それはただの秘め事

迂闊だった。
あまりにも迂闊だった。いくら酒が進んでいたとはいえ、その一言は言ってはならない一言だった。
「どう言う意味だ」
忠三郎はいたって真面目な顔でそう言ってきた。当然だろう。忠三郎が尋常でなく酒に強いことも失念していた。いや、与一郎とて酒にそう弱くはない。だがどうも今日は気が大きくなり過ぎていたようだった。
そもそも言い出せば忠三郎が悪い。先日久しぶりに右近に会ったからといって嬉しそうに何度も何度も惚気のような浮ついたことばかり、その小さな思いすら届いていないくせに目があっただのそして笑っただの、酒が回って機嫌が良いのだろうが聞かされてる与一郎からしたらたまったものではなかった。
「…何か言いましたか」
顔を顰めてとぼけるが、うまくかわせる自信が珍しく無い。忠三郎は忠三郎できょとんとした顔をしている。
「言ったもなにも…その、惚れたとはどういうことだ…?」
「なんのことですかねぇ、何か聞き間違えたのでは無いですか」
「いやいやいや」
あくまで平静を装い、聞き間違えだろうという体を取り繕ったが、忠三郎の前でその手の付け焼き刃の誤魔化しは通用しない。右近に想いを寄せるようになってからそれは強くなったようだ。本人は否定するが、忠三郎はこれと決めたら素直に影響を享受する種類の人間だ。自分がないというわけではない。むしろ彼の我は与一郎と同じくらい強い方だ。だからこそ、自分を飾るように物事や思想を吸収できる。…与一郎が忠三郎に惚れた一因だ。
「まさか…お前も誰かに惚れているのか」
…ああ、見当違いな方向に転がって行った。少し安堵したが、忠三郎はすでに与一郎から根掘り葉掘り聞こうという姿勢を見せているので油断はならない。腹の立つことにその姿は心なしか嬉しそうだ。
何がそんなに嬉しいのか。こちらは心の底から忠三郎を想っているというのに。本当はその嬉しさや楽しみも全て自分のものにしていたいのに。
「いるとすれば新しく側に置いた女くらいですかねぇ」
側室を置かない彼に皮肉気味に言ってやる。 どうせこれで引き下がるだろう。そうたかをくくっていた。結果的にいうとそれは与一郎の読み違いだった。皮肉だとわかっているのかいないのかそれすら疑うくらいに、忠三郎はえらくにこやかにこちらの肩を掴んでくる。気を許した人間には誰であろうと平気で体に触ろうとするところも、与一郎の心をかき乱して仕方のないところではあるのだが、今は鬱陶しくて仕方がない。触ったところから与一郎の本心が流れ出てしまいそうで、肩を揺らしてすり抜けようとするが厭に力強い。そんなことをしても逃げはしないというのに。いや、逃げられるものなら逃げたいのだが。
「何か隠してるな?与一郎、俺たちの仲じゃないか、話してみろ。いつも俺が聞いてもらってばかりなんだ。お前にもそういう話はないのではないか」
そういって酒をあおる彼の顔に、吐くまで離さんという無駄に固い意思が見て取れて内心溜息をつく。
こちらはもうそれどころではない。目の前の忠三郎の行動に内心どぎまぎしては、この苦しい思いを噛み潰していると言うのに。抱きつこうと思えばすぐそばだ。忠三郎もけして安易に拒否はしないだろう。なんだなんだと嬉しそうに笑って頭を撫でるくらいはしてくれるかもしれない。それでも、それではだめなのだ。違うのだ。与一郎の抱く恋とかいう柄にもない劣情を今更吐露したところで、なんの解決にもなりはしない。
「逆に聞きますが私が何か隠すような男に見えますか」
「…さらに逆に聞くがお前は俺に何もかも話すか?」
忠三郎のくせに痛いところを付いてくる。その通りだ。話すわけがない。忠三郎が睨むように見てくるが、それでもそ知らぬふりをする。するしかない。何もかも話すわけにはいかないのだ。その先にあるものが幸せだなんて言えるほど、与一郎は楽観主義者ではない。悲しいほどに。
「話しているではないですか」
「どうだかな。で、誰なんだ、俺の知っている者か」
畳み掛ける忠三郎に苛立つ。俺の好いている相手はあんただこの大間抜けが、と言いたいところだがぐっと飲み込んだ。
「意外と近い人間かもしれませんね」
「まさか…まさかとは思うが…高山殿か!」
「正気ですか」
誰があんな真面目一辺倒の堅物を、と言うと、忠三郎はなんだと、と今にも立ち上がらん勢いで声を上げた。酔いが回っているのだろう、いやに声が大きい。
「あんなとはなんだ。そういう言い方はやめろ」
