで氷のようだ。与一郎はやはり怒っている。当たり前だろう。それに向き合うすべを忠三郎は持っていない…それでも何も言わないのは、それはそれで違う気がする。詰られて黙っていられるほど、忠三郎は大人になりきれなかった。
「俺を、恨むか」
忠三郎が言葉を発した。寝言ではない。明らかに目が覚めている。どきり、と与一郎の胸が鳴った。同時にぎし、となにかが軋むような音がした気がした。恨むか、恨まないか、と言ったら、恨みたくないのが本音だ。どちらも選びたくない。その選択肢を与えないでほしい。
誘ったのは自分で、乗ったのは忠三郎。それだけのことだ。恨むとか恨まないとかそういう話ではないのに。それに対しては、恨みたいのかもしれない。
「起きていたんですか。本当にひどい人……」
こんなことは八つ当たりだということくらい、与一郎が一番よくわかっている。唇を噛み締め、溜息をつきながら言葉を零す。
「…恨んだところで何にもなりませんから」
そういってまた自分にうそをつく。嘘をつくのをやめようと思って、半ば心中するかのように忠三郎を誘ったくせに。どうしても嘘をつくのをやめられない。自分は悪い人間だ。地獄にでもなんにでも落ちればいい。でも忠三郎は…自分が手にかけたのだ。何も悪くない。いや、与一郎の誘いに乗った時点で同罪かもしれないが、あくまでも同罪だ。与一郎より罪深いなんてことがあるはずがない。それなのに。
「恨んでくれ」
忠三郎はそう言うと、のそりと身を起こした。はだけた胸元が後ろめたくて咄嗟に目を逸らす。ああ、今も変わらずに与一郎は忠三郎という男を愛している。いっそ、嫌いになることができればよかったのに。全て手に入れたようでいて、それだけがどうしても叶わない。望みの道はすべて絶たれているのだ。
忠三郎はまっすぐ与一郎を見つめて言う。
「俺を恨んでくれ。お前は何も悪くはなかった」
そんなことを言われてしまったら、もう何も言えないではないか。まるで呪いの言葉だ。恨みたい衝動を野放しにしてしまったら、与一郎を与一郎たらしめる何か大切な何かを奪われてしまう気がする。その手にあるものを、そんな言葉を容易に吐けてしまう忠三郎が素直に憎い。きっと彼は彼で考えた上でそう言っているのだろう。なんて優しい男だ。なんて純粋で、なんて無垢な男だろう!その穢れの無い魂が、与一郎をどれだけ責めるだろう。どれだけ詰るだろう。
「お前に初めに手を出したのは俺だ」
「…初めに誘ったのは俺です。忠三殿は何か勘違いをしておられる。願ったのは俺です。俺が何も言わなければ、何も願わなければこんなことにはならなかったのに…」
言い終わる前に、忠三郎は与一郎の手を取った。大きく暖かい手から熱を確かに感じる。冷たい自分の手には似合わない、迸るような熱。振り払おうとするが、その力は強かった。
「何をするんですか。やめてください」
「与一郎は強いな」
「質問に答える気はないんですか」
「俺はな、与一郎…お前がどれだけ苦しんできたか、知りたかった」
「……知ったところで、どうにもできなかったくせに何を…それに」
「それに?」
「あなたには俺じゃない好きな人がいるくせに」
忠三郎の顔が引きつったのを見逃さなかった。与一郎はすべてを知っているのだ。馬鹿正直にすべて晒していた忠三郎の、その心の内を。過ぎるのは一人のこれまた無垢な男の影だ。与一郎の知らない忠三郎の照れた笑顔を引き出すあの男の、線の細い首筋だ。悋気を煽られないと言えば嘘になる。あの男…右近さえいなければ、こんなことにはならなかったのではないだろうか。いや、そんなことは今どうでもいい。
忠三郎が視線を落とし口ごもる。
「それは…」
「あの方を捨てて、俺と堕ちるような貴方じゃないでしょう」
「……」
長い長い沈黙だった。射殺すように睨め付ける。暗い部屋にじめりとした空気が流れた。このまま本当に忠三郎が死んだら。与一郎はそう考えていた。泣けるだろうか、それとも笑うだろうか。いや、泣くだろうし笑うだろう。感情が濁流のように与一郎を攻め立てる。
忠三郎はそんな与一郎の心を見透かしているようにふう、と息をつくと、何かを諦めたようにもう一度与一郎の手を握った。
「…ああ、そうだな」
その答えに、わかっていたはずの答えに、いやむしろ…与一郎が忠三郎に言わせてしまった答えに…今更胸が痛む。何をしているんだろう。今更先ほどまでの荒々しい行為を思い出して、唇を噛んでその手を握り返して、めいいっぱい握り締めた。千切れてしまえばいいのに。本気でそう思った。
