芳は母を知らない。世捨人の父は寡黙な男だ。いや、言い方が適切ではないかもしれない。父は……暗い。寡黙というものはただ言葉が少ないだけで、必ずしも暗い人間というわけではないのだが、父の場合はそこに人としての暗さを感じる。
父はかつて多くの国衆を率いる男だったそうだ。芳にはとても想像がつかない。とても父に誰かが付いてくるようには思えないのだが、結局国を追われ、こうして隠遁生活をしているのだから、そういうことだったのだろうかとも思う。父のことは好きだし、尊敬もしているが、もしも血の繋がりがなく初めて父を見るとして、この人に従うかと言われると微妙なところである。まだ姉の天の方に従った方がよいとすら思う。それとこれは別の話だ。
当時の話を父はしたがらない。芳が知る父の過去は、姉である天と、乳母から聞かされた程度だ。話したくない過去というものを理解するには芳はまだ年浅かったが、聞いてはならないことだということはわかっていた。だから、父の口から昔の話を聞いたことはない。むろん、そこには芳の母の話も含まれている。
いや……よく考えれば、芳の母については誰からも何も聞いたことはない。天も乳母も母とは面識がないらしい。芳を生んですぐに死んでしまったらしいと口を揃えて言う。だから芳は知らない。母の名も、どのような女だったかも。
「お前など嫁の貰い手もつかない。お前を手にしたら、その家は不幸だ」
短く言い置いて、父は芳を尼ということにして手元に置いている。芳が十四の頃からいくつか縁談の話が舞い込んできたそうだが、その度に父は芳に繰り返しそう話したし、どうやら全て断ってきたらしい。
芳はそれが嬉しかった。先述の天などは、むしろ芳に縁談を勧めてくるほうだった。妻となり母となることは、けして楽しいことばかりではないが悪いことではないと繰り返し言っていた。しかし、芳はその立場に興味がなかった。宗景もまた、そういう芳に何も言わなかった。だから気楽なものであった。
別に人として生きることを諦めていたわけではないと思う。子を産むことは喜びなのだろうという気持ちがわからないわけではない。しかしそれは誰かの喜びであり、芳のそれとは一致しない。
それに、ひとたびいずこに嫁に行ってしまえば芳が父を知ることはもうなくなってしまう。彼が何を見て、何を感じたかを。そして肝心の芳の母のこともわからずじまいになってしまう。
であれば、尼として父の周りの世話をして暮らしていた方が、知りたいことを知る機会を得られるだろうと思って従った。むしろ自ら尼になることを望んだところもある。父はそれを驚いた目で見ていたが、何かを諦めたような笑みを一瞬浮べ、芳の希望を通した。
そして人のいる前で、先ほどのような言葉を口にしたのだった。それは芳を守るため、自らが矢面に立つための言葉だったのだと思う。
豊前の城下からすこし外れたところ、どちらかと言うと村の面影のあるそんなところに芳は父と暮らし始めた。そんなところに住むなんて、と乳母として芳を育てた志津が嘆いていた。が、実のところ住むところを決めたのは芳で、あとから父が決めたと言うことにした。それに芳の年あいを考えれば、志津には帰る家があったはずだ。もう楽しみはこれくらいしかなくて、と話す志津は十分この暮らしを楽しめると思う。
一方で、居住地について黒田家からは何ヶ所か提案があったのは事実だ。しかし全て城からほど近い城下の栄えた場所であった。老いた父に何かあったことを考えれば、人をすぐに呼べるそういったところに居を構えるべきだろうが、なにせこちらは隠居した宗景と芳、それと志津と下男の閑五郎だけだ。むしろ父のことを思えばこそ、静かなところで過ごさせてやりたかった。
困ったことの一つに、居宅に井戸がなかったことがあった。閑五郎がいずれ井戸を掘ると言っていたが、しばらくは村の中心にある井戸から水を汲んでくる必要があった。志津は当然のように大きな声で不満を口にしていたし、芳も当初はよくないことだと思っていた。しかし、蓋を開けてみれば、井戸を共有する村人との交流はそこから始まったといっていい。そうした生活が始まったのは春の終わりのころだった。
