その後ろ姿に与一郎は確かに動揺を隠しきれなかった。
右近は戸口に立つ与一郎や忠三郎の存在に気がついていないのか、彼の唯一の主人である神に祈りをささげていた。跪き、なにかを呟くその姿はそれまで見てきたなによりも美しく、それでいて悍ましささえ感じた。
すっと線を引いたように伸びた背筋、項垂れ露わになったうなじの造形の麗しさは、それが故に人のものとは思えなかった。
与一郎は知っている、その直下にはまるで首輪のように、彼の主人が彼に施した見るに耐えない傷痕が残っていることを。神によって穢され、何もかもを失った右近は、それでも彼の神をひたむきに信じ、慰め、生活のほぼすべてを捧げている。
まだ若い与一郎には、そういった生き方を理解はできても納得はできない部分もあっただろう。だからと言ってそれに口を出すほど、普段の与一郎は迂闊ではないはずであった。
厳格な家に育ち、一挙手一投足が彼の家を左右するということを幼いころから叩き込まれ、元々気性はひどく荒かったが、なんとかそんな自分を飼い慣らしていた自負もあった。
そんな与一郎が、いくら相手と懇ろにしていたとはいえ彼の神経を逆なでするような言葉を吐いたのか、とんと見当がつかなかった。
その理由は、与一郎しか知らない。
—
大きな戦になると思っていたが、思っていたような派手な戦闘が起こったのは与一郎の知る限り手で数えられる程度であった。
大方の諸侯は関白殿の傍で遊興に「励んで」いたし、与一郎も例外ではなかった。相手の規模からして消耗戦になるのは仕方がないとは思うのだが、やはり思っていた戦と違う落胆は少なからずあった。
そんな折り、右近の元から使者がやってきた。珍しいものを見せたいから是非陣に来ないかというものであった。右近のいる陣は少し遠かったが、とにかく刺激を求めていた与一郎は、二つ返事で了解すると支度もそこそこに右近がいる陣に向かった。
与一郎が着いた頃には、既にもう一人の客が到着していたようだった。
「おや、越中殿も呼ばれておったのか」
陣立の向こうから見慣れた恰幅のいい男が顔を出して声をかける。
「その言葉、そっくりそのまま返してやりますよ」
にやりと笑って軽口を返した。相手の男、蒲生忠三郎は全く意に返さなかったようでこっちに来いと手招きした。素直に従うと久しぶりだな、と大きく笑って肩をたたいて来る。
与一郎にこんなことができるのはこの男くらいだろう。
この忠三郎という男は朗らかで豪胆な言動と派手な顔立ちとは裏腹に、その実繊細であまりにも純粋な男なものだから、年下のくせに偏屈で皮肉屋な与一郎にも屈託無く接してくる素直で良い男だ。
ただ、右近に誘われて簡単に宗教を変えてしまったりするあたり、少し純粋すぎて危ういところも多分に含んでいるといっても過言ではないかもしれない。それでも感情が澱みなく循環しているところが、この男の強みであり魅力であろう。
そんな忠三郎のことを与一郎は幼いころから羨ましいと思っていたし、いつまでもそばにいたいという与一郎らしからぬ淡い恋心のようなものも抱いていた。
互いにいい年なのだから、流石にもうそういった浮かれたことを口に出すようなことはしないし、与一郎のためにも忠三郎のためにもならないと半ば諦めのような段階まで踏んでいるが、右近も含め三人でかの宗易師匠の門下であることもあり、そういった気持ちを不自然に燻らせたまま、ずっと親しくしている。
いや、それどころか、気がついたら与一郎は忠三郎の相談ばかり聞く役になってしまっていた。
そしてそこにこそ、短気で諦めの悪い与一郎が、彼への想いを諦めざるを得なくなった理由があるのだが。
「そちらの戦況は如何なものです。少し動きがあるとは聞いていますが」
「いや、小競り合いの連続で大したことじゃないな。そっちはどうだ」
「何も、と言えば嘘になりますが」
そうか、と忠三郎は伸びをして空を見上げた。与一郎もつられ、次期に忠三郎の横顔を眺めた。吸いこまれそうな威圧感のある大きな目が、日の傾き始めた雲一つない空に対峙する様は美しく見えた。
与一郎の視線を何とも思っていないのか、忠三郎ははあと肩を落として呟いた。
