木ごとの花

「彼もまた、私のために死んだ多くの子どもたちのひとりなのでしょう」
ギルバートは静かにそう話し始めた。安いコーヒーの香りが漂う部屋の中、窓の外はとっぷりと暮れ、仄かに残った黄昏の中に確実に存在する闇がこちらをじっと見つめている。
ギルバートがここに収容されて1年が過ぎた。今も時折、心身ともにぐらつきはあるがおおむね安定している。最近はジャーナルを読み、どこに出だすわけでもないが論文の執筆にも取り掛かっているようだ。
何かをしていた方が張り合いがあると穏やかに話すギルバートが、昔のように踏み外さないように確認するのが、キリサキの新たな仕事になりつつある。
「正直な話ですが、今の時点では接見許可を出すことはできません。もう少し情報が欲しいというのが、私の医師としての考えです」
「……そうだと思います。私も、今の状態で会えるとは思っていません。ただ……やはり、知るべきことだとは思うんです。もう、私が彼らにできることはそれしかないでしょうから」
ギルバートの眼差しは空にあった。彼がかつて心から愛したという人間たちを、キリサキはここ1年で何度か話として聴くことがあった。キリサキは彼らと会うことはないが……彼らのためにも、ギルバートの人としての道を護っていきたいと思っている。しかし、そのためには彼の人間の証明が必要だ。
人間は、知るか知らないかを自分で選ぶことができる。
ギルバートの穏やかな日常に投げ込まれたその命題はさざなみを作り、今も水面は揺れている。ギルバートはそれをどう思っているのだろうか。
今日、ギルバートのもとに三名の来客があった。いずれもコンパスおよびオーブに関わる要人だ。キリサキもじかに会うのは初めてであった。彼らは律儀にもキリサキに対して、ギルバートに尋ねたいことやおおむねこう言った話をするということを予め通告してきた。
先般、発生している軍事的衝突。それはかつてギルバートが掲げた信念を理想とした人々が引き起こしたものだったということは、キリサキも知っている。
第一報を聞いた際に、いよいよギルバートを外に出すことができなくなると思ったものだ。あの間は何が起こるかがわからないので、シブヤとの定例外出も控えさせていた。
政局は徐々に安定しつつあるが、今もなおギルバートはそれらの事情を知らないはずだ。何がトリガーになるかがわからない中で、与える情報はキリサキがコントロールしていたと言っていい。
ここに収容された当初のギルバートは、罪人である前に患者であった。しかし傷が癒えつつある今、やはり前面に出てくるのは罪人としての適格なのだ。彼が何を望むのかは、注視しなければならない。
通告内容は、その軍事衝突の中心にいた人物たちについてのことであった。キリサキも名前だけは知っている。
オルフェ・ラム・タオ……まだ若く優秀な青年は、ギルバートの思想に強く傾倒していたのだ。若いが故の先鋭化は、これまでの歴史にも多く見られただろう。優秀であっても若いが故に認められない、若くても優秀であるが故に人との繋がりが制限される。そんなこと、いくらでも見てきた。
そうした鬱屈した青年に対して、『ギルバート・デュランダル』という劇薬が明朗に、そしてけして選んではいけない道を示してしまったことは、キリサキもよく理解している。
しかし、通告内容はキリサキの知識のはるか上に位置していた。あの青年とギルバートには直接的な関係の存在を示唆する疑惑があるそうなのだ。彼について詳しい話を聞きたいと先方は通知してきた。
尋問に近いことになるかもしれない。キリサキは眉根を寄せる。彼らを信用していないわけではない。身元が明快な中で、流石に手荒なことをするとは思えないが……しかしそれとこれはある意味では別の話だ。争いを自ら引き起こし、多くの人間を死なせたとしても、キリサキの患者であることに変わりはない。
ギルバートの居室にキリサキも同席し、居室の手前にある詰所にはサハラを置くと返事をした。それでなければ接見はできないと暗に示したものだ。無論、要求があればこちらには最低限応える義務は発生する。一方で、最後までこちらは譲らなかったという結果は残るのだ。それは大いに意味がある。抵抗の傷跡というのは、公式記録には残らずとも必ず後の人に残るものだということを、キリサキは戦争で学んだ。