話好きの芳は、近隣の村人たちとすぐに馴染んだ。当初は父の衰勢を囃す噂がいくつか飛んだようだが、そのうち誰も言わなくなった。
むしろ芳のことを面白がって様々な話を教えてくれたほどだ。この地に残る物語や、行商人が話す噂話は、芳の貴重な娯楽の一つだった。礼の代わりに仕事を手伝うようにもなった。尼となると決めた時も、村人たちは残念がったものの、ずっとここにいることがわかると皆喜んでいた。
うまく溶け込んでいたと思う。それらも父が裏でうまく話をつけているのかとも思っていた。
宗景という父は、いつもどこか遠くを眺めていた。そして芳の方を見るといつも悲しげな顔をしていた。芳からしたら、それが父の普段の顔だと思っていたし、父ははたから見ればどこか悲哀を感じさせるような顔立ちなのだと思っていた。芳と宗景は目鼻立ちが似ていたが、そういうところは似ていない。
「父上、ただいま戻りました!」
「……」
その日、芳は村の女数人と、うち一人の夫と連れ立って山へ山菜を採りに行った。大収穫だったので、山に声が響き渡るほどみんなで笑って、なんなら誰が一番多く採れるか競争したりまでした。籠には蕨やこごみなどが詰まって少し重くなったが、芳は村人たちと別れた後走るようにして帰宅した。
志津と閑五郎は裏手でまだ井戸を掘っているのか、声はするものの見当たらなかった。そして、父は……芳に気が付いていないようだ。縁側の隅で何かを見ている。
俯いたその表情は伺えないが、きっといつものように哀しそうな顔をしているのだろう。目線の先には……扇子があった。普段手にしているものとは違う。古びたそれは、芳が見たことのないものだった。
「父上……」
「……」
宗景は芳に気がつくと、扇子を胸元にしまった。しばらくの沈黙ののち、顔を上げた宗景の表情は、いつもよりも悲しそうで、今に泣き出してもおかしくなさそうな雰囲気すら漂っていた。父がどこかに行ってしまう気がして、芳は思わず宗景に寄り、その手を取った。随分と冷えている。ずっと外にいたのだろうか。そろそろ日も落ちるこの時間まで、ずっと彼はあの扇子を見ていたのだろうか。
「それは、誰かの形見ですか。初めて見ました」
それに宗景は答えない。
芳は直感的に、その扇子は母のものだと思った。女が持つには少し質素すぎるとは思うが、きっと父が大切に持っているものはそういうことに違いないとそう思う。
しかし宗景は……困ったように、そう、この時久しぶりに芳は宗景が笑うのを見た。
「これは……私が愛したものの形見ではある、な」
その晩、芳はなかなか眠れなかった。
日が傾き始めている中……宗景はじっと扇子を見ていた。ところどころ傷みもあり、とっくに匂いも消えてしまったけれど、まだどこかに直家の影を感じる。
この扇子を持つ直家の手が好きだった。直家に恋焦がれたあの1年にも満たない季節たちは、今も宗景を鮮やかに誘う。芳しい匂いと共に。
だからだろうか、きっとそれらの許され難い日々への報いだろうか、日に日に大人になる芳を見て宗景はぞっとするのだ。
彼女の姿に、話し方に、直家を見てしまう。というよりも全体的に見て、芳は直家に似ているのだ。周りは宗景に似ているなどというが、そんなことはない。
それに……明るくお喋りな彼女が時折見せる、深い色をした冷たい目が、まるで過去の自分のようだ。無理に笑顔を作り、周りに多くの人間を置き、そこでうまく演じきっていると思い込んでいた過去の哀れで愚かな自分と。
まさしく芳は、直家という素性にかつての自分を混ぜたようなそんな女だった。恐れると同時に、懐かしくもあり、恋しくもあった。しかし彼女は直家ではない。わかっている。そこには明確な線が引かれている。
宗景は惚れたのは直家であり、芳ではない。しかしそれを主張すればするほど、間違いなく宗景は直家に惹かれたことを認めることになる。その眼差しに心を躍らせ、その指先に嬌声を上げた。その結果はどうだ。何もかも失った。あんな形で、奪われなくとも良いものまで根こそぎ。
その結果の芳は、報いでもあり希望でもあった。彼女を縫い止めることは自らの癒しであった。もう二度と癒えない晒された傷跡への、わずかばかりの気休めだった。
