月の光が弱々しく差し込み、右近の胸元と忠三郎の肩口を照らした。
息を殺しながら、再び手を伸ばし右近の慎ましやかな乳首に触れる。びくりと反応し、咄嗟に手を掴まれた。しかし少しずつ力は抜けていく。
…どこを触れば右近の気が紛れるかなんてわからなかった。きっと彼にとって初めての経験であろうそれを嫌な思い出にだけはしたくなかった。恐る恐る腰を押し進めると、忠三郎の下でひっと小さな悲鳴が聞こえる。
「痛くは…ありませんか?止めましょうか」
ふるふると、右近の首が横に振られる。が、頰は紅潮し目にはうっすらと涙が浮かんでいる。よほど痛いのではないだろうか。そうでなくても初めての閨に、忠三郎が急いてはいないだろうか。自らの行動を振り返るがすべて悪手な気がしてくる。
「大丈夫、です……」
彼の言葉を鵜呑みにしつつ、また徒らに胸元を弄るが、それが正しいことなのかはわからない。
いや、そもそもこうして右近を組み伏せて、体を好きに弄んでいること自体が正しいことではない。右近の同意の上で事に及んだ結果とはいえ、背徳感がまるでないかと言えば嘘になる。いけないことをしている、頭のどこかで引っかかるそれが、今はなんだか焼け焦げるように忠三郎の価値観を崩している。
それは右近も同じなのだろうか。彼もまた、惑い迷って進んだ先にいるのだろうか。
「あ、あ…」
右近の唇から、弱弱しい声と吐息とが漏れる。
少しは善くなっているのだろうか、積み重なるような不安に苛まれその白い首元に顔を埋める。応えるように右近の腕が忠三郎の首にしがみつくように抱きしめた。
それがひどくいじらしく感じ、忠三郎のそれがますます大きくなるのを抑えられなかった。
「ひ…ぁ……」
ゆっくり、ゆっくり前後させる。くちゃくちゃとはしたない音を立てて忠三郎と右近の接合部が揺れる。抱きしめる右近の指先に力が入るのがわかる。傷になってしまっても構わなかった。むしろ、傷をつけて欲しかった。この体は右近のものだ。誰になんと言われようと、今だけはそうなのだ。口には出さなくても、そう言って欲しくて。
右近のしなやかな体はまるで涙を落とす乙女のようにしとやかで、どこからか良い香りがした。
しみひとつないその白い肌に、むしゃぶりつくように唇を這わす。ずっとこうしてみたかった。まるで花の蜜に溺れる虫のようだ。二度と花から出ることが叶わなくても、それは本望としか言いようがない。
右近が声を殺しているのが目に見えてわかる。ああ、もっと声を出して欲しい。右近の性格から言ってそれは難しいということはわかっていたが、なんだか勿体無いような気がして、腰を少し強めに進めた。
「…!飛騨殿…」
はあはあと息を切らし、懇願するように見上げられる。その眼差しに胸を突かれて、思わず頰に口づけを落とした。
「…高山殿」
深く、深く、もっと先へ。
右近の体の更に中に入っていく喜びを隠せない。やっと一つになれた。夢にまで見た。やっと一つになれたのだ!この体は、今だけは忠三郎だけのものだ!隠し通していた支配欲が忠三郎の理性を吹き飛ばす。ずっと悪いことだと秘密にしていたたった一つの欲望が、まるで血飛沫のように暴れまわった。誰にも渡したくない、誰かのものになんてさせたくない。このまま二人で隠れてしまいたい。毎日こうして体を重ねていたい。できないとはわかっている。それでも、今だけ、思うだけなら赦されるのではないだろうか。
愛しい体、愛しい魂。全て、全てが忠三郎の腕にある。この時さえあればもう何もいらない、そう考えてしまうほどに。
「飛騨殿、飛騨…殿…ぁ…あ…」
右近の上ずった声が忠三郎を現実に引き戻す。快楽から逃れようとする右近の半開きの口がどこかいやらしい。これまで清さの塊だと思っていた右近の造形の中に隠れた欲を見つけ出したのが嬉しくて、忠三郎はそっとその唇を食んでみた。
「ん、ん…」
啄ばむような口づけから、次第に荒っぽいそれへと変貌していく。
口内を蹂躙し、熱に浮かされたような右近の眼差しと忠三郎の眼差しとがぶつかる。右近はなにも言わず、再び忠三郎の首に腕を回してきた。耳元に右近の呼吸する音が聞こえる。本当にこの人が、右近という男が、自分に心を開いてくれたような気がした。
