ある立ち飲み屋での政治放談

「あれはどうかと思うんだよ」
ギルバートの耳にそんな言葉が入ってきたのは、夜の盛場……スタンドバーといえば聞こえは良いが、安酒を提供し労働者たちのガス抜きとして用意された、場としての価値の方が高いようなバーだった。本来は違法だろうが、おそらく酒や食品の販売を行っているのだろう。販売店ということにして、勝手に客が飲んでいるだけというていで運営されているのだ。旧世紀から存在するクラシックな手法だ。
そこにいる多くの人間は当然のように赤ら顔で、無責任な話を取り止めもなく次々としている。なんら情報量のない無為な場だ。本でも読んでいた方がよほど有意義だと思う。
そんな場所にギルバートがいること自体が本来おかしな話で、待ち人さえさっさと来てくれればすぐに立ち去ることができるのだが、生憎待ちぼうけを喰らっているのもあり、『世情を視察するだけだから』と、SPひとりをそれとなく後ろに置くだけでただ酒を飲んでいた。名もなきブランデーの、樽では無さそうな安っぽい木の匂いが口腔内にずっと居座っている。⁠政治家としてのギルバートも同様で、まだ今は名前があってないようなものだ。皆がまだラベルだけを見ている頃合いなのだと考えていた。
「大体、ああいう手合いとつるむ者どもなど、いわばシャンパン社会主義者の群れといってもいいぞ、おぞましい!」
ギルバートの左耳に先ほどから聞こえるのは、誰かの悪口だろう。興味がないわけではない、というか、人間が誰かを嫌う時の理由や語彙が知りたいだけだ。それ以上の感情の動きはない。同情もしないし、扇動する気も今はない。
ただ隣の彼は、次の瞬間こんなことを言い出したのだ。恰幅がよく、髭を蓄えた壮年の男は、氷のすっかり溶けたグラスを煽り隣にいる連れに大きな声でこう言う。酒量が増えるほど彼の声は勇ましく大きくなっていき、それは虚ろそのものではあったのだが、その掠れた矢は思わぬ方向に飛んでいった。
「平和主義も結構なことだけどね、そこに果たして実はあるのか。俺にはあのデュランダルとかいう若いのが善政を敷くような立ち位置になるとは到底思えねえな!」
後ろのSPを牽制し、しばらく様子を見ていた。まさか自分の悪口とは思わず、ふと笑いそうになったが多少の吐息となる程度だった。
善政か。まだそこまでの位置取りを確定させたとも思ってはいない。政治の世界に飛び込んで、周りは浮き足たっているがこちらからしたらむしろ粛々と足場固めをしているだけだ。今日のように会食終わりに連れ合いとの待ち合わせでこうした酒場に入る程度には、まだ自由のある身でもある。忙しくなるのはこれからだ。自らの使命のためにやらねばならないことはいくらでもある。
だが彼は乱暴にグラスを置いて、何を思ったかこちらに水をむけてきた。
「そう思うだろう、あんたも」
「……さあ、不勉強の限りで」
「さては兄ちゃんノンポリかい。はぁ、ご機嫌な身分なこって」
男はそう言ってまたぐいっと酒を飲む。俺の若い頃はノンポリであることにこそ理由が必要だったんだぞ、などとぶつぶつ言っていた。よく喋るものだとギルバートはその様子をよく見ていた。こちらの正体には気づいていないようだな、とつい揶揄いたい思いになってしまう。
「私はその方を少ししか知りませんが、よくご存知なのですか?」
にこりと笑った。どうせこの暗がりで見えてもいないだろうが……笑顔とは声に乗るものだ。口角がわずかでも上がっていれば、聞いた人間は勝手にこちらの表情を予想する。内心など知る由もない。それにギルバートはこの男がいったい自分の何を知っているのか知りたくなったのだ。男は相変わらず大きな声で、よもやその相手が隣で聞いてるとも知らずこう捲し立てた。
「あいつの良さは見てくれと若さだよ。いかに高尚な研究をしていようとも、そしてそれらが自分たちにいくら反映するんだと説明したところで、民草にはそこまでわからんのさ。イデオロギーよりも見た目、政策よりも人柄で人は人間を見るんだ。その中身に詰まっているものがおぞましい奇禍だとしても、それを見ることはけしてないね」
同感だ。人というものは見たいものしか見ない。聞きたいことしか聞かない。ギルバートは常に衆生に見せたいものを見せているに過ぎないのだ。なるほどと口に浮かべ、男に同意した。
「なるほど、私は彼の言い分を表面しか見ていなかったのかもしれません。耳当たりのいい言葉を聞いてしまっていた。勉強になります」
そうした様子に気を良くしたのか、男は嬉しそうに笑う。実に素直な人間だ。
「だいたい対話による政策は有史以来何度も何度も実践されては失敗し続けているじゃないか。今般の情勢をもってなおも対話というのは殊勝な心掛けだがね、対話というのは互いの立場がイーブンにならない限り発生しないものじゃないかね」
おや、と眉をあげる。議論を持ちかけてきた。そしてある意味では正しいことだ。対話というものは一定の効果しか有し得ない。そして厄介なことに双方の同意がなければ対話は成立しないのだ。
ギルバートがしていることは実際は対話ではないということまで見抜いているわけではなさそうだが、面白くなりそうだ。それではしてみようではないか。対話というものを。
「なるほど、そう言われるとそうかもしれません。しかし地位というものはある意味では多面的に見る必要があると思います。当然、軍事的な衝突ではイニシアチブの取り合いにはなりますが……かつてであればどれほどの兵器を持つか、現代であればどれほどの情報を持つかが……ああ、すみません。なんだかあなたと話していると、私もつられて色々と考えられるようになりそうで」
そんな調子で、いくつかやり取りをした。
外交政策がメインであったが、時には内政について……彼はどうも事情通というか、元役人か何かなのだろう。兎角プラントの政治体制は脆弱だという話をしてくる。いずれもギルバートにとってはどうでもいい話だ。ギルバートからしたら、内政とは自らの使命を果たすための器にすぎない。今の外交政策はいずれきたる『その時』までの時間稼ぎにすぎないのだ。
しかしそんな言葉は出さず、基本的に彼の言葉に同調した。そして時折こう言ってやる。
「ええ、ええ、そうでしょう。『科学的に見て』も、その通りだと思います」
そうやっていると男は益々気を快くしてワハハと笑った。
「おお、兄ちゃん、なんとなくあいつに似てるなぁ!あんたが代わりに政治の世界へ飛び込んでおくれよ」
暗がりの中、照明など手元を照らす鈍い光のみだ。顔などシルエットしか見えない。シルエット……かつて地球に存在した古代の王が黒く塗りつぶした肖像画のように、ギルバートの素顔など誰も知らない。
だから薄く笑いながら、首をかしげる。
「はは、他人の空似でしょう。年齢は近いかもしれないけれど…それだけです。そんな立場だったらきっとこんな場所で飲むこともないでしょうから。それに、話したのは今気がついたことばかりです。それも、あなたに言われて」
「おお、そうか……それもそうだな。いや、なんかそう言われると照れちまうな」
この手の中年男性は若い男から慕われるのが堪らなく好きなのだ。よく知っている。ギルバートをここまで押し上げた男たちも多かれ少なかれ皆そうだった。皆ギルバートの容姿と態度に、どこか溜飲を下げるような快楽を覚えるのだ。今はまだそれでいい。
くす、と笑うと、暗闇の向こうで向こうも笑ったようだ。男は自らの非礼を詫びこう続けた。
「いやいや、こっちこそノンポリとか言って悪かった。誰だって自分の置かれた場所を最初に考えるわな。これは俺の思うところなんだけれどね、逆にあのデュランダルも、どっかでその矛盾点を持ってるんじゃねえのかなって思うんだ」
「そうかもしれませんね。誰もがこうして酒を飲み語らう。彼もまたそうなのでしょう」
そこで、待ち人が来たことをギルバートは知った。にこりと笑い、名残惜しむようにこう言った。
「すみません、連れ合いが来てしまいました……またどこかで、あなたとはきっと必ずお会いできる気がします」
「おう、またな」