だから、扇子を芳に見せたことはなかった。それは彼女にこれ以上なにも負わせたくない宗景の……″母″としての情けだったのかもしれない。
母を知らずに育つ芳は何も知らなくてよかったはずだった。確かに、その日までは。
芳はなんとか眠りにつこうとしていたが、結局朝方になってようやく浅い眠りについた。寄せては返す波を夢に見た。芳は波に乗ってどこまでも流れていった。光が満ちると思った矢先に、芳は傍らに男が立っていることに気がついた。
「初めまして」
陰鬱な男だな、と思った。全体的に陰のある色気のある男だが、底のわからない雰囲気だ。しかしこういう男は総じて話してみると面白いものだ。隠し持っている彼の人生に興味を持った。夢にありがちな、奔放な自分がそこにいた。それに……そう思って芳は自らの疑問をその男に投げかけた。
「どこかで会わなかったかしら」
「ああ、随分と勘のいい娘ですね。さすが私の娘です」
彼の声は明瞭だったが、言っていることがめちゃくちゃだ。芳は波を見送って向こうに見える朝焼けとも夕焼けとも見えない光を見た。
「私の父はあなたではありません。どなたかと勘違いなさってませんか?」
「いいえ、あなたは私の娘であり、私はあなたの父です」
その時はこれが夢だと思っていないわけだから、この男は一体何を言っているんだと真剣に思った。戯れにしてはあまりにもそこにゆとりのないもので、むしろ墨縄のように張り詰めていた。
「あのですね、私の父は今でこそ隠棲しておりますが、かつて浦上宗景と名乗っていたんです。いまも存命ですし、一緒に住んでいます。あなたは私の父ではありませんよ」
何を言ってるんだろう、自分が言っていることは全て正しいはずなのに、どこか現実感のない物語のようだと思った。実際にはそれらは全て芳の夢なのかもしれない。では目の前にいる男は……いや違う、芳は頭を軽く振ると、黙っている痩躯の男にこう言った。
「それに……私の目鼻は父上に似ております、どうしても他人とは思えません」
そこまで聞いて、男は笑った。身のすくむような笑みだった。しかしどこかで、この男をやはり見たことがあった。
「ふふ、それはそうです。血の繋がりがあるんだから……私はあなたの父。あなたの母こそが、あなたと住まわれてるあの方なのだから」
どこまでいっても答えが見えないと思った。しかし、次第に芳は答えが見えないのはこちらが見ようとしていないからではないか?とも思った。宗景が芳の母について語らないことをいいことに、深く追及しないことで見ないふりをしていたのかもしれない。本当は興味津々のくせに、何か新しい情報の前に尻込みしていたのかもしれない。それは事実だ。
ただ……だからと言って、この男の話すことは事実とは到底思えない。
芳を産んだのが宗景であるということなど、そんなことは絶対にないはずだ。芳は子どもの頃からさまざまな不可思議な話を聞くことを好んだけれども、結局のところそれは物語に過ぎない。そんなものは目の前に転がりはしない。あくまで意図的に配置されるものだ。
「あなたの言っていることがよくわかりませんが……父が私を産んだというのですか?そんな、男が子を孕むなど、夢物語じゃないですか」
「体を女にすることなんて容易いことですよ」
そう言い切る男の目は嘘をついているような色をしていない。しかしこれは騙りに違いない。困惑する芳をそのままに、男は長々と話し始めた。
「心は……難しい。しかし、あなたの母は女に……いや、あれは女ですらない。ただ快楽を貪るだけの存在にまでなりました。その結果生まれたのがあなたなんですよ。そんな娘にこんなことを言うのは良くないとは思っていますが、あなたが知りたいのであれば、いくらでもお教えしましょう。あなたは望んだ……自らの母が誰なのかと。私はそれに答えたに過ぎません」
宗景への冒涜だ。芳はそれを理解していた。彼の紡ぐ言葉が万が一でも真実だとしても、それをここで揶揄するのはあまりにも人の道を外れている。
おおよそ男が女になるなどとは思わない。それにあの宗景がそんな浅ましい欲に溺れるなど。親であるということも含めて想像するのはとても躊躇われた。