「もう昔のような大戦はないのかもしれんなあ」
全くの同意であった。長い籠城戦も嫌いではないが、確かにこれからの時代、緊迫感ある野戦とどれだけ遭遇できるのだろう。
「飛騨殿のような猪武者様には辛い戦いですな」
「最前線に出ないと戦を知ってるとは言わないんでな」
「死んだら手くらいは合わせて差し上げます」
「骨くらい拾ってやってくれ」
笑う忠三郎が半ば本気なのは与一郎が一番よく知っている。
この男は鯰尾の兜を被ったら最後、けして多くはない手勢を引き連れ何があっても前に前に出て行ってしまう。家の者はそれが当たり前のようになってしまっているし、与一郎のような外の人間も最早咎める人は少なかった。一見命知らずの無謀な行動に見えるが、彼自身消して深追いはしないし、適度に威圧を与えたら必ず別働隊に仕事を与えていた。
また、そんな戦い方をしている忠三郎が健在であるということで、それだけ蒲生家の精鋭部隊ぶりの裏打ちにもなっている。そのため、与一郎もからかいこそすれそれをやめさせるようなことは言えなかったし、言えたとしても言わないだろう。
そういうところも魅力的なのだこの男は。
ただ、与一郎のそこまで長くない人生経験でもわかるのが、こういう男は長生きには向いていない。いずれ必ずくる別れが、たまたまこれまでの戦ではなかっただけに過ぎない。
こういうところに身を置くと、ふとそういった男たちとの別れを意識させられてしまう。明るく笑う忠三郎を片目で追いつつ、与一郎は気付かれないようにため息をついた。
そんな折、二人の目の前に彼らを呼び出した張本人が現れた。
「お久しぶりです。もしかしてお待たせしてしまいましたか」
色の白い、細身の男、高山右近が恭しく頭を下げる。与一郎も立ち上がって礼を返した。隣の忠三郎も礼はしたにはしたのだが、がた、と立ち上がり、あまりにも勢い良く礼をしたため思い切り与一郎に肩がぶつかった。
普段から少し行動がぞんざいになることがあるが、ここまで動揺するのは珍しい。が、どうしてそうなっているかを知っている与一郎は忠三郎にしか聞こえないように小さく舌打ちをし、今度は逆にわかりやすいほど忠三郎をにらんだ。
「…何をしてるんです」
「す、すまん」
右近はにこりと笑い、相変わらずですね、と言い置いたのち二人を奥に案内した。
道中ではもちろんこれまでの戦果の話題で盛り上がった。右近は客将として前田家に迎えられていたが、今回は関東討伐隊としていくつかの城の攻略に取り掛かるそうだ。彼は数年前に出た禁教のお触れにより、それまでの領地である明石と富をとるか、耶蘇教の教えをとるかを迫られ後者を取った。
それ以来いくつか土地を転々としていたが、現在は金沢で暮らしている。前田家のご嫡男である孫四郎利長は右近にとっても与一郎にとっても兄弟弟子にあたるのもあり、相談役にもやっているらしかった。それでも領地を持って居た頃と自由にできる金は圧倒的に減ったであろう。
かつて一国一城の主だった右近が、そこまでして守りたいものに価値を見出すのは難しい。右近としては当たり前のことをしたまでなのだろうが、こんな世の中だ。自分の家を守るのに誰もが細心の注意を払っているというのに、彼だけがどこか別の世界に生きているような気がしてならない。
そしてそんな彼の話を熱心に聞く忠三郎の姿が、与一郎の神経を少しだけ尖らせた。
忠三郎は右近に想いを寄せている。どうやらまだそのことは、与一郎しか知らないようだ。彼が暗澹たる面持ちで与一郎に初めて相談してきてもう三年ほどになる。
以来当人に想いを告げることもできず、先ほどのようにちょっとしたことで動揺したりするのだ。
右近が鈍いのか忠三郎が想いを隠すことがうまいのか、いや前者だろうが…幸か不幸か右近はそれらのことに全く気がついていないようだ。相談に来るたびに与一郎は諦めろと言って、忠三郎も一度はその場で諦めると言うのだが、やはり無理だとまた顔を出すのだ。このやり取りを何度繰り返したか知れない。与一郎はそのたびに機嫌を損ねて、話半ばでとっとと追い返すこともままあった。
忠三郎は何故与一郎が怒るのか、その本当の理由を知らない。彼の想いも込みで、すべて与一郎の持つ秘密である。