「別にいいではありませんか」
「いいわけあるか、大問題だぞ」
鼻を鳴らす忠三郎を見て、少しだけ与一郎の悋気が煽られた。どうしてこういう軽い冗談にも噛み付けるのか。与一郎の好きな忠三郎は、冗談の通じない男ではなかった、ような気がする。右近に出会って彼は変わった。確かに変わった。そんな彼も好きだ。確かに好きではあるのだが。
「だいたい私は男は好きません。女の方がいいに決まってます」
ため息混じりにそう言うと、忠三郎は
「そうか?男も女もそれぞれにいいところがあると思うがな」
またそうやってわけのわからない食い下がり方をしてきた。そう言う忠三郎が、やはり気に食わない。お前に何がわかるんだと言ってやりたい。頭ではそんなことをしても意味がないとわかっていても、気に食わないものは気に食わないのだ。確かに与一郎は男は好かない。しかしそれは忠三郎がいるからだ。忠三郎以上の男などいないと思ってしまうとどうしても比べてしまう。それが嫌で男を側に置かないのだ。
そうやってしばらく押し問答が続いたが、そのうちどうしてこうまでして必死に繕っているのかわからなくなってきた。はっと笑うと、忠三郎はむっとした顔をした。非常にわかりやすい男だ。
「何故笑う?」
「いや、失礼。忠三殿があまりにも必死でいらっしゃるものだからつい」
「何だとお前」
「怒らないでくださいよ、そうですねえ、飛騨殿の存じている方だとは思いますよ」
それを聞いて目に見えて忠三郎は見るからに嬉しそうな顔をした。与一郎は全く嬉しくもないし面白くもない。早く話題を変えてしまいたい。だが忠三郎はそうではない、立て続けに言葉を放ってくる。
「男か、女か」
「子が生まれたときじゃないんですから……まあ、それは言いませんけれど」
「男か!?」
声がいちいち大きい。聞かれても困るわけではないのだが、いや、困るか。家中に妙な噂を立てられてはたまったものではない。
お静かに、と指を手にやり小さく呟く。それをしても相変わらず忠三郎の声は大きい。
「だから男は好かないと」
言っているでしょう、という言葉は忠三郎の思わぬ発言に掻き消された。
「俺か」
「は」
「まさか、俺か」
わかったぞという顔をされ、その通りではあるのだが違うと表情を作るのに精一杯だった。何故これだけのやり取りでそういう発想に至ったのか逆に聞いてみたいところではある。いやそんなことを悠長に考えている場合ではない。
「誰があなたみたいな」
「いやいやわからんぞ、お前ならあり得る」
「私をなんだと思っているんですか」
「言うな与一郎、みなまで言うな、わかっておる。お前も辛かったんだろう」
忠三郎はなんてことだ…とつぶやいて手を顔にやった。わざとやってるのかと勘繰ったが、どうやら本気のようで頭を抱えたくなる。
「違います辛くありません」
「…可哀想になぁ…お前の気持ちも知らずに俺はなんてことを」
忠三郎は思った以上に酔っているようだ。酔いがまったく顔に出ないのであまり気がつかなかったが、そういえばもうかれこれどれだけ飲んでいるのだろう。だいたい忠三郎が酒を持ってやってきたときは与一郎は途中から酒を飲むのをやめることが多い。今更無礼を気にする仲ではないし、そもそも彼に合わせたら体が持たないからだ。それは忠三郎もわかっている。ただ先ほども述べたとおり与一郎とて酒に弱いわけではない。特別忠三郎が強いだけだ。その忠三郎がここまで酔うとは、いや、元からこんな性格だったか…違う、こんなことを考えている暇はない。
「飛騨殿、流石に飲みすぎです。そろそろお休みになった方が」
「いや、酔っておらんぞ与一郎。俺はな、お前にすまないことをしたと反省しているのだ」
酔ってる人間は皆、酔っていないとそう言うものだ。
忠三郎は真剣に何かを悔やんでいるようだ。その悔いは確かに感じ入ってほしいところではあるのだが、こんな形で実現はして欲しくなかった。せめて素面の時に反省してもらいたいところだ。
かくなるうえは酔い潰すしかないか、とまで考えたが、どう考えても忠三郎が潰れる前に与一郎が倒れてしまう。そんな無茶な賭けに乗るわけにはいかない。
「与一郎、すまなかった」
忠三郎は真剣な目で与一郎に詫びを入れているが、その目は少々据わっている。…あぁ、もう知るか。こいつは酔っ払いなのだ。何を言っても同じだ。そう思って忠三郎の前に坐り直す。意は決した。
