地に降りて、幾許 1

⁠オーブに身柄を移され、最初にギルバートと接見をしたのは一人の女性医師だった。
銀の色をした髪を粗雑に束ねただけで化粧っ気もない彼女を、かつての自分であれば、つまらなさそうな女だと一蹴したかもしれない。当時の感覚はもはや遠い。断片的にある知識をなぞっているだけだ。ギルバート・デュランダルという男は今の自分にとって知識の上でしか存在しえない。それは確実に自らであると言うのに。
キミヤー・キリサキと名乗ったその医師は、メモを取ることもなければ、それまでのギルバートについての資料に目を落とすこともなく、果てにはカルテすら見ていなかったと思う。それまでいた場所を思うと不安で仕方がない。それまで見てきた医師というものは、みな一様に注意深くカルテや資料を読み込んでいた。自分だって、研究を進める際に資料を眺めながら作業することは常だったはずだ。彼女は、そうではない。
そうではない、という些細なことがギルバートには一抹の恐ろしさを齎していた。これまでの悪夢のような日々はギルバートに『この女も自分に害を為すかもしれない』という小動物にも似た猜疑心を与え、今もなお、彼女の動作に気が抜けないのだ。
そうだ、あの日々に全て奪われた。かつて存在した聖典のように、ギルバート・デュランダルのすべてが、洗い流されてどこかに行ってしまったのだと思う。今いる自分はただ怯えるだけの存在で、持っているのは、朧げな記憶だけだ。
それはかつて心を許した数少ない人々とのひとときの幸せ。スプーン一杯にも満たない大切なはずのもの。今思えばあの日々だって、ギルバートが自ら手放したようなものだった。
だから、いつかこの脳裏から、あの時の記憶すらすっかり消えてしまうのではないだろうかと言うことだけが、真にギルバートの恐れるところであった。
ここは医務室だろうか。長らく移動していたから、どう言う場所かさえわからない。病院なのかそうでないのかさえあやふやだ。そこに輪をかけて、この部屋はあまりにも簡素で、何もない。打ちっぱなしの灰色の部屋には椅子とサイドテーブル、タブレット型の端末が一台だけがある。今のギルバートですらその機器が旧式のものだということがわかるほどだ。
向かい合った椅子に浅く座って、キリサキは最初にこう言葉を置いた。
「ここは録音も録画もしていません。私はあなたの情報を全て記憶しています。しかし私はあなたの言葉を知らない。あなたが見たこと、聞いたこと、知っていること。そして今あなたが思っていること。殆どを知らないと言っていい。しかしながら、私は全てを晒すことを強要しません。必要な時に、必要なことだけお話いただければ結構です」
ぺらぺらとよく喋る女だ。しかし、いわゆるお喋りな女という感じでもない。彼女は対話をする気がないのだろうか。まるでこの場のルールを宣言するかのようだった。少なくとも、そこまでギルバートの言葉を差し込む余地はどこにもなかった。
「メモを……取らずに?」
「質疑とみなしてお応えします。ええ、私は患者と相対するときにはメモを取りません。書き残すのは診察を終えた後、報告書にする時だけです。見たものや聞いたものであれば記憶できますから」
とっつきにくい。もしかしたら相性が合わないのかもしれない。少なくとも今のギルバートには厳しい相手かもしれない。
しかし、よく考えてみたらそれくらいがいいのかもしれない。もう何もしたくない。心はある意味で遠くにあって、ただ体がここにあるだけだ。ギルバートにできることは生きることだけで、生きて贖ったところで、何ができるかは今もわからない。それだけの日々であった。とっつきにくい方が、それを理由にただ流れる虚無を受け入れることができるかもしれない。
キリサキはそうしたギルバートの様子をしばらく観察したいらしく、他に何かご質問や伝えたいことはありますかと訊いてきた。突き放すわけでも、かと言って過剰に接するわけでもなかった。
……彼女はまさしく地に足をつけているのだと、ふと思った。ギルバートだけが思わぬ重力に足を取られているだけで……。