右近の首筋に顔を埋め、その首に残った傷痕に唇を這わせる。今更癒えるわけではない。そんなことわかっている。でも、なにか変わるかもしれない。そう思うと、止められなかった。
「あ、あ…」
息を漏らしおかしくなりそうな感覚を抑えて、右近は痛みと快楽と、ひと匙の背徳感を胸に忠三郎に抱かれていた。
抱きしめられ唇を奪われ、右近が頷くと忠三郎は恐る恐る、右近の体を蹂躙し始めた。それを受け入れることが正しさの不在だということがわからない右近ではない。だが、それでも受け入れたかった。それが勝ってしまった。いまも、変わらずにそうだ。
忠三郎が右近の首筋を舐める。思わず肩がひくついたが、何故かしら嫌な気持ちにはならなかった。
…本当は、正しさなんて関係なく、人とこうして触れ合うことすら右近は躊躇う人間だ。何が違うのだろう。何かが変わったのだろうか。その変化は、喜ばしいことなのだろうか。
下腹部の異物感にくらくらとしながら考える。が、どうしても快楽に引っ張られて何も考えられなくなる。もう一度、忠三郎に縋り付く。すると忠三郎は優しく声をかけてきた。
「どうかされましたか…?」
「すみません…考えてしまって…」
忠三郎の武骨な指が右近の頰をなぞる。こんなことをしているさなかに考え事なんて、なんて悪い人間だろうと改めて思い自分を詰ったが、忠三郎はまるで子どものように右近の目を覗き込んできた。そんなこと気にもしないというように。
「考え事ですか?…よければ教えていただけませんか?」
「あ、あの…」
そう言われると、なんと答えたものなのか。目を逸らし、出て来た言葉はあまりにも拙かった。
「不思議な気持ちがして…飛騨殿とこうしていると…私は、もっと情のない人間だと思っていたので…」
「そんなことないじゃありませんか」
そう言って忠三郎は右近の首筋に頬を寄せた。暖かい吐息が敏感な首筋に当たって、ふる、と身が自然と震えた。
それすら愛おしいというように忠三郎は腕を右近の背中に回し抱きしめてくる。なんでだろう、嫌な気分が、しない。
情のない人間、確かにそう思っていた。自分の中にある欠落した感情を、常に右近は見つめていた。誰かを心から愛したことが、今まであっただろうか。それは、あった、と思う。でも、誰かにすべてをさらけ出すほどの勇気を、今まで持ったことがあっただろうか?自分の厭なところも、恥ずかしいと思うところすら、全てを受け入れてしまうほどの暖かさに、今まで触れたことがあっただろうか?それは…なかった…のではないだろうか。
「…愛しています」
忠三郎は零すようにその言葉を口にする。右近には、まだできない。その言葉を口にすれば、何かが壊れてしまう。右近の中の大切な何かが。そんな気がして。だから右近は忠三郎の背中におずおずと手を回すことくらいしかできなかった。
「愛しています…愛しています」
何度も、何度も浴びせられ、言葉の渦に嵌っていく。
こんなことをしてはいけないのに、こんなことを言われてはいけないのに。その言葉に応えられるだけの言葉を、右近は持っていないというのに。
太腿を抱えられ、あられもない格好で抱かれているその姿を、忠三郎にだけは見せたくなかったその姿を、今まさに見られている。恥ずかしさともどかしさと共に、何故か感じる充足感はなんなのだろう。右近にはわからない。言葉の代わりに出てくる情けない喘ぎ声も、こんな痴態も含めて忠三郎は愛してくれると言っているのに。そんなことを言われる資格などないと、心の裏側から声がするようだ。好きなもの同士でこうすることは自然なことで、幸せななことのはずなのに、それを甘受してはいけないという気持ちが、どうしても右近から消えない。
「愛しています」
右近がその愛の言葉に逡巡していることを知らぬ忠三郎は、ひたすらその言葉を零すことで右近への愛情を確かめていた。愛している、心の奥底から痛いほどに。その言葉を言わないと死んでしまうのではないというほどに。自分でも幼いと思う。それでも、言わざるを得なかった。言っておかないと、右近の中にある懸念や悲しみが、さらに膨らんでしまいそうな気がして。
「…飛騨殿…」
