「ラウ」
名前を呼び唇を寄せ、この男はラウから体温を奪う。ギルバートは愛情に飢えた子のようにラウの体に組みついて散々キスを浴びせているが、与えるためのキスではない。こうして彼と寝るようになってしばらく経つが、この男はラウの想像をはるかに超えるほど身勝手で、それでいて唖然とするほどに純粋だった。
ギルバートはラウの髪を愛おしげに撫で、体に愛撫を加える。されっぱなしは癪だから、こちらも彼の髪の毛から耳、顎、首と慈しむように撫でてやる。ラウの指が耳朶に触れた時、ギルバートは少し目を細め笑った。いっそ可憐さすら存在を仄めかす彼の様子に、ラウはどこか胸の奥がちりちりと焦げるような気がするのだ。
この正体をラウはよく知っている。
だが、口に出して言うつもりはない。
ラウがひとたびそれを口にしてしまえば、あっという間にこの関係は変容する気がするのだ。
触れるだけの口付けを何度も交わした。その度に彼の細い体をきつくいましめてやる。ラウが本気を出せば、この非力な学者上がりの美しい男は抵抗ひとつできはしまい。しかしながらギルバートは……そうされるのがもしかしたら嬉しいのかもしれない。口付けの合間合間に漏れる吐息はあまりにも甘く、強請るように身を捩らせる。
きっと彼もまた、絶望に明け暮れているのだ。
そこからなんとか生き延びるために、こうして肌を重ねているのだろう。
「あ」
下腹部をなぞられ、そのあまりにもせっかちで、それでいて貪欲なギルバートの様子にラウは思わず声が漏れた。
それを聞いてなにかがおかしかったのか、ギルバートはくつくつ笑っている。
先日ラウの思いつきで胸元をいじられたときに体を震わせ喘いでいたギルバートを思えば、おかしいのはこちらの方だ。日中、外の有象無象に見せる彼の顔は全くの偽物で、本来の姿はこれほどにも奔放で時折不安になるほどに幼い。
知性の煌めきを失わぬまま……むしろ煌めくからこそ快楽の先を知りたいのだろうか。互いに抱きも抱かれもするが、ギルバートは想像以上に快楽に従順なのだ。ラウが頑なすぎるのかもしれないが。
「ラウ……」
彼が望むのは何か。陽光の下のような暖かさか。黄昏にそよぐ風か。それともそれらすべてを凌駕してやまない宇宙の沈黙そのものか。
どうしたらギルバートという男が満たされるのかはわからない。割れたグラスめいて、注いでも注いでも流れてしまうラウとは近くて遠い。
だがその距離さえ、ラウに優しく語りかけるのだ。そう、まるでこんな声音で……。
「好きだ」
ギルバートのそんな言葉にラウはしばらく黙っていた。何も語らぬこの体をギルバートはただ慈しむばかりだ。肌に頬ずりを、指先にキスをする……思いつく限りのことをして、ギルバートは強請るのだ。愛の言葉を。
ああ……言葉にしてしまえばなんと陳腐なのだ。彼はそんなものが欲しくてたまらないのだ。そんな、小鳥の睦言のようなそれを求めてやまないのだ。だから、笑って嘯く。
「好きだなどという言葉はとても軽い。黙っていた方がよほどその存在は増すものだ」
大海は大海のままでいるから美しいのだ。波を少しでも荒立て人を求めてしまえば……それはただの凄惨な災害でしかない。たとえ海がどれだけ人恋しくても、人が自らの意思で海に入らねば触れることすらままならない。
言外にラウは所詮人だと示すのだ、彼は。
「君を前にして言葉を尽くさないのは無礼だと私は思うよ」
「尽くしてそれか?」
「趣向を凝らした言葉よりも、シンプルな方が伝わるだろう?」
唇を重ね、互いの雄を慰めた。高まる熱とは裏腹に、どこかで何かが、ラウに冷水を浴びせ続ける。お前は不実だ。それもこの男を枯らしてしまうほどの、おそるべき徒花だと。
根を持たぬ木を植えるようなものだと……昔ギルバートが話した言葉を思い出していた。論理を持たぬ科学について、過去の科学者はそういう言葉で批判したのだという。
翻ってラウは自らこそが根の持たぬ木だと、そう思っている。自らすすんでそう選んだ部分もある。根などいらない。言葉を捨てることだけはできないけれども……。
「ラウ、愛してるよ」