右近が案内したのは、陣所の中に元々あったのだろうか、けして豪華とは言えない質素な家屋だった。簡易的な礼拝堂としても使っているのだという。簡素で小さいが、戦の最中だというのに掃除が行き届いているし、外装はともかく内装は整っていた。右近の潔癖な面を二人ともよく知っているから、顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
奥の方の土間では何か作っているのであろうか、それまで嗅いだ事のない匂いがした。
「是非お二人にと思って用意させていただきました。二人とも気を張り詰めているでしょうから」
案内し、二人を手頃なところに座らせた右近はどこかそわそわした様子だった。
「お話にあった珍しいもの、とは食べ物ですか?」
忠三郎が嬉しそうに尋ねると右近は首を縦に振った。彼の事だ、南蛮ものの珍しい食材でも用意したのだろうか。どうやら何かを焼いているようだがまったく見当がつかない。
料理が出来上がるその間も三人で他愛もない近況などを報告しあった。忠三郎は数年前の禁教令で形だけは棄教したが、密かに国内に礼拝堂を作っているらしい。
右近も右近で、金沢で人目に触れぬよう配慮はしながらだが、布教を続けているそうだ。前田家もどうやら黙認しているらしい。
耶蘇教についてこの二人が話し出すと、与一郎は少し胸が苦しい思いをする。
最近また妻が息子たちを与一郎の知らないところで独自に洗礼させようとしていたことがわかり、少しだけ口論になった。自分だけならともかく、まだ先もわからぬ子どもたちを祈りの道へ引きずり込むのは与一郎の思うところではなかったからだ。それ以来妻とは口も聞いていないし、全て侍女越しに会話していると言っても過言ではない。侍女連中が毎回青ざめた表情で妻からの言葉を伝えに来るのは、与一郎としてもあまり気持ちのいいものではなかった。
もちろん、教えをまったく理解していないわけではない。それはここにいる二人の友人からも察するには余りあるだろう。しかし、与一郎はどうしてもこの生き急ぎがちな教えに全て頷くわけにはいかなかった。
そんなことでしばらく黙っていた与一郎に気を遣ったのか、忠三郎が与一郎の肩を叩いた。
「どうした、気分が悪いのか?」
「いえ…ちょっと考え事を」
「大丈夫ですか?」
右近が顔を覗き込む。気を許した仲とはいえ少し距離が近いのが気になる。それに比例するように忠三郎の表情が少し曇ったのがあまりにもわかりやすすぎて、ふと笑ってしまった。
「二人とも大袈裟ですよ。ところで高山殿、本当に何を焼いているんです?」
与一郎の問いに、右近は答えなかった。
いつもは与一郎が一つ物を言えば三つも四つも返してくるような彼が、珍しく笑って誤魔化すので、愈々何を企んでるのかわからなくなる。こういったときに右近が何の不備もないよう常人のそれよりも細やかに対応してくるのは知っていたので、信頼はしていたが、妙な不気味さだけは拭いきれなかった。
しばらくすると側仕えの者が右近に耳打ちをした。どうやら準備ができたとのことだったらしい。ここに持ってくるよう右近が指示したのを見て、今一度与一郎は忠三郎と目を見合わせるのだった。
運ばれてきた料理は与一郎の予想を裏切り、大方は見慣れたものばかりであった。ただ、中央に据えられた何かを焼いて簡単に味を付けたものであろう獣の肉と思われるものだけが何か判別はつかなかった。丁寧に一口大に切られている。先ほどの匂いの元はこれであろうと一目でわかった。
首をひねり忠三郎と目を見合わせる。忠三郎も同じ思いだったようだ。
「高山殿、これは一体…?」
「まあ、まずは食べてみてください。美味しいですよ?」
依然右近は何かを勿体ぶっている。初めに手を伸ばしたのは忠三郎であった。躊躇いを飲み込んだのであろう。やはりこの男は長生きはできない、と与一郎はぼんやり思った。
「……」
しばらく黙って食べていた忠三郎だったが、ぱっと顔色が明るくなった。美味いのだろうか。真顔のまま右近に向き直る。
「高山殿、教えてください。これは本当に何の肉なんですか?」
「お口に合いましたか」