しかしそれらはまったくもって杞憂であった。キリサキからの要望はすべて受け入れられた。
また、サハラのパートナーであるウシオは事前にこの建物から離脱させるということも認められた。何もないだろうが、そうでなくとも来客のうちの二名は男性と聞いた時点でそれは決まっていることだった。最近は少しずつ男性に対する恐怖心の消えてきたウシオだが……ここまで積み上げたものをわざわざ崩したくない。それがサハラの願いで、キリサキはそれに応えただけだ。
そこまで決めたところで、キリサキはギルバートに最終的な確認をしたのだ。ここで彼が拒んだところで、もはや接見は中止にはならないだろう。しかし、事前通知は必要だ。それはオーブ、そしてコンパスのためでもある。彼らは知らないだろうが、キリサキはギルバートがここに初めて来たときの憔悴しきった顔を知っている。パニックに陥った彼が何をしたかも。あの状態にまた戻ってしまえば、彼らが得たい情報は何も手に入らないだろう。
「そうですか」
ギルバートはそう言うだけで、あっさりとした態度だった。まるで、いつも通り明日の予定を聞いたかのような態度だった。
「デュランダルさん、これらの提案は拒否する権利もあります。本当に良いのですか」
キリサキの問いにギルバートは一度仰ぐように窓の外を伺う。窓の向こうには海が、夜に対抗するように白波を撒いている。それを眺めながらギルバートは穏やかな声音でこう話した。
「私は彼らを知っていますから。大丈夫。乱暴なことはしないでしょう……それに」
私も知りたいことが多いのだと思います。ギルバートはそう言って、ちらりとデスクに積み上がった分厚いファイルに目を遣る。最近は資料室に収蔵されている資料たちを体系的にまとめているらしい。昔ほど理解できるわけではないのですが、と本人は笑うが、そこには確実に知への渇望が存在している。それは人間が持つ最大の美徳だと、キリサキはどこか信仰じみた確信を得ているのだ。
彼が知りたい情報はきっと多いだろう。それらを得ることはある程度は保障されて然るべきということは、十分理解している。なにせほとんど何も伝えていないのだ。ギルバート側も聞いてはこない。自らが死んだとされる世界のすべてを。
しかしながら、だからこそキリサキには気がかりなのだ。ギルバートが激しく動揺することや、病状が急激に悪化するトリガーになり得るのではないかと。もちろんそれだけではなく……彼の罪人としての資質についても、懸念はある。それらも含めて、結果として彼の状態が悪くなることを愚直なまでに危惧している。
ギルバートはそんなキリサキを見て、ほのかに笑って見せた。最初にここに来たときに彼がよくしていた、困ったことを表明するための笑みではなく、キリサキの心配を杞憂だと示すためのものを。
「何も知らないでここにいるのも、きっと私の幸せの一つだと思います。でも……いつか乗り越えねばならないこともあります。ここで一度それを整理したい気持ちがあるんです。ドクター」
「……わかりました。しかし私も同席します」
「助かります。昔と違って、いまは物覚えが随分と悪くなってしまった。きっと辛い話もしてしまうかと思いますが、彼らの話したことをどうか覚えていてください」

ギルバートは翌朝、いつもと同じ時間に目覚めた。検温をはじめとしたバイタルチェックを受け、サハラナースと穏やかに話した。
いつもの通り顔を洗い、着替えてから軽く食事をとった。元々朝食をとる生活をしていなかったが、少しずつ慣れてきた。薬はだいぶ減った。その後、少しだけ外を歩く。明日はシブヤと外出すると約束しているから、予習も兼ねていた。
朝の空気が心地よい。海鳥が青空を泳ぐように駆けて行く。彼らはビーチでピクニックをしている人間たちの食事をつまみ食いする常習犯だ。ギルバートも前にサンドイッチを掻っ攫われたことがある。
サハラ曰く、この前巣立ちをしたと見られる若い個体がいたそうだ。あの時のサンドイッチも何かの役に立ったのだろうか。
砂地の手前の防砂林を歩きながら、サハラの昔の話を聞いた。彼女はナチュラルの中でも体が弱い子どもだったそうだ。今の様子を見るととてもそうには見えないが。