「そうですよ、俺はあんたのことが好きだった。昔から、ずっと」
語気が強まる。子供の頃ぶりに、口調が軽くなった。言ってしまってから唇を噛む。こんなことを言いたいわけではなかったのに。忠三郎は今にも泣きそうな顔をしている。泣きたいのはこちらだ。土足で秘めていた想いを引きずり出されて、まともでいられると思ったら大間違いだ。
「与一郎…」
「勘違いしないでください、今はもう好きでもなんでもありませんから。あくまで過去の話です」
嘘。今もたまらなく好きだ。だがそれだけは言いたくなかった。誰にも言いたくない。忠三郎には特に言いたくない。認めてしまったら…考えたくもない。
「俺はお前に合わせる顔がない…」
「そんな顔しないでください。誰のせいでもありませんから」
「与一郎」
忠三郎はずっと与一郎の目の前まで身を寄せると、この体を軽々しく抱きしめてきた。
ああ、やはり酔っている。素面ならば、もしこんな告白をしてしまった後ならば、忠三郎はきっと恐る恐るこの体に触れるか、もしくは触れることもしなかったろう。全て与一郎の想像の中の話だが。想像では、こんなに簡単に抱きしめては来なかった。
「何をするんですか」
「俺はお前に詫びたい」
「…………口づけを」
「……」
「一度だけ、許して差し上げます。そうすれば、過去の私も収まるでしょう」
「……そうか」
忠三郎はそう応えると一度与一郎から体を離し、改まるように目の前に跪いた。顎に手をやられ、嫌でも顔を合わせる。頰に熱が、血が集まる気がして柄にもなくぎゅっと目を閉じた。
「いくぞ、与一郎…」
「黙って出来ないんですか」
言ってから後悔する。余計なことを言ってしまうことが悪い癖だと思ったことはあまりなかったが、今日ばかりはこの悪癖を憎んだ。
「すまん」
しかし忠三郎は優しい声音でそう言うと頭を撫でてきた。ああ、優しすぎる。この男はどんなことも優しく受け止めてしまう。どんなに与一郎が悪態をついたって、こう言われてしまえば敵うわけがないのだ。そしてそのまま、これまた優しく唇を合わせてきた。
…酒の匂いに眉を顰める。噎せかえりそうだ。くらくらするのは酔いのせいか、それともまた違うものか、判断付かなかった。
舌を絡め、吸い、吸われ、気がついたら息が上がっていた。気がついたら、忠三郎は与一郎から離れていた。顔を覗き込まれるのが恥ずかしい。忠三郎はばつの悪そうな顔をして与一郎を見ている。やめてほしい。そんな目をしないでほしい。
「…これで、いいのか」
「…ええ」
ここから先も、なんて、とてもじゃないが言えなかった。そうまでして手に入れて、何となるというのだ。すでに与一郎の指先は震えていた。これから先なんて、そんな優しくも冷たい空気に耐え切れるほど与一郎は強くもないし、弱くもなかった。
「…悪かった」
「何も、謝ることなど」
「いや、お前に悪いことをした」
「……悪いと思ってるなら、酔いが覚めた後も謝ってください」
「…すまなかった」
「今じゃ厭です」
何故か、涙が溢れでた。酔って涙腺が緩くなっているのか、感覚そのものが与一郎の思惑通りに動かなくなったのか、はらはらと涙が零れては与一郎の寒々しい頰を濡らした。胸の奥が締め付けられるような、何かがせり上がってくるようなそんな感覚が襲ったが、酔いのせいだと決めつける。ここで思いの丈を吐き出したところで、悲しいことに忠三郎の心は与一郎のものにならないのだから。そう思うと今度は急に虚しくなってきた。そうだ、この想いは秘密にするべきだ。もうこれ以上は見せない。もうこれ以上は、知らせはしない。
「泣かないでくれ…与一郎」
「名前を、呼ばないでください」
それなのに、涙を堪えることもできなかった。なんて弱い心、なんて脆い意志だろうと内心舌打ちを打つが、ままならない。
ただ、これ以上優しい声で名を呼ばれたら、そんな意志なんてあっという間に崩れ去る気がして。
「もう遅いですしお休みになったらどうですか、床の用意はさせてあります」
「待ってくれ、与一郎。とっくに酔いは醒めてる」
そういう忠三郎の声音は、なるほど確かに先ほどよりかはしっかりしてきている。だが認めたくはない。これは酔いによるいっときの気の迷いだ。どうかどうか、そういうことにしてほしい。冷たく突き放すのもそのせいだ。
「どうですかね」
「与一郎」
「呼ばないでください、そう言ったはずですが」