「何を話していたんだ?」
暗がりを抜け、ギルバートの横にぴたりとつきながらサングラスの男がそう尋ねてくる。
その下にある眼差しが疑いを滲ませているのは見え見えだ。素直で可愛らしいところだと思う。
この年下の連れ合い……ラウ・ル・クルーゼからしたら、任務明けで久しぶりに再開するギルバートとの待ち合わせがこんな喧騒の坩堝であることは失望でもあったようだ。当然だろう。ラウにしろギルバートにしろ、あまり素性を含めた関係性を表に出せる人間ではない。ここにいる人間は皆顔がないようなものだが、だからこそ誰がいるかわかったものではない。
まあ、ギルバートはそれを逆に使って遊んでいただけなのだが……。
「さあ、少し対談の練習をしていただけだよ。今度取材があるそうだ」
「君のことだ。諜報の真似事でもしていたんだろうが、やめておけ。才がない。子どものままごとにも劣る」
言葉尻がきついのは、任務明けもあるのだろう。この美しい孤高の獣のような男とは体も含め惜しむ関係だが、任務明けはまさに獣じみた荒さをちらつかせる。これはこれからの長い夜が楽しみだ。こうなった彼を抱くのも、抱かれるのも、ギルバートは好きだと言えるだろう。
「ずいぶんとご機嫌斜めだね。私が他の男と話していたことがそんなに不服かな」
「冗談!全く、益もないことをするなんて君らしくないと言うだけだ」
「まあ、無益ではあったけれど、楽しかったよ?」
待たせていた車に乗り込む。愛想はそこそこだが信用のおける運転手が車を出したことを確認して、そっとギルバートはラウの腰に体を押し付けた。
夜に溶け、二人は家路に消えていく。

後日……ギルバートの知るところではなかったが、酒場で会ったあの男は熱心な親デュランダル派となったそうだ。