医療体制も、ナチュラルとコーディネイターでは対応が変わる場合がある。コーディネイターが優先されるのは世の常だ。彼女の話を否定も肯定もせず、ただ事実として聞いていた。
雨季が明けた昼前。じわじわと暑くなってきた頃、ようやく資料庫に戻った。
しばらくしていると……カガリ・アスハ、アスラン・ザラ……少し遅れて、キラ・ヤマトが到着した。聞いていた通りだった。
午前の暖かな日差しは、薄い雲に時折遮られている。
「お久しぶりです」
キラはそう言って、目を伏せる。すっかり毒気の抜けた自分にきっと思うところはあるのだろう。これでもここに収容されたばかりの頃に比べれば栄養状態もいいのだが、彼らはそれを知らない。ギルバートもまた、彼らがどうしていたかを知らない。
「単刀直入にお伺いしたいことがあります。議長」
「……そう呼ばれてしまうと、少し気後れしてしまうね」
そう言い置いて、ギルバートは眼差しをカガリに向けた。彼女に対してかつてとっていた態度が、まさか全て自分に返ってくるとは思っていなかった。
カガリはそうでしょうねと返し、ここではなんと呼ばれているのかと尋ねてきた。対外的にはハルバート・ローランの名前で通ってはいるが、キリサキたちのように接触のある人間には元の名前のまま呼ばれていると答えた。
「では、デュランダルさん……オルフェ・ラム・タオを含めたアコードと呼ばれる人間たちに覚えはありますか」
一瞬……ギルバートは、何かを思い浮かべた気がしたが、かつての自分という知識から出てくるものは浅いものだった。
「研究の一端で関わった子達だね。確か……20年くらい前かと。ただあの研究は、実用できなかったんだ。今思えば彼らには申し訳がないけれど……」
「実用できなかった?」
アスランが視線を合わさないまま反応する。彼にも申し訳ないことをした。目を見ることができないのは当然だろう。しかしこちらも緊張しているから……言い方は悪いが、ちょうどよかった。よく考えたら、ここに自分以外の男性が足を踏み込むのは、初めてなのだとその時気がついた。昨日からウシオを見かけないのはそのためだろうか。
「そうなるね。再現性にも乏しかった」
アコード……いわゆる強化型のコーディネイターは、実用化には及ばなかった。莫大なコストに対し、成長度合いは一般的な人間と同じ時間がかかる。促進させると胎児の時点で遺伝子情報に欠落が生じ、生命そのものを維持することができない。
長期的に考えれば、彼らのような人間はどこかで役には立つだろうが、とにかく時間も資金も必要なのだ。
ナチュラルをゼロとして、コーディネイターを1と仮定すると、アコードは確かに10ではある。しかし人というのはゼロが1になった時にその奇跡性を褒めそやし金を出すのだ。要素が増えたところで、持続的に資金調達するのは不可能だった。だから……。
「デュランダルさんは研究から手を引いた、ということですか?そのあとで連絡を取ることなどはしていましたか?」
「そうなるね。連絡は取っていないよ。あの頃の私は自分に使命があると思っていた。いや、盲信していたと言っていい。彼らは……私のことをきっと恨んでいるだろうね」
それらはすべて本心だった。
彼らはギルバートの言葉に各々顔を見合わせている。なにか、あったのだろうか。
申し訳ない話だが、ギルバート・デュランダルにとってアコードたちの存在は過去のものだった。そしてギルバート・デュランダルという存在自体、今のギルバートには過去のものなのだ。話せることは少ない。二度ばかり彼らから手紙が来たが、それも目を通していない。最後に会ったまだ幼かった彼らも、大人にはなっていると思うが……そういう話もつけ添えた。
カガリが言い淀む顔をしていると、キラが彼女の言葉を継ぐように、視線をこちらに向けた。
「彼らは先日亡くなったんです」
「……亡くなった?それは、まさか戦争が起きたということだろうか」
「ええ、議……いえ、デュランダルさんが示したディステニープランに基づき、彼らは各国に宣戦布告をしました」
そこから聞いた話は、おおよそが初めて聞くものだった。ファウンデーションについては、話だけならば聞いていたはずだ。しかし彼らが実権をそこまで掌握しているものだとは知らなかった。