そもそも、宗景が芳を産んだとして、この男が芳の父であるということはつまりそういうことだ。目の前の男は″芳の父″を手籠にしたと芳の前で言っているのだ。
しかし芳は彼の言葉に耳を塞ぐことはできなかった。そこに少しでもある真実を掬いあげたかったし、それらを否定できるほど芳が宗景について知っていることはあまりにも少なかった。
「あなたが……もし本当に私の父だとして、では、あなたは一体誰なのですか?名前を教えてはもらえないでしょうか」
昔志津に教えてもらった話に、妖に名前を聞くのも教えるのも禁忌だと聞いたことがあった。彼がそう言った類のものならば、きっと名を明かすことはないだろう。
しかし、男は……目を細め笑うとこう答えた。
「私の名は宇喜多直家、宗景様には八郎と呼ばれておりました」
対峙する二人は、気がつけば鈍色の光に包まれていた。どこからか聞こえる鐘の音は一体何を意味するというのだろう。
「疑うのであれば、宗景様に聞いてみれば良いと思います。きっと目を泳がせ、頬を赤らめるでしょうね。しかし不思議なことです。あの方はあなたを遠ざけることも殺すこともなかった……少しお喋りが過ぎましたね。またそのうち」
その言葉を最後に、芳ははたと目を覚ました。早すぎる朝は、芳の頬を照らす。正味一刻足らずの夢であったとは思えない。身支度を整え、まだ寝ているであろう父の様子を伺うと……父はすでに目を覚まし、小さな箱の中を見ていた。そこには確かに、昨日見た扇子が収まっている。
昨日の父の言葉をふと思い出した。芳にとってそれらを貝合わせのように探るのは簡単ではあったが、それに対しての疑問は尽きない。
「父上」
宗景は驚く様子もない。芳の方に目をやることもなく、ただじっと扇子を見ている。
芳は宗景のそばに寄る。扇子を一緒に見た。
しばらくそこには沈黙が転がっていたが、居心地の悪いものではなかった。
そうだ。宗景は多くを語らないが、芳の存在を拒んだことは一度もなかった。ただ悲しい顔をして、捨て子のような目をするだけ。芳はそんな父が好きだったはずだ。彼がそうありたいと思えば、芳に邪魔立てするつもりはない。この清貧で穏やかな生活を宗景も芳も願っているはずだった。
それらの望みが告げている。その名前をけして口にしてはならないと。
「その扇子は、八郎様が贈ったものですか」
宗景の肩がびくりと震えた。まるで弾き飛ばされるように丸めた背を反らし、芳の方を見る。普段見せている悲哀な色はそこになかった。あるのは純然たる怯えだ。宗景は明らかにその名を恐れている。
「芳、お前は……どこでその名を知った」
「そうなんですね。いえ、私は何も知りません」
「お前は何も知らなくていい」
「父上、私は全てを知ろうとは思いませんし、それは無理なことだと思っています」
宗景相手にこんなに静かに話すことなんてあっただろうか。いつも芳は笑顔で、宗景のちょっとした表情の変化に笑い、たまに溢す弱音に背中を叩き励ましていた。しかし今は、背筋を正し宗景をじっと見る。
宗景はその視線から必死に逃げようとしていた。あの男……直家の言う通りだ。老いた頬はほの赤く染まっていた。宗景は何かを言おうとして、またやめた。
芳はそれを見て、宗景の手を取ろうとしたが……その手は跳ね除けられた。こんなことは初めてだった。
「すまない……だが、その名前は、お前から聞きたくはないんだ。お前がどこでその名を知ったかは知らないが……納得していないようだな」
芳は頷く。納得はしていない。ここで納得してしまえば、それこそ直家の言うことを鵜呑みにすることになる。
しばらくの沈黙のうち、宗景は小さくため息をついた。そして扇子を箱から取り出し、芳に見せた。
乳白色の扇子は、元はもっと真白かったのだろうか、夢に見た直家の顔をふと思い出した。彼がどうしてこれを宗景に渡したかは知らないが……宗景はもう一度息を吐くと、こう続けた。
「一つ教えるとすれば、確かにこの扇子は私が八郎から受け取ったものだ。昨日言ったことも事実だ。だが今は、お前と共に暮らしているだけで十分幸せで、それ以上は望まない……芳、お前は父に似ている。だから今もお前の顔に驚いてしまうし、心が動かないと言ったら嘘になる……不甲斐ない親ですまない。ああ、一つと言ったつもりが、二つも教えてしまった」