ギルバートは、眠る瞬間に言いようのない恐怖心を覚えることを話した。言葉は詰まりがちで、相変わらずうまく話せない。本当ならばもっと自分には大きな不安や、どうにもできないもどかしい気持ちが存在しているのに、感知はできても表現できない。言葉の端を掴むことはできるようになったが、意味のある文にするのはまだ難しい。
「眠る練習をしましょう」
キリサキはそう告げてきた。眠る練習。通常であれば笑ってしまうような言葉だが、まさしくいまギルバートが必要なことなのかもしれない。というか、人の提案や、物事に対して判断するということに対してこの時点のギルバートは大きな困難を抱えていた。何を話すか、何を食べるかと言ったことすら、自分で決めることに不可能ささえ感じ、その度に不安を抱き自身への不信感を募らせていた。
キリサキはそんなギルバートの顔をじっと見ている。虹彩の薄く白みがかった目は、感情なくギルバートに対しこう続ける。
「まず薬について見直しをします。今まで飲んでいたものは寝つきをよくするためのものですから、もしかしたら眠るというよりも気絶に近い状態だったのかもしれません。この薬は悪い薬ではありませんが、効き方がかなり強引です。また、寝付いたころには代謝されはじめるので、どうしても眠りそのものが浅くなってしまうんです。一方で目覚めるころには薬が抜けているので持ち越しがない利点はあります」
睡眠薬を筆頭に、脳の機能を低下させる薬は多岐にわたる。ギルバートには久しく無縁の薬だったが、今や手放せない。ただ、自分が飲んでいる薬の名前や、普段渡されている錠剤のどれが今話している睡眠剤なのかはわからない。ここに来る前、薬は看護師がトレーに置いたものを必ずチェックしてから飲んでいたが、確認していたのは数だけで、ギルバート自身が飲む薬の正しい錠数を把握しなくてもよかった。ひどいときはすべて点滴だったらしい。そしておそらくキリサキは、それも知っているのだろう。
「よくわからない薬を飲んで、急に眠気に襲われて動けなくなることを怖いと思うのは人として当然です。ご経験から、暗い場所が恐ろしいと思うのもごく当たり前の気持ちです。ここに来ることで環境は変わりますが、デュランダルさんの安全は保障しますし、適宜改善していきます」
その目はギルバートを責めるように見てくるわりに、話していることは少し合点がいった。どうしようもない話ではどうやらないらしい。
「いまはとにかく、眠ることや休むことに重きを置きましょう。食事は運びますが、全部食べようなどと思わなくて結構です。ここは量が多いみたいなので。それよりも今は眠る方が大切です」
キリサキはそう言って、鍵を取り出しテーブルに置いた。古典的な物理式の鍵だ。実用されているものをギルバートは初めて見たかもしれない。
「これはあなたの部屋の鍵です。この上の階、三階に部屋があります。ひとまず必要なものは揃えていますが、足りないものもあると思います。その時は壁にホワイトボードがありますので、そこに書いておいてください」
「……あ、の」
「はい」
視界が少しだけ、ぼやけるのを感じながら……ギルバートは最後に、キリサキにこう訊ねた。
「あなたは、私を、しっていますか」

ギルバートは看護師に案内され、三階に上がった。旧式のエレベータはおそらく搬入用のものではないだろうか。使い古されたというよりは、使われることもなくただ年月が経っただけのような雰囲気がある。
エレベータを降り、踏み出す。まだなんだかふわふわしていて、足取りがあやふやだ。エレベーターから当該の部屋までの廊下は、やはりあまり使われていないのであろう。ひっそりとしていて、人の気配はない。どこか寒々しさすら感じた。
「ここがお部屋です。鍵をどうぞ」
サハラと名乗った女性看護師は終始ギルバートを気遣い、いっそエスコートするかのようだった。鍵を受け取り、自ら開錠する。
てっきり今までのような病室を想像していたが、そこは市民向け住居のような趣で、外開きの扉の向こうには廊下が伸びていた。廊下の左右と突き当たりに扉があり、まずは突き当たりの扉をサハラ看護師は開けギルバートを促した。
「これは……」
広がる光景に、ギルバートは目を見開いた。
海だ。
南向きの部屋なのだろう。大きな嵌め込み式の窓の向こうには、美しい青空を抱いたような海が一面に広がっている。