「正直な話、見た目はただただ茶色いので、味の予想がつかなかったのですが…ここまで美味いものとは思いませんでした、なんと言いますか…鳥の肉よりも食べやすいです」
忠三郎に促され与一郎も口に運ぶ。少し味が濃いと思ったが、それは最初だけであった。嫌みのない濃厚な旨味が口の中に広がる。確かに忠三郎の言った通り見た目よりも食べやすかった。
右近がふ、と笑った。
「それは、牛の肉なんですよ」
うし、と二人して馬鹿のように繰り返してしまった。肉と右近の顔を交互に見て、忠三郎が呟くように言葉を吐く。
「牛…は、食べられるんですか」
「今そうして食べてらっしゃるではありませんか」
「いや、まあ、その…それはそうですが…」
「南蛮では牛の肉を食べるのは珍しくないそうです。昔伴天連からどのように食べるのかは聞いていたので、当家ではこうしてたまに牛の肉を食べるんですよ」
精もつくので丁度よいでしょう、と右近は笑った。確かに血の味が濃いのか、滋養強壮にもよさそうである。子どものころから何かと病気を患ってきた与一郎にはちょうど良いのかもしれない。まさかここにきて牛を食わされるとは思わなかったが、確かによい刺激にはなった。
話によると仕上げだけは家臣にさせ、味の調整などすべて右近が手ずから行ったのだという。
穏やかに笑う右近の知識量にも感服したし、もてなしとはこういうことかとも考えさせられる夜であった。
そのうちに酒も出て、静かだが穏やかに宵を迎えた。この戦いの後の話も少しだけだが出て、いくつか与一郎の知らない噂話なども耳にした。
先ほど食べた肉の話、南蛮の話、忠三郎がこれまで聞いた武辺談で彼が気に入ったものなど、話は尽きることなくあっという間に夜が更けていく。これから帰るには遠いので泊まるようにと右近に促され、それに応じるとそれぞれに簡易的だが十分な宿泊場を用意された。
与一郎にしては珍しく、床に就くとすぐに眠りの波に呑まれていった。
朝、やはり与一郎には珍しく目覚めがよかった。戦とはいえ少し気持ちを張りつめすぎていたのだろうか、頭が軽くなった気がした。おおよそ寝起きは頭が痛く、虫の居所が悪いものなのだが、特にそういった猩々も感情もない。
顔を洗って身繕いをしているとちょうど右近から使いの者がやってきていて、是非朝食も共にしたいといってきた。快く承諾すると柄になく機嫌よく外に出た。途中で忠三郎が眠そうに出てきたのを見て、からかったりしてまた道を進む。
朝の風が心地よい、今日もおそらく快晴だ。いつもはその強い陽射しに負けて忌々しく見上げる日の光も、今日に関してはいっそ親しげである。
昨日訪れた家屋の戸口に立つと、そこには右近がいた。彼は二人に背を向ける状態で、小ぶりな十字の像を前に跪いているようであった。
それに声をかけようと踏み出した与一郎の足は、その瞬間凍りついたように動けなくなった。
…祈る背中。
彼にとっては当たり前のことなのだろう。いや、「彼ら」にとっては当たり前のことなのだろう。日々こうして朝を迎えたことを、感謝し祈るのだろう。よく知っている。
そう、与一郎はよく知っていた。この背中を。
その後ろ姿は、妻に似ていた。
とてつもない執念と、どこか排他的な、誰をも寄せ付けぬ孤独さ。それはまさしくあの妻の持つ気質だった。手に入れようと手を伸ばし、捉えたと思っていてもすり抜けてしまう妻。
冷や水を全身に浴びたようであった。
今まで妻とこの男が似ているとなんて思っていたことはなかった。同じものを信じているからだろうか。同じものを信じると人間は似てしまうのだろうか。
そうであるとしたら。与一郎は目で隣の忠三郎を見る。彼は彼で右近の祈る後ろ姿に声が出ないようであった。
そのまなざしが、単なる憧れや敬意だけではないことは痛いほど知っている。それは与一郎だけが知っている秘め事であるはずである。
彼までが与一郎の手から零れ落ちてしまうことが、もしあるとしたら。
与一郎はそれを理解した途端、思わず笑いが止まらなくなった。
愉快なわけでも、からかいを含んだものでない。これは自分への笑いだ。滑稽な自分への、何より自分への。これは何一つ手に入れられない自分への憐れみ、信じることができない自分への嘲り。