そう言って宗景は悲しげに笑った。こんな風に父と話すことがあるとは思わなかった。
「……父上が、笑いながら話すところを初めて見ました」
「そうか、私は……昔はこうだったさ。今思えばだいぶ無理をしていた」
それから少しだけ、話をした。もう話すことはないと言っていた宗景だったが、ぽつり、ぽつりと昔語を始めたので、芳はじっとその言葉を魂に染み込ませていた。
宗景の過去の話を彼から聞くのは初めてだった。八郎……宇喜多直家という男との関係も、初めて聞いた。
あの陰のある男との話は……いつもの芳ならば、宗景から聞いたものでなければ、きっと笑って茶化してしまっていたかもしれない。しかし、とてもそんなことはできなかった。
きっといま宗景が話したことは全てではないのだろう。結局宗景が芳をどのように産んだかはわからないままだった。しかし、宗景は直家を『芳の父親である』と認めたし、宗景自身も『お前は私の娘だ』と言い切った。きっとそこに至るまでに何かがあったのだろう。そこまで探る気にはなれなかった。
宗景が親であれば、それでよかった。
芳がおとなしくしているのを、むしろ宗景が笑う側だった。
「すまない、お前にまで背負わせるつもりはなかった……信じられない話ばかりで、驚かせてしまったね」
その後二人で食事を摂り、芳は志津とおしゃべりをしたり、井戸の掘り具合を見たり、村人のこどもの世話をしたりした。宗景は、何か思い立ったのか、文机に向かっていた。
芳があんなことを言い始めるとは思わなかった。宗景は、しかし芳がどこでその名を手に入れたかだけがどうしてもわからなかった。
確かに志津や天など、芳と話す機会のある人間で宇喜多直家の名を知る人間は多い。しかし、何も知らない志津はともかく、天が芳にそんなことを打ち明けるとは到底思えない。直家が死んだ際にあれだけ喜んでいたのだ。わざわざ過去を掘り返すような真似はしないだろう。
老いた手は、日に日に思うように動かなくなっていく。芳がいなければきっと生きることを諦めてしまうところだろう。そういえば、帰ったら体を清めるとか芳が話していた……あんな話をした直後に、こんな得体の知れない親の素肌など見たくもないだろうに。
つくづく誰に似たのか知らないが、健気な娘だ。
宗景の頬を部屋を吹き抜ける風が撫でた。暖かな風は、一瞬かつての直家との日々を思い出したが……すぐに消えた。宗景は、直家を選ばなかった。芳を選んだことを、今は後悔していない。むしろ直家が背を向けたあの時に、一瞬でも芳を諦めようとした自分こそが許せないくらいだ。
日々は経った。もう、終わった日の話だ。死んでしまったあの頃の記憶に、手向ける花も見当たらない。
風は再び吹いていた。じっと、宗景を見ていた。
芳はまたあの夢を見るのではないかと、少しだけ考えていた。宗景から話を聞いた以上、直家を見たら少し……いや、相当、怒ってしまうかも知れない。宗景の言っていることも直家の言っていることも疑うことはできない。そしてそれらが事実だとしたら、直家は何故宗景と芳を手元に置かなかったのか聴きたくなってしまうだろう。宗景が直家を語る時の目を、直家だって知っているはずだ。
あまり考えたことはなかったが、父もかつては若かったのであろうか。
さまざま考えているうちに眠りに落ちたが、その日は子どもの頃の夢を見ただけにとどまった。しばらくそんな日々は続いて、半月ほどが経った頃、芳はなんとなくそれらの話を抱きしめたまま、いつもと同じ日常に帰った……はずであった。
「ちょっと……何故ここに?」
芳は悲鳴をあげなくて良かったと本当に思った。井戸から汲んできた水を取り落とさなかったのも良かった。良かった良かったと自分を褒めながら、桶を慎重に地面に置くと、木立の下でこちらを見ている男に小さく話しかけた。
「ああ、あなたには見えてしまうんですねぇ」
そう話す直家を見て、芳は思い切り自らの頬を叩いた。ぱしんと音がするだけで、別に目の前の男は消えなかったし、目が覚めるようなこともなかった。