「こちらが寝室。いま通った廊下のこちら側がバスルームで、反対側がトイレです。最低限のものは揃えていますが、しばらくは何かする時はこちらのコールを押してくださいね」
渡されたものは小さなボタンだった。ボタンの縁にストラップホールがついていて、本来はベッドかなにかに固定するものなのだろう。
「具合が悪くなった時も、躊躇わずに押してください。私は隣の部屋が持ち場なので、すぐに駆けつけますから」
サハラはそう言って笑う。朗らかな笑みは、かつての生活とは真反対のような環境を表すかのようだ。
頷くが、この時すでにギルバートには、ボタンを押すかどうか判断ができないのではという懸念があった。それを察したのか、サハラは何故か小声で、こう言った。
「一応、カメラで確認はしてますけど、最低限なので。私は基本的にここの施設にいるので、気にせず押しちゃってください」
カメラの位置まではわからなかったが、きっとわかるようになっているのだ。なんとなく、安心した。昔なら嫌悪感を隠すこともなかったであろう監視されている環境でしか、生きていけないのだ。
サハラ看護師は、ギルバートのそうした様子を見ていたのか、少し話し方をフランクにしてまた笑った。
「お昼にします?」
「……いえ、少し疲れ、て」
「ああ、そうでしょう、そうだったと思います。ずっと移動でしたものね。わかりました。また夕食の時に伺います。それまでおやすみになっててください」
そう言って、サハラはお昼食べてきます、と元気に踵を返して部屋から出ていった。その際躓いたのか、ドアに肩をぶつけ少し大きな音がしてギルバートは驚いた。先ほどまでと打って変わって、実は騒々しい女なのかもしれない。
誰もいなくなった部屋にぽつんと残される。照明はあるが、今は消えている。それに気がついたのは、天窓の存在を知った時だった。天井にはガラスが嵌っていて、こちらは窓のガラスと違って開けることができるようだ。
……今は、開ける気にならなかった。それよりも草臥れた。部屋を見渡す。ベッドがあり、簡単なテーブルと椅子がある。棚は置いてあるだけと見えて中身は何もない。
ベッドに腰掛けると、視点が下がったことで、海なのか空なのかわからない青が視界を踊る。陽気さに目が眩みそうだ。
息を吐く。数字を……数える気にもならない。なんだか急に身体中の張り詰めた糸が切れたようだ。別にこの場所に心を許したわけではない。何かあるかなんてわからないし、もっと酷い目に遭うかもしれない。それでももうどうでも良いと思ったのだ。なぜかはわからない。キリサキやサハラが、あまりにも普通に接してくるからだろうか。
ぱたん、とベッドに横たわり体を預ける。目を閉じても眠れる気がしなかった。これからどうなるのか、どうでもいいと思いつつも不安だった。この不安にはもっと違う名前がある気がするのに、わからない。
かつての自分がおそらく一番忌み嫌っただろう、わからないという事態がいまのギルバートには全ての事象に当て嵌まってしまっている。だからかつてのギルバートはやはり死んでいるのだ。生きていたとしても、そのような事実を受け入れられず死を選んだのだと思う。ではここにいる自分は誰なのだろうか。
何もかもが溢れるような、足元の心許なさが寝ていてもなお襲ってくる。
「あなたは、わたしをしっていますか」
……そう、キリサキに問うたのは……彼女もまた、ギルバート・デュランダルの名で自分を呼んだからだ。知らないわけがないと思う。ただ、それがどのように伝わっているかまではわからない。キリサキは表情を変えることなく、ええと返事をした。
「あなたのことはよく存じ上げております。私もプラントで生まれ育ちましたから」
「……あなたも」
「先ほどもお伝えしましたが、記録として残っているあなたの情報は全て記憶しています。それ以外にもあなたを知るきっかけは多かった……しかし、だからと言って医者と患者の立場そのものは揺るぎません。あなたの患者としての利益を揺るがすものは、何であっても医師としてけして許しません。デュランダルさん。こちらを」
「……」