右近に呼ばれその言葉は途切れた。潤んだ目で見上げられると、胸の奥が締め付けられそうで、咄嗟に頬に唇を寄せた。右近は恥ずかしげに目を伏せると、何度か逡巡するように瞬きをした。そしておずおずと口を開く。
「私も……」
「…!」
そこから先の言葉はなかった。しかし、忠三郎の心を動揺させるには十分だった。その先の言葉は埋めるのに忠三郎の持ちうる言葉では足りないくらいだった。
右近の口からそんな言葉が出てくるなんて、いや、実際は出ていないのだが、匂わせるようなことすら言わないだろうと思っていた。
誰よりもこの行為自体が許されてはならないことだということを右近は知っているはずだ。言うわけがない、言えるわけがない。右近のような清廉潔白の塊のような人間が、男を、忠三郎を愛しているだなんて。
だから代わりに言ってみたのだ。愛していると、何度も何度も。阿呆のように。どくん、と心臓が鳴るのを感じた。この気持ちをどう表現したものか。忠三郎はしばらく右近を見つめていた。右近は右近で、自分の言葉や忠三郎の態度に驚いたのだろうか、あの、と頬を赤らめて俯いてしまう。
いとしい。なんていとしい魂なのだろう。正しいか正しくないかなんて、今だけはどうでもいいのだ。この感情だけに溺れていたい。悪いことだということはわかりきっている。罪だというならば喜んで罰を受けよう。後悔は、後回しだ。
「…嬉しいです」
忠三郎はそう返すのがやっとのことで。そっと右近の体を抱きしめた。暖かい。生きている。この一見作り物めいた体が、確かに熱を帯びている。それは自分のせいなのだ。自分の及んだことでそうなっているのだ。そう思うと、たまらない気持ちを抑えきれない。
何も考えず力いっぱいに抱きしめたい気持ちをやっとのことで堪え、忠三郎は右近の鎖骨に口付けを落とした。
「愛しています」
「…はい」
夢のような時間だ。甘さと熱に頭がどうにかなりそうだ。笑みが止まらない。かと思えば涙がこぼれそうだ。あまりにも嬉しくて。あまりにも愛しくて。もうここで死んでしまってもいいような、そんな気持ちにさえなる。髪の先から爪先まで何か得体の知れない、暖かなもので満たされるようだ。
それはきっと、蜜のように甘く、涙のように暖かいのだろう。きっとそうだ。
それから口付けを交わしながら、欲望の赴くままに右近を抱いた。
熱い息が互いの頬に当たるのも構わず、ただ獣のように交わった。普段の二人ならば考えられないほどにそれは荒々しかった。
「あ、あ、あ…う…」
突くたびに小さな喘ぎ声が右近の唇から漏れ、忠三郎の耳を響かせる。
それが余計に忠三郎を煽ることを、右近は知っているのだろうか。いや、知りはしないだろう。知らないからこそ、美しいのだ。この魂は。
そんな魂を汚してしまった背徳と、それを埋めて余りある多幸感が、ない交ぜになって忠三郎を襲った。抗えようもなく、無様に振り回される。ただ、このままこの体に溺れていたい。少なくとも今だけは。
二人が過ごした蜜のように甘美な夜は、愈々明けようとしている。
別れ際、名残惜しげに手に、頬に口づけをした。そこに言葉はなかった。普段は饒舌な二人だが、互いに黙ってこの時間を享受していた。
その沈黙には幸福感、背徳、愛しさ、悲しみ、すべての感情が詰まっていたように思える。
装いを正した右近の体に、まだ忠三郎が残っているような気がする。いつもの自分ならば厭だと思うはずだろうが、そんな気持ちにもならなかった。むしろ一生こうありたいとすら思う。やはり変わったのだ。きっとそうに違いない。そしてこの変化は、正しくはないが喜ばしいことなのだろう。なぜなら、今なお笑みがこぼれるのだから。それを抑えようとも思わないのだから。嬉しいことなのだ。たとえ正しくはなくても。
確かにいけないことをした。それはわかっている。忠三郎とて同じ思いだろう。到底許されるものではない。だが、それでも尚、この選択肢で間違っていなかったのだということだけはわかる。
忠三郎がそんな沈黙を破って、照れくさそうに笑った。
「それでは…」
「…ええ」
右近は頷く。次の約束はしない。してしまったら、この許されざる行為がさらに罪深いものになってしまうような気がして。
それに約束は必要ない。すでに心はともにあるのだから。