「随分と豪胆ですねあなた。私にも宗景様にも似てないなぁ」
呑気にそんなことを言う直家に、芳は言いたいことがたくさんあったはずだった。怒るはずだったが咄嗟には怒れなかった。なんとなく悔しいので、直家に詰め寄る。
「どういうおつもりですか?父上から聞きました。あなたとっくに亡くなってるそうじゃないですか。ならばあなた亡霊ですか?どうしてここにいるんです。成仏したいのであれば頑張りますが、私は見ての通りまだ年浅いので、よそを当たってくださいな」
「酷い言いようですね。私はただ、漂うだけの存在ですよ。成仏なんていうのは、生きている人間が考えた都合のいいお伽話に過ぎません」
それは幽霊と何が違うんだろうと思いながら、直家の様子を観察する。まあ三十路は過ぎているであろうとしかいえない。ともすれば不惑も過ぎているのかも知れないがその辺はよくわからない。年の見えない男だ。きちんとした身なりをしているし、ちゃんと足もある。思っていた幽霊とは違うが、ただ顔色だけは抜群に悪かった。
「これは元々です。昔から病人のような顔と言われていましたから」
考えていることを読み取らないでほしい。
芳は思い切って直家に向かってこう話した。
「父にこうも聞きました。あなたは私の父に違いない。しかし父もまた私の親だと言います。だからそれについてはなんらかの義理があるんでしょうが、私はあなたのことを知りません」
「私は聞いていたから知ってますよ。あの人のあの顔、久しぶりに見ました。芳……というんですね。私はあなたの名前も知りませんでしたが、あの方が話していることから察するにそうなのでしょう」
「私の名前を知らない?」
「ええ、私は宗景様があなたを産んだ後、三日くらいで追い出しましたからね。まだ名前もついていなかったんじゃないかな。しかし芳ですか、あの方のわりには随分と良い名前をつけたものですね」
「……あなた、私を怒らせたいんですか?」
沸いてくるものは怒りのはずだった。しかし何故か妙に凪いでいる。何故だろうか。父のあの顔を見てしまったからか。
「はは。怒ってもいいですが、宗景様は私ではなくあなたを選んだだけですよ」
まったくわからない。そもそもだとすればどうしてここにいるかも理解できない。名前も顔も知らない娘にわざわざ会いにきたのであれば殊勝な心がけかもしれないが、だとしてももう少しやり方があるだろうに。
「宗景様もその手を離してあげればよいものを。きっとあなたの中に私を見て、手が離せないのでしょう」
憐れむように直家は言うが、憐れむところは他にもあるだろうし、そもそも芳は宗景と暮らすことを不幸とは思っていない。つい言い返してしまう。
「ならばあなたが、父の隣にいて差し上げればよいのでは?」
宗景は確かに、直家のことを愛した者と言っていた。直家が宗景をどう思っているかなんて知ったことではないが、そこまで言うのであれば自分でなんとかすればよかったのだ。芳のせいにされては困る。
「それはできないんですよ……いや、言い方が悪いですね。それができたらきっとあなたはこの世にいません」
この男が何をしたいのかわからない。芳は大袈裟にため息をつき、もう帰ります、と言い残して桶に手をかけた。その瞬間だった。直家の手が手首を掴む。死んだ者のくせに随分と生気のある人肌にますます混乱していると、直家は芳の目線に身を屈め、そっと耳打ちした。
「今はまだ帰らない方が良さそうですよ」
芳はその手を振り払い、桶を持って家路を急いだ。直家は何かを言っていたようだが、聞こえないふりをした。
水を汲むついでに村に住む友人のところに行くと約束をしていたが、それに気がついたのは随分後のことであった。
誰かがいる。
芳は足を止めた。そっと桶を置き、手拭いで手を拭きながらそろりそろりと家屋を伺う。男の声が聞こえるが、宗景のものではない。村人の誰かが訪ねてきたのだろうか、とも思ったのだが……。
「できかねます」
「無理を言っているのは百も承知なんだ。すまない」
「しかし……」
父が誰かと話している。相手は知らない男だ。様子を伺っていると、芳の後ろで直家が呆れを交えた声音で嘯く。
「盗み聞きとは感心しませんね」