目の前に差し出されたディスプレイには、誰かの情報だろうか……某国で産まれ、数年前にオーブに入国した市民のものだろうか。ギルバートはその名を小さく読み上げた。
「ローラン……」
「それがこの地でのあなたとなります。ギルバート・デュランダルとしてのあなたを知っているのは私、それと向こうにいる看護師一名のみです。ハルバート・ローラン……これがあなたの名前です」
三つ目の、名前だ。そう思った。
思い出すのも辛い二つ目の名は、口にすることは今もできない。今度の名前はギルバートに何を齎すのだろうか。
キリサキは看護師を呼び……そこから今に至る。キリサキ医師は普段は近くの医院に勤務しているらしく、オンコールで往診する形となるそうだ。よくわからないが、もしかしたらここは病院ではないのかもしれない。
空の色が濃くなってきた。少しうとうとしていると、コンコン、と扉を叩く音がして、返事をする前に扉が開いたようだった。廊下から聞こえる足音に、無意識のうちに体に緊張が走るのがわかる。
寝室の扉を開けたのはサハラ看護師だった。予告されていたのでそれはわかっていたはずなのに、まだ夕方な気もしなかったのもあり、やはりまだ恐ろしいのだ。サハラはそれに気がつかなかったのか知らないが、明るく声をかける。
「お食事とお薬をお持ちしました。眠れました?」
「……いえ。ありがとうございます」
食事は……全てとらなくていいと、キリサキが言っていた。実際に食欲はないし、元々最低限の食事で生きていた。
それにしても量が多く、見ただけで少し気圧され、空腹だったとしても引っ込むような感じがした。魚だろうか?見知らぬ食材もあったし、そもそも知らない料理が多かった。ここに至るまでの昏い記憶を思えば、人と同じものを口にできるだけ幸せだろうということは頭ではわかっているのだが……。
考え込んでしまい、食があまりに進まないのを心配したのだろうか、せめて水分をとサハラは飲み物を持ってきた。水と、不思議な香りのする茶だ。
選ぶことが、難しい。決めることが、怖い。また間違えてしまいそうだ。何を間違えるかもわからない。そう思ってると、サハラはこのお茶が美味しいんですよねと話を振ってきた。そうであれば、と思ってカップを選び、口に運ぶ。
ほのかに甘く、紅茶に近い味がした。そういえば昔、幼いレイが好んで飲んでいたのもこういうフレーバーティーだった気がする。
レイ。
ふと名前が、表情が、ギルの意識のひどく近いところにやってきた。レイ。彼が掴み取った運命は、ギルバートを否定するものだった。それも含めて、あの幼く小さな魂はギルバートの救いだったはずだった。彼がもし今の自分を見ていたら、どう思うのだろうか。全く想像がつかない。
違う名前を押し着せられ、違う役割を押し付けられ、暗がりでただ蝕まれるギルバートのこの記憶は、もしかしたらレイがかつて受けたものなのではないだろうか。レイだけではない。ラウもまた、そうだ。人の欲望に果てはないが、どこかで必ず瓦解する。その兆候として産まれたのがあの二人なのだとしたら、そうしたサインにも気付かず突き進んだ結果が今のギルバートだ。
そしてこの結果じたいが、かつて兆しとして存在したふたりの境遇でもあるのだ。
何故か一瞬だけ脳内が明瞭になり、そこだけ繋がったが、はたと気がつくといつも通り相変わらずまとまりのない言葉だけが跳ねていた。顔を上げると心配そうな表情のサハラが様子を見ている。
「大丈夫ですか?キリサキドクターに連絡しましょうか」
「……いえ、なんでも。少し……思い出してしまって」
その言葉にサハラの表情が曇る。彼女ももしかしたら、この身に何があったかを知っているのかもしれない。誰が何を知っていて、何を知らないのかがわからないから、話す気には到底なれない。
「今日はもう、休みましょう。お薬だけ飲んでください」
そして差し出された薬を一つずつ確認した。それらがどのような効能かも教わりながら、飲んだ。
窓の向こうで海がざわめいている。それはこれから起きるだろう希望への喝采であり、絶望への呼び声だったのかもしれない。

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