そして得体のしれない悪人から誰も守れない自分への軽蔑だった。
こうして、三人の長い数日間が始まった。
忠三郎はここに至るまでに死すら覚悟してこの地に赴いた。先の九州での戦いを踏まえて、これがこの国で起きる最後の戦いかもしれないとさえ思っていたからだ。
しかし実際、ここで起きたことと言えば、小規模な小競り合いの連続で、大きな目で言えば膠着状態といってよかった。
進軍途中での夜襲もあったが、事の大きさの割には当の忠三郎はかすり傷程度で、落胆と言ってしまうとそこで傷ついた者たちに申し訳はないのだが、そのような気持ちがなくはなかった。
和議に向けて協定が続いているようだが、この先の事など誰もわからない。無用な戦いは避けるべきだが、一方ではもっと大きな戦いを望んでいる自分もいた。このままでは死に場所を喪ってしまうかもしれないという焦りのようなものもあったのかもしれない。
別に死に急いでいるわけでは決してない。このまますべて中途半端なままで死んでしまおうなどということは、考えるのも愚かなことだ。ただ、このまま先の未来という不可思議なものを見据えたときに、どうしても不安になる自分と、それを叱責する自分との板挟みになってしまう。
そんな最中、忠三郎が密かに想いを寄せる人から使いがやってきて、是非と陣所に招かれた。本当ならば断わるところだっただろうが、これから先のことを思ったら会わずにはいられなかった。
もしここが忠三郎の死に場所ならば、会えという天の導きなのかもしれないという期待のようなものを抱いて。
忠三郎は焦ることしかできなかった。
与一郎が右近を怒らせてしまったのだ。それも右近の怒りというのはこれまで見たことのないようなもので、だというのに与一郎は悪びれもせず何事もなかったように宿所に帰ってしまった。与一郎の考えがわからないことは今に始まったことではない。ないが、今回ばかりは本当に訳が分からなかった。
しかし現実はそんなことを知らないという忠三郎のことなど放ったらかしで、まだ右近の怒りは収まっていないようだ。
普段ならばこの程度で狼狽える忠三郎ではない。周りを見て場合によっては右近や与一郎の立場の人間をその場でたしなめることもできただろう。しかし相手は右近だ。そして与一郎だ。咄嗟に言葉を選んでいる間にことが勝手に進んでしまったのだ。
昨日までの和やかな空気を思い出して忠三郎はため息をつく。こんなはずではなかったのだ。
与一郎に腹が立つのは当然のことだが、右近にも疑念が湧いた。疑念というより好奇心と呼んだ方がいいだろうか。何故彼はあそこまで感情をあらわにしたのだろう。
右近のその見た目とは裏腹な心の情熱さは、もちろん忠三郎も知っているものだ。彼の中にある燃えるような信念は、誰にも打ち崩せるものではない。前田家に身を寄せるまでの数年間でそれは忠三郎だけではなく、諸侯の間でもその一種執念にさえ見える心持を察することはできただろう。
そうだったとしても、今日の右近は異常としか言いようがなかった。何が彼の心情を逆なでしたのだろう。確かにあの場で与一郎が笑い出したのも不自然だ。だが、それで怒るほど右近の懐は狭いわけではなかったように思う。
それに与一郎は何故笑ったのだ。それも嘲笑うように。右近を、そして忠三郎を蔑むように。
いや…まるで自分に心当たりがなかったかと言われると、それも違う。右近にただならぬ感情を抱いていることを知っているのはこの世に自分を除けば与一郎ひとりだ。もしかしたら、それも関係しているのかもしれない。いやむしろ、それが原因なのではないだろうか。そう思うと、与一郎が笑った瞬間から怖くなった。その瞬間縛り付けられたように凍りついてしまった原因はそこにある。
もしも与一郎が右近を前に、真実をぶちまけてしまったら?もしも右近に、すべてが露見してしまったら…?考えるだけで頭が痛くなる。そんなことが起きたら、もう二度と忠三郎は忠三郎として生きていくのは困難になる。なんて大袈裟だと笑われるかもしれない。しかし忠三郎にとっては、それほどの事態なのだ。けして知られてはならないことなのだ。けっして!