そういえば……いつだったか、外出が急遽取りやめになった時期があった。その時はシブヤの所用だと聞かされていて、サハラやウシオなどの様子に変わったこともなかったから、疑うこともなく、むしろこれ幸いとばかりに資料室に篭っていたのだが……自らの見劣りする鈍い脳にため息をついている間に、世界に走った激震は甚大なものだったようだ。
ギルバートの反応に、三人は三人なりの苦々しさを滲ませる。ギルバートとオルフェをはじめとしたアコードたちの間でなんらかの密約がある可能性があるとするのが、世間のおおよその見解らしい。
しかしギルバート・デュランダルは……彼らのことを、捨てたのだし、忘れていたのだ。
「……言葉もない、というのが……正直なところかな」
言葉がうまく出てこない。彼らはギルバートの考えを待ってくれていたので、当時のことを少しずつ話すことができた。
この場にはいないラクス・クラインの話もした。
彼女を擁立しアコードたちが支える計画も、実はあるにはあったのだ。しかし先述した通り時間がかかりすぎる。当時はまだひとりの研究者でしかなかったからそのあたりは度外視だった。だがある程度の地位を得るうちに、実用性の低さが目に見えてきた。
ラクス・クラインはともかくとして、他のアコードたちのデータはけして安定しなかったのだ。幼い頃から成長にばらつきが見え始め、身体能力も高いがけして一定の数値を正しくコピーはできなかった。一際顕著だったのは情緒面だった。テレパシーを彼らが用いることはある意味では副産物だったのだが、それらによって彼らは彼らの中で閉じたコミュニティを生成してしまった。まだ幼い子どもだからと周りは口にしたが、当時のギルバートが待てるほど彼らの成長は早くなかったのだ。
のちに政界進出したときに改めて確信したこともあった。それは目まぐるしく変わる政局に対して、まだ未熟なアコードたちはけして切り札的な対抗手段にはなりえないという事実だった。だから連絡をすることもなかったし、対外的にも最低限、いや、それ未満の対応だった。
要素はまだ存在する。共同研究者であるアウラが自分をどう思っていたかも、正直な話腹の裡まで理解していたとは言えない。それに彼女は……これは当時のギルバートが素直に思っていたことだが、自分と言葉が通じていたとは到底思えなかったのだ。だから不要と切り捨て、そのままにしていた。
そういったことを、話したと思う。部屋の手前、扉の前にいるキリサキが何か言いたそうだ。おそらく、彼女には彼女なりの判断基準があるのだろうが……非常に助かっている。ギルバートは最近になって、やっと人の心というものは体力と同じで有限資源だと気がつけたのだ。
「デュランダルさん、あなたはどう見ますか。この事件を」
「カガリ」
「いや……これは、聞いておかなければならないことだと思うんだ……」
アスランとカガリのやりとりをちらりと見て、ギルバートは少し考えた。自分の言葉では辿り着けない。知識に頼るしかないが、その知識だって使い方は間違っていた。だから撃たれたのだ。ギルバート・デュランダルが考える壮大な計画は、レイの銃撃をもってあの時点で実行不能になった。少なくとも後継者だの、自分の代替だのと言ったものは考えていなかった。しかし……。
「アコードほどの情報を持つ子達は私が知る限りは存在しない。しかし、似たようなことをする人間は今後現れると思う。ギルバート・デュランダルという人間は死んでそれっきりだけれど、生き残った人間はそうではない……変な話だけれど、私自身がそうだとも言える。皆、安直な救いにベットしたいと思うんだろうね」
カガリはそれを聞いて、しばらく黙っていたが……意を決するように拳を握りしめ、強い眼差しをこちらに向ける。ああ、彼女は強い。初めて会った当時からギルバートが叶う相手では到底なかったのではないだろうか。
そう思っていたからか、ギルバートは次の瞬間カガリが告げた真実を理解するのに、思った以上に時間がかかった。
「そうですか……デュランダルさん、実は……オルフェ・ラム・タオと思われる人間が、先月当局に収容されました」