「……ん」
互いに達したあとも、しばらく柔らかなふれあいは続いた。昔ならば、他人とこのように愚図愚図としたスキンシップをすることなんて考えられなかっただろう。セックスをしたいのならばすればいい、この体などいくらでも蹂躙すればいい、そう思っていた。しかしギルバートはそうはしない。その略奪は、あまりにも優しくあまりにも身勝手だ。
こちらの気持ちを振り回してやまない。ラウに睦言を囁く小さな声は、それだけこちらを幼くさせる気がするのだ。ギルバートには、わかっているのだろう。ラウがその白波に流されてしまうことを。
だから誰にも聞こえないように、ラウにしか聞こえないよう口にするのだ。愛の言葉を。
そしてこちらには大声で叫べと強請るのだ。愛の言葉を。
ああ……彼が望むものを、与えられるだろうか。
ラウはその細い体を引いて、ギルバートを自分の真横に倒すとそのまま馬乗りになった。薄明かりにギルバートの薄い肩口から首にかけてのラインがあらわになり、ラウの心を少しばかりざわめかせる。
ふわりと香るのは、艶やかな黒髪に忍ばせた香水だろう。嫌味のないアンバーと、控えめに香るのは濡れた花。彼がつけるには些かフェミニンにも感じるが、きっとそれもわかっていてやっている。さあ与えよと煽るのだ。わがままな香りはラウを何度も挑発する。
しかし一方で……言葉はないものの、ラウの行動にギルバートは驚いたようで瞬きをしている。
「今日は私がボトムなのかい?」
「嫌か?」
「嫌ではないさ。でも驚いたのは確かだね。ああ、でも何も支度をしていないんだ。だからちゃんとはできないよ」
ギルバートはそう言うと、ラウの頬を撫でた。指先が優しすぎる。単純な腕力で彼に負けることはないだろうが、それ以外の力では……根を持たぬ木には為す術もない。
それをわかっていてこうしているはずなのに、いつもその優しさに意味を付け足してしまう。
ラウは息を吐き、ギルバートの指先を絡め取ると長い指にキスをした。慈しむことができているだろうか。何もわからない。
「……君を撫でて寝たい」
この黒髪を、白い肌に、飛び込めたら。
それがたとえ木を枯らし朽ちることであっても、早かれ遅かれ滅びる枝だ。海の水を吸い尽くしてもがいて死ぬとき、海もまた死ぬだろうか。この男は……ラウの断末魔に、死んでくれるだろうか。
ラウの表情に、そうした思惑が透けていたのだろうか。ギルバートは小首を傾げ笑った。
「ラウ?随分可愛らしいリクエストをもらってしまったな」
「嫌なら、私を抱け」
「嫌じゃないよ。不安なのかい」
「は、なにが」
今度はラウが笑う方だった。何を言い出すのかと思ったら、彼は嬉しそうにこう言った。
「ラウ。おいで」
ギルバートの声に誘われ、その身をゆるやかに抱きしめる。髪の毛を指で梳くように撫で、その夜闇を楽しむ。彼は大人しく、ラウの触れるままに任せている。
白くて傷のないなめらかな背中も、脇腹から腰の筋肉の薄いラインも、ラウの指先から伝わる熱を欲しがっている。
くらくらする。
この男がどうしても愛おしいのだ。自分でもこの感情にもう少しセンスのある名前をつけたいところだが、どうやらそれすらできないほどに乱される。同じくらい彼もまたこちらに乱れた姿を見せ、そのたびに流されそうになるのだ。意思も思想もないわけのわからないどこか、ギルバートの見つめるラウとはまた違う深淵の先に。
違う未来に生きる二人の行く先はしれない。この身も魂もやがてほどけて消える儚いものだ。枝に花があったところで、風が吹けば散ってしまう。ならばその花弁は海に揺蕩うように祈るしかないのだ。やがて溶けて消える身なれど、最後まで……。
「不安は消えたかな」
まだ、そんなことを言う。ギルバートの言葉を封じるように彼の腰を抱き寄せ、耳元を舐めて言葉を吹き込む。
「不安なんかないさ」
この関係が特別でなくとも、きたるべき終わりに大きな蟠りが残ったとしても、根を持たぬ低木は知っているのだ。海のどこかにいつか散らせた花弁があることを。
了
image song:COCCO「海辺に咲くばらのお話」