芳はしっと唇に指を当てたが、直家は飄々とした態度で、聞こえないですよ、と呟いた。
「あなた以外には私の姿は見えないですし、声も聞こえないはずです」
はずとは。どうして肝心なところを濁してしまうんだろうか。
「この前あなたと宗景様が話している時に、あなたの背後に座ってました。宗景様はこちらに見向きもしませんでしたからね。でもおかげであなたの名を知れました」
人が大切な話をしている時にこの男は何をやっているんだろう。まさか今までの生活ぶりを見ていたと言うのだろうか。薄気味が悪いと言うより、純粋に不愉快だった。
視線を宗景の方に戻し、耳を欹てる。相変わらず、宗景は男に何か頼み事をしているようだが、男の返事は色良いものではない。
芳にもその来訪を告げず、一体なんの頼みなのだろうか。しばらく声が聞き取れなかったが、突然バタンと大きな音がした。
「頼む。老いた体をお前に晒すのは私も忍びないと思っている……しかし、それでも私はこうしていないと生きてきけない」
くぐもった声をはなんとか言葉として把握できるものだった。薄い壁を越えた向こうで何が起きているのかわからないほど、芳はもう幼くはない。
父が、男を……?それまでそんなことはなかったはずだ。知らないし父の一面は、見たくないものであるはずだった。
しかしその後、再び大きな物音がする。
「御免」
そして弾のように……戸口から男が飛び出し、走り去っていった。身なりはきちんとしていたが、やはり知らない男だった。男は芳に気が付かなかったようだ。
父がいるはずの場所から小さく嗚咽が響く。
啜り泣く声を聞いた時だ。芳は自らが明確に父に対して嫌悪感を抱いていることに気がついてしまった。
芳はけして、性に対して潔癖であるとか、純情がましいところなど自分に限ってはないと思っていた。
しかし、男を誘い拒まれ泣くことしかできない父の嗚咽に、身体中が粟立つような、居心地の悪さも備えたおぞましさが芳を強く動揺させた。
「宗景様は……愚かで健気な人です。ああやって傷つくことでやっと生きる力を得ている。自分が間違いなくこの地に足をつけていることを確認してるんでしょう。確認しないのは怖いことですから。きっとあなたに気が付かれないよう、似たことを今までもしていたのでしょう」
芳の傍らで直家が話す。何も聞きたくない。何も聞こえない。父はそんな人ではないと言いたかったが、それは突き詰めていくと、自らの存在をも否定することになってしまう。
後にそれとなく聞いた話では、あの男はかつて浦上宗景に仕えていた人の息子か何かで、今はとある家にいるそうだが、芳にとっては最早どうでもいい話だった。
「どうして」
芳は川辺にいる。そろそろ夏の日差しは芳に暖かく降り注ぐはずなのに、どうしてもそれを享受できない。
父のそばにいるのが苦痛でない自分も含めて、よくわからなかった。父があれだけ苦しんでいるというのに、今もなお明るく笑えてしまう自分が不思議だった。自分という人間は思った以上に頑丈だったが、そこも納得はしていない。父に対して一瞬湧き上がった嫌悪感も、本人を見たら何故か、仕方ないと思えてしまった。今もなお、芳がどのように生まれたのかもわからないし、父と離れるという選択肢を選ぶことはなかった。
その代わり、考える時間が増えた。父のことだ。
「どうして父は私を選んだのでしょうか」
流れるせせらぎは何も知らず下流へ向かう。芳もきっとそうだったのだろう。何も知らなければ、きっと無邪気に海を目指していたかもしれない。宗景だって、何も知らずとも良いと言っていたのだ。知られたくはなかっただろう。
直家はしばらく黙っていた。もう彼が見えるのも日常になってきていた。何故ここにいるのかは知らないが、時折芳に助言をしてくるところから見るに、心配はしているのだろうか。
「宗景様は……自分では気がついてないでしょうけど、とても繊細な方です。昔は明るく振る舞っていましたけれど、それも人目を気にしてのこと。本当は誰よりも傷つきやすく、臆病な方です」
想像がつかない。父が明るく振る舞うなんて、よほど無理をしていたのではないだろうか。そういえば前に、父が普段酒を嗜まないことを知った直家が笑っていたのは、そういうことなのかもしれない。