今思えば、何故与一郎に打ち明けてしまったのかとも思い始める。誰にも言わなければよかったのだ。与一郎も人間だ。心のある、人間だ。それも、その態度でどうしても忘れがちになるが彼は忠三郎より年下なのだ。彼自身だって抱えなければならないものは少なくないだろう。負担をかけてしまったことは申し訳ないのだが、彼に告げてしまった以上、どうしても脳裏に最悪の結果がよぎるのだ。
何度か何事もなかったように自陣に戻ることも考えた。
ただ、このままなんの解決もしないまま逃げ帰るのは忠三郎の性格が許さなかった。
それは昼になっても変わらなかった。いや、もはやこれは帰る時機を完全に逸していたのかもしれない。時間の進みがやけに早く感じる。放っておくと夜になりまた日が昇ってしまう。そうなればますます解決から遠ざかりそうな気がした。
ひとまず、与一郎の陣を訪ねようと腰を上げたのは、丁度太陽が真上から少しずつ傾き始めた頃であった。
与一郎を訪ねると、側仕えの青年が困惑の表情を隠しもせず、彼の主人は体の調子がすぐれないという。
そうかと咄嗟に言葉が出たのだが、しかしここで引き返すわけにもいかない。普段ならば絶対にしないが今は緊急事態なのだ。すまんと彼を押しのけるようにして無理やり中に押し入った。傍からは賊か何かに見えたと思うがそんなことを気にしている場合ではなかった。
与一郎の顔色は存外に良いようだった。一瞬本当に体のどこかが悪いのではないかと心配していたのだが、その顔を見たらすべてが吹っ飛んだ。
制止の声を振り切り無礼など知ったことかと言わんばかりにずかずかと近付くと、与一郎はわざとらしく驚いたような顔をしていた。
「おや、どうなさったのですか」
「どうしたもこうしたもない、お前はいったい何を考えている」
「なにと言われても…どうも胸の調子が良くないようです」
与一郎はそう言うと細く長い指で左胸を抑えた。まるで噛み合わない会話に苛立ちが募る。何を考えているんだと叫びたくなったが、そうもしていられない。今は一刻一刻が惜しい。早く右近のもとに与一郎を連れて行き、詫びて話を聞かなければ。これしか道はないと思っていた。
だというのに、与一郎は子供のような言い訳をしてくる。思わずこちらも子供のように与一郎に掴み掛かりそうになるのをぐっとこらえ、その分声を幾分荒げた。
「わかりやすい嘘はやめろ。俺はそういうことが一番嫌いだ」
知ってるだろう、と睨みつけるが与一郎はまるで悪びれもしないようだった。あまりにも普通にしているので、おかしいのは自分なのかと錯覚しそうだ。
しかし、一方で与一郎が忠三郎に何かを隠していることだけは察しがつく。それが何なのかはまるで見当がつかないが、きっと忠三郎にとって嫌なものに相違いない。きっとそうに決まっている。
「あの方を怒らせようと思っただけですよ」
与一郎がふっと笑うように呟いた。
意味がわからずおうむ返しのように聞き返してしまった。
「怒らせようと?」
「それで右近殿とふたりになれたでしょう?」
当たり前のように言ってきて、ばか、と思わず声を上げるところだった。すぐそばに彼の配下の者たちや下働きの者どもだっているのだ。誰からどうやって広がるかなんてわかったものではない。
「…あれからまだ会っていない。お前を追いかけたが諦めた…それに、俺がどんな顔をしてあの方に会えばいいというんだ?」
できるだけ声を殺しながら言うと、与一郎は少し目を見張っていた。今度は本当に驚いたようだった。
何故彼が驚いたかはわからないが、今はそんなことはどうでもいい。それよりも与一郎が明らかに嘘をついているのが気に食わなかった。
「二度も言わせるな、俺はそういう嘘が嫌いだ。大嫌いだ」
「嘘と言われても、可笑しかったから笑ったにすぎませんよ。わたしにとっては」