言い切る前に忠三郎に両肩を掴まれぐっと押される。嫌でも目が合った。咄嗟に逸らすが見てしまった。忠三郎の目を、海のような深い目を。もう戻りたくない。一生見つめられていたい。柄ではない思いが溢れ出そうだ。どうにかしてそれを抑えようとしてみるが、また再び涙となって与一郎の瞼を濡らす。
「与一郎」
「やめてください」
「その涙を止めるには、俺はどうしたらいい」
言っている忠三郎がすでに泣きそうだ。なぜこの期に及んでお前が泣くんだと言いたかったが、下手に声を出すと何よりも聞かれたくない嗚咽が漏れそうで、声を押し殺してやっとのことで問いかける。
「…飛騨殿は私を責めるためにこんなことをしているのですか?」
「そんなつもりはない…ただ」
「詫びたところで、もう遅いです」
「遅くない」
忠三郎が首を横に振る。それが憎らしくて仕方がなかった。何も知らなかったくせに。何も知ろうとしなかったくせに。仕方がないのは百も承知だ。知ろうとしなかったのではない。それをただ与一郎が望まなかった、それだけのことなのに。八つ当たりのような、腹いせのような…子どものように感情が前に前に出てしまう。
「あなたが、右近殿を愛していることを知ってしまってから…もう何もかも手遅れです」
「与一郎…」
「なぜわたしが、諦めろと何度も言ったか、お分かりになります?」
「………」
「この気持ちが、あなたにわかるんですか」
その目を睨みつけた。濡れた目を隠しもせず。忠三郎はそれでも、与一郎から目を逸らしはしなかった。せめて逸らしてくれれば、追及の手を弱めることもできるのに。これではできないではないか。
自嘲するように笑う。
「わからないでしょうね」
わからなくていい。内心そう思った。この悋気はわかる必要のないものだ。こと忠三郎のような男には無縁の…醜いものだ。知らなくていい。知らないでいてほしい。こんなに想っているなんて、こんなに苦しいなんて。
「与一郎、俺は…」
「もうお休みになってはどうです」
「俺はまだ、お前と話がしたい」
「私はあなたみたいな人の相手にはもう疲れましたが」
わざと首をかしげる。頼むからもう寝て欲しかった。忠三郎を見続けるのがこんなに辛くなるなんて思いもしなかった。口づけまでしたのに。こんなにも悲しい気持ちになるとは思いもしていないことだった。
忠三郎はそんな与一郎の心をまるで知らないと言いたげに、尚も与一郎に食い下がろうとする。
「与一郎」
だから、名前を…呼ばないでほしい。もうこれ以上泣きたくない。涙を見せたくない。普段の自分に戻りたいだけなのに、どうしてこんなにも難しいのだろう。
「…何が言いたいんですか」
涙を指で拭い、嗤った。
「与一郎、すまなかった。こうするつもりはなかったんだ……もう一度、話そう。話せばわかることもある」
「…わかりました。では一つだけ、約束してください」
「なんだ」
「今宵のことは何もなかった。貴殿は右近殿に相変わらず惚れておられるし、私はあなたたちに対してなんも思っちゃいない、ただの友です。そう思っていただきたい」
「それは…」
「お約束できないようでしたらもう休むとしましょう。先ほども言いましたが疲れました」
忠三郎が唇を噛むのがわかった。もう、これで引き下がってほしい。これが与一郎の引ける限界だ。これ以上譲歩はできない。
これ以上の譲ったら、与一郎が先の見えない暗がりの中に落ちてしまう。その時は忠三郎も一緒だ。それだけは嫌だ。
忠三郎はしばらく考えていたようだったが、しばらくすると息を吐き与一郎を見た。
「………わかった、これだけ聞かせてほしい」
「…なんですか」
「今も俺のことが好きか」
「……!」
思わず睨みつけてしまった。あ、と思ったが遅かった。こんな反応をしたら…してしまったら、そうだ、と言っているようなものではないか。
忠三郎は苦々しげに目を細めると、
「そうか、わかった…俺も疲れた。今日は休ませてもらう」
そう言って、あからさまにわざとらしい伸びをした。

—-

用意された床に横になる気になれず、忠三郎はただ座っていた。先ほど口にしたが、酔いはすっかり醒めている。いや、もう、醒めざるを得ないだろう。
最初は面白半分だった。惚れた相手は自分かと言ったのも戯れだ。それが与一郎が抱える真実を暴いてしまったとは思わなかった。いつものじゃれあいの延長だと思っていただけなのだ。
厚い手で顔を覆い、その手の暖かさに自分のことながら動揺する。