「やっぱりひどい人」
泣けるなら泣いてやりたかった。泣き喚いて、殴ってやりたかった。蹴ってもいいだろう。…できない、そんなことできない。わかっている。そんなこと言われなくてもわかる。
「そうだ、酷いやつだ、俺は」
忠三郎は、すまない、と呟くと俯く与一郎の頭を撫でた。そうやって、すぐ子供扱いをする。もう子供でもなんでもないのに。子供ならば、泣くこともわめく事もできただろう。恥も外聞も無い。でもそれを捨てられるほど、そして抱かれたから幸せなんて思えるほどの楽観を持てるほど、与一郎は子供ではなかった。残念なことに。
「俺がすべて悪かったんだ…お前の誘いに乗らなければよかった。俺は…あの人を諦めきれないことを知りながらお前を…」
「やめてください」
もう何も言わないでほしかった。言われなくったってわかっている。もう何を言っても無駄だ。手に入れたはずなのに、何も手になんか入ってなかったのだ。それが事実だ。寒々しいほどに事実だ。ため息をつくとつられるように忠三郎もため息をついた。
「明日も、その次の日も…会ってくれますか。何も無かったように、今までどおり」
「……努力する」
「俺はそれでよかったんです…」
「与一郎…」
「馬鹿な俺を笑ってやってください。愚かな俺を、詰ってください…それだけが俺の救いとやらです」
救い、なんて言葉久しぶりに使った。救いなんていらない。本当にそう思っていた。
でも、もし救いがあるのならば。先ほどまでの痴態を無かったことにできるのなら。それは本当に与一郎にとっての救いなのだろうか。わからない。抱かれた体が再び疼きだしているのを隠して、顔を伏せた。もう二度とこの男に抱かれることは無い体が熱を持たないように。今だけは堪えるのだ。
「救い…」
忠三郎がそう言って与一郎の眼を見る。それに応えるて視線を上げ、忠三郎の深い色をした澄んだ眼を見る。暗がりでもわかる。何でも受け入れる強さを湛えた、海のような眼。この眼差しでどれくらい心打たれただろう。もう思い出せない。思い出すことすら、許されないような気がする。
「俺は、お前を笑う資格なんてない。もちろん今までどおりにやっていくようにする。だが一つ言っておきたい…お前は勘違いというが、お前の言葉に乗ったのは間違いなく俺だ。お前がなんと言おうとそれは変わらん」
「…そうですか」
忠三郎は与一郎の言葉を遮るように、この細い何もない体を抱き寄せてきた。暖かなそれがいやでも伝わってくる。抗ってはみるが、本気にはなれない。甘受したい、だなんて言える立場ではないのに。せめて言葉でだけ、抵抗する。
「やめてください。俺が今まで言ったことを全部無駄にするつもりですか」
「今だけだ」
今だけ、その言葉が与一郎の唇を喰ませる。忠三郎は与一郎の肩口に頬を寄せ、きつく抱きしめてきた。それに応える手を、与一郎は持っていないのに。
「俺もお前と同じだ。俺は…寂しかったのかもしれん。お前には酷いことをした。到底許されないことをした。それは変わらん。それを贖えるのが今まで通りに振舞うことなら、いくらでも努力しよう。…ただ、今は、寂しいんだ。少しだけ、このままでいさせてくれないか…」
彼はなぜこんなことを言っているのだろう。忠三郎のことだ、きっとこの言葉は全部嘘で、与一郎のことを考えてやっているに違いない。だとしたらそれは間違いだ。与一郎はもうすべて諦めてしまった。その手に何もないと思って、もう手を下ろしてしまっているのに。もし寂しいのなら、本当に忠三郎が愛しているところに行って仕舞えばいい。もう、それでいい。与一郎のことなんて、ただの友人だと笑って言ってくれた方が、まだ救われるというのに。
それを言葉に乗せて伝えることだけは、できなかった。
忠三郎は嫌になる程優しく与一郎の体を抱きしめる。それは馬鹿に暖かかった。こんなことでもしないと与一郎が逃げるとでも思っているのだろうか。それは半分は間違いだ。確かに逃げたいとは思うが、忠三郎の元を離れたらもう二度とまともに会うことがないような気がする。だから逃げることなんてできない。与えられた嬉しいものを、いらないと言って手放すことができるほど、与一郎は達観してなかった。ああ、これが惚れた弱みというやつなのかもしれない。認めたくはないのだが。
「やっぱりひどい人………」
そして与一郎はようやく涙を一粒落ちることを許した。肩越しに忠三郎が微かに笑ったような気がした。