与一郎の唇がくっと吊り上る。見た目だけは本当にいい男だ。憎らしいほどに整った見た目からとんでもない言動が飛び出すことは最早日常茶飯事で、忠三郎は振り回されてばかりである。
「可笑しい?何が可笑しいんだ、俺からしたらお前の方がよっぽど可笑しいぞ」
「今はもっと可笑しいですがね」
「…俺のことか」
唇を噛むと、与一郎は意味ありげに笑い、
「さあ、どうでしょう」
そういって目を臥せた。
その態度で忠三郎は確信した。与一郎が嘲笑った相手は右近でなく忠三郎だ。間違いない。やはり与一郎に話すのは間違いであったのだ。
これ以上与一郎と話していても仕方がない。ここにいたところで問題は何一つ解決しないのだ。
「…あとで改めて迎えに来る。それまで支度して待っていろ」
そう言い置いて、忠三郎は行ってしまった。
…後で迎えに来る、それはきっと右近に謝れということなのだろう。引きずってでも連れて行くに違いない。
だが謝るつもりは毛頭ない。これは与一郎の問題で右近は何も関係ないのだから。右近が見当違いに感情をむき出しにしたにすぎない。謝る筋などどこにもありはしない。
与一郎は右近を、ましてや忠三郎を嘲笑ったわけではない。非力な自分を笑ったのに過ぎない。惚れた相手に何もできない、それどころか茶番のようなやりとりを繰り返している自分を笑ったのだ。
ただ、忠三郎が–本人にその気がないのは与一郎が一番わかっている–迎えに来る、という言葉だけは素直に嬉しく思ってしまう与一郎がいた。
忠三郎は与一郎を本当に引きずるように右近の陣まで連れて行った。その姿はなかなか奇怪だっただろう。その理由は当人たちしか知らないことだった。
「そんなことをしなくても自分で歩けます」
言っては見たが、忠三郎が与一郎を離す気配は微塵も感じられない。むしろ力はますます強くなっているようにすら感じられる。
この行動は与一郎を少なからず動揺させた。当然だが、まさかそんなことをしてくるとは夢にも思わなかったからだ。…非常に、近い。もしここで与一郎が足を踏み外したふりをすれば、きっと忠三郎は抱きとめてくれるだろう。なにも知らずに、何の気はなしに。それが当然だという顔をするだろう。もしかしたら、少しは心配してくれるかもしれない。
しかしそれをするだけの可愛げも、ある種の狡猾な素直さも、与一郎は持ち合わせていない。思いつくだけ狡猾なんだろうと思うが、そのようなことをしたところでなんの意味もないと考えが先回りするのだ。いつもそうだ。
与一郎がそうやってもどかしい思いをしているとはつゆにも思わない忠三郎は、与一郎をつかむ手を一層強くした。
「離したらお前はまた帰るだろう。だから離さん」
「帰りませんよ。子どもじゃあるまいし」
「どうだかな」
忠三郎はそれからずっと与一郎をつかんで離さなかったし、与一郎もされるがままにならざるを得なかった。
これが惚れた弱みか、と知られぬようにため息をつくくらいしかできなかった。
道中で起きたことはそれくらいだった。しかし十分すぎるほどの珍事はこれだけでは終わらなかった。
…主人は体の具合が悪いので、誰とも会うことが叶いません。
そう右近の側付きの少年に言われてしまった。与一郎のときとまったく同じ文句で、隣にいた与一郎が面白そうに下を向く。また笑うつもりだなと小突こうとすると、すっと避けて
「それではまた日を改めましょう。よろしくお伝え願いたい」
そう言ってさっさときびすを返してしまった。
忠三郎はそれに驚いて与一郎と少年とを何度か見たが、与一郎のときのように無理やり押し入るわけにもいかないので、仕方がなく与一郎に倣うことにした。もう夕暮れが差し迫っている。日が長くなって久しいから、どれだけ時間がたったことだろう。