泣いていた。与一郎が泣いているところなんて、子どもの頃から数えてもそうはなかった。すぐに情に任せてしまう忠三郎と違って、与一郎は常に冷静だ。いつもの冷ややかなそれと、今しがた見たそれの差異に、胸が突かれた気持ちになる。
今も与一郎は自分のことを好いていてくれている。それは事実だ。与一郎の目を見てわかった。演技なはずがない。だが、それに応えられるほど、忠三郎は軽率になれなかった。
…ならば、なぜ戯れのように口づけをしたのか。酔った勢いとはいえ、今も想いを寄せている人から受ける口づけの重さがわからない忠三郎ではない。何も知らなかったなんて、それは言い訳にもならない。それでも、知らなかったんだとしか言いようがなかった。口づけをしなければ、許されない気がしたのだ。許されざることなことはわかっている。
ため息をつく。これまでしてきたことはなんだったのだろう。唇を指でなぞる。この唇で、この声で、今までどれだけ与一郎の心を傷つけたのだろう。
改めて考えるとぞっとする。知らなかったでは済まない。どんなに詫びを入れたところで、許されるはずがないのだ。先ほどはあえてわざとらしくそう言ってしまったが、本当になんということしてしまったのだろう。
いや、もう取り返しのつかないことを悔やんでいても仕方がない。今、そしてこれから与一郎に対して自分ができることはなんだろう。考えても考えても答えが見えてこない。二人の事のはずなのにひどく孤独を感じる。たった一人、出口のない回廊をぐるぐるとめぐっている気分だ。いつもの忠三郎なら、もっと違う方法でこの気分から脱することができたはずなのに。どうしても今だけは、そんな気になれない。
明日からどうして与一郎と向き合っていこう。忠三郎は途方に暮れるばかりであった。

一方与一郎も眠れずにいた。側仕えの女や小姓どもを追い払って、床についたはいいが眠気どころか段々苛立ちのほうが先行してきてしまった。
忠三郎への苛立ちではない。迂闊に言葉を漏らした自分への、そして軽々しく泣いて見せてしまった狡猾な自分への苛立ちと嫌悪感だった。
つくづく嫌な人間だ。泣いたところで、どうにもならないではないか。忠三郎は自分をどう見た?きっと哀れんだはずだ。忠三郎から右近を消すことはできない。わかっていたはずなのに、どうしても諦めきれない自分を詰った。そんなに女々しくてどうすると、そうまでして手に入れてどうすると。…いや、もう手に入れたではないか。口づけまでして、それで何もなかったなんて、言えるはずがない。これ以上何を望む。
大げさな話ではなく、明日からどうして生きていこうというのだ。正体のわからない不安と寒気が襲う。歯を噛み、唇を歪めてもままならない。
それもこれも酔った勢いで迂闊に言葉を漏らした自分のせいではあるのだから、自業自得だ。そう。自業自得。自分で蒔いた種なのだから、自分でどうにかしなければならない。忠三郎は巻き込まれただけなのだ。不幸な事故だったのだ。何も悪くない。
恨みたいほど、忠三郎は優しい。そうでなかったら今頃もっと違う答えを導き出していたかもしれないのに。もしかしたらその方が、互いに幸せだったかもしれないのに。どうしても優しさに絆されてしまう。こんなの望んでいなかった。望まれぬ道だ。望まれぬ影だ。
思い出すのは初めて忠三郎が与一郎に右近への思いを吐露したあの夜だった。大事な話があると告げられ、興味がないという顔をしながら内心では匙一杯分くらいの期待を胸にしてしまったあの夜。無残にもその期待は、忠三郎が右近を好いているという最悪の事実によって裏切られてしまったわけだが。
あの時からもう終わりは見えていたではないか。目の前まで突きつけられてやっと気がつくのは凡愚のすることだ。与一郎はそこまで馬鹿じゃない。愚かな自分を愚かと思える程度には、馬鹿じゃない。
だから、もうこれで終わりにしよう。形のない暖かなものに縋るのは、もうやめよう。誓うように、小さく唇を動かした。

翌朝、特に何があるわけでなく、忠三郎は与一郎と別れた。忠三郎は何かを言いたげな顔をしていたのだが、与一郎はその眼差しを無視した。何も言わず、何も語らず、別れた。そしてまた何事もなかったように日常は過ぎるのだ。きっと、これからも、変わらず。
それでいい、それが与一郎の求めた結末だ。最後まで互いに何も言わずに生きていくのだ。
終わらない平行線の日々。秘めた思いはけして交錯しない。そう、それが、望んだ道。