直家は続ける。
「お産も大変だったと聞きます。きっと痛くて辛かったでしょう。元々女ではありませんから、余計に怖かったと思います。子を産むだけで親になれるわけではありませんから、そりゃ最初は戸惑ったでしょうが……それでも、あの方はまっすぐ私を見て、あなたと暮らしたいと仰っていました。本心だと思います。理由を説明するのは難しいですが、そういうところを飛び越えたのかもしれませんね」
「あなたはどうして、父にそんなことをしたのですか」
「前にも少し話しましたが……私はただ、されたことをあの方にお返ししただけです」
直家の表情に、宗景への思いが見えない。この人は父のことをどこかで慈しみ、今もなお想っている……のであれば、まだいくらでも説明できるし納得もできるのだが、どうもそうではないらしい。父がかつてこの男にした仕打ちは、全てではないだろうが直家から聞いた。芳の想像するものをすっ飛ばした事実には、怒りも悲しみも湧かなかったが、その代わり、この男と父がとても哀れに見えた。
直家は笑う。
「頼まれごとをしてくれませんか」
風のざわめき、水のせせらぎ、遠くに聞こえる蝉の声が、直家の言葉の輪郭を滲ませていく。
「宗景様に、優しくしてやってください」
何も今言わなくてもいいのではないか、と思った。まるでもう消えて無くなるようではないか。いや、もうこの男はすでにこの世のものではないから、それがある意味で当然の帰結ではあるのだが……。
直家はこちらを見ない。ただ、その表情は穏やかで……何故か、父の横顔にどことなく似ていた。
「私はあの人に優しくすることなんてほんの一瞬もありませんでした。与えたものは苦しみだけです。その中で、あの人はあなたという望みを手にした。あなたは私からの贖罪ではけしてありませんが、結果的にそうなるのであれば……私は宗景様に少しやり返し過ぎてしまったようです。私が出てこられない以上、あなたにお願いするしかありません。どうか、あの方の足元を照らしてはくれませんか?」
芳はその言葉を黙って飲み込んでいた。全ての意味がわかるわけではない。むしろ知らないことの方が多い。だけれども、そうでなければできないことだってあるだろう。そうでなければ、許せないことだってあるだろう。
返事のない芳に、直家はこんなことを言った。
「……なんて、死人の戯言。聞き流してください」
「聞き流せません。あなたは確かに……父に酷いことをしました。しかしそれは父とて同じ。それでもあなたがそれを望むということは、父のことを少しでも気にかけているということ。それに、今あなたがここにいるのだって、きっと私ではなく父を案じているのでしょう。あなたに言われずとも私は父を大切にしますが、その言葉を無かったことにはしません」
芳は立ち上がり、直家をじっと見た。直家は芳を見ていたが、やれやれと肩をすくめた。
「強い娘です。まったく、誰に似たのやら」
「あなたによく似たんでしょうね」
それから、直家を見ることはなくなった。あれは幻だったのではないかと今も思う。父はその後から少しずつ体調を崩し始め、頰もこけていった。
黒田家の国替に伴い、村人たちに別れを告げ筑前に入ってすぐ、宗景は胸の痛みを訴え始めた。医者にも見せたが、老齢によりもう体が弱りきっていると言われるばかりで、大した手も打てなかった。
痛みは背中にも広がった。寝返りをうつのもつらそうで、芳や志津が夜も定期的に様子を見ていた。枯れるように死んでいく父への物悲しさにさまざまな思いが去来したが、直家の言葉を思い出し、懸命に看病した。
父は静かに亡くなった。あの時の扇子は、父と共に燃えて灰になった。もう二度と芳の前に直家は現れないだろうと直感的に思ったし、それは事実になった。きっと今頃、二人は同じところにいるだろうか。芳の知る二人の間に起きた事実は、そこに穏やかさを許してはくれないけれど、今はただ、芳の二人の親が、静かな再会を果たしていると信じて……。
娘の芳は、それから尼寺に入った。静かだが豊かな人生を送り、ひっそりと亡くなったが、彼女の存在を知る人は少なかった。
了