蒸し暑かった昼間がなかったように、空は今にも夜の準備を始めている。そこにあるのは生ぬるい風だけだった。与一郎に追いつき、しばらくは互いに無言だった。与一郎が何を考えているのかはわからなかったが、ふと
「どうせ私と同じです、仮病でしょう」
突然こんなことを言い出したので、忠三郎は驚きとともにその真顔を思い切り張りくなったが諦めた。手を出した方が負けなことは十分わかっている。
その代りに与一郎をにらんだ。そんなことをしても与一郎はまったく意に介さないだろうということは知っている。それでもにらんだ。
「認めたな、お前……しかしもしものこともある、心配だ…そもそもあんなに感情を露にされたことを見るのは初めてだ。やはりどこかお悪いのではないだろうか…それで気持ちの制御ができなくなったのでは…」
考え出したらきりがなかった。本当に体の具合が悪くしているのではないだろうか。このまま会うことができず、二度と会えなくなってしまったら…?そう思わないわけではなかった。不安だ。せめて与一郎が笑ったときに体を張ってでも与一郎を止めていれば、違う未来があったのではないか。頭の中でそのような考えがずっとめぐっていた。
忠三郎がぶつぶつと漏らす言葉に、それは考えすぎですよ、と与一郎がため息をつく。どこか機嫌が悪そうだ。
「私の時は何一つ心配してくれなかったのに、右近殿の時は違うんですね」
そして嫌味っぽく口をとがらせてきた。子供のようなことをするなとは思ったが言うのはやめた。言ってやめる与一郎ではない。
当たり前だろう、と眉間に皺を作る。
「お前とは違うんだ、お前とは。……お前の事もまったく心配してなかったわけではない、そんな顔をするな」
忠三郎の真似をするように与一郎も眉間の皺を深くしてきたので、仕方なく取り繕う。本当に仕方なくだ。
与一郎はそれで機嫌をよくしたのか、ならいいんですけど、とまた何事もなかったように歩き始めた。
本当にわからない。この男が何を考えているのか全く分からない。一種不気味にすら思う。それでも共に歩みを進めるしかなかった。なんだかんだ言って一番話易いのは事実だ。向こうもきっと同じだ。だからきっとこうして軽口をたたいているのだろう、そうに違いないと、無理に自分を納得させた。
「それで、これからどうするんです」
与一郎が振り返る。夕焼けに照らされて、与一郎が気だるげな顔をしているのがよく見えた。あまり意識したことはなかったが、嫌味になるほどいい男だ。与一郎という男は。
忠三郎はもちろん言うまでもないと鼻を鳴らす。
「明日もう一度訪ねよう、とにかく会って話がしたい。きっと高山殿は誤解されているのだ。話せばきっとわかっていただける。それしかあるまい」
呆れたように与一郎が笑う。
「本当に必死ですね。あんなもの怒らせるに任せておけばいいんですよ」
「あんなものとはなんだ、そもそもお前が怒らせたんだろうが。お前が」
そうですかねえと与一郎が嘯く。そうだろうと言おうとしたが、それよりも前に与一郎が口を開いた。
「ところで少し寄ってはいきませんか。茶でも…いえ、今の忠三殿には酒の方がいいですね」
「……少しだぞ」
月が愈々昇ってきた。もう夜の帳はそこまで差し迫っている。
「しかしどうして高山殿はあれほどお怒りになったのだろう」
「私が笑ったのを勘違いされたんでしょう」
何事もなかったように酒を飲みそんなことを言うので忘れていたが、そもそもの疑問が再び浮かび上がってきた。
「お前はどうして笑ったんだ。勘違いということは、何か他に意図があったんじゃないのか」
「…さあ、どうしてでしょうね。飛騨殿が考えているほどのことではないと思いますがね」
いいから教えろ、と言ってもそれ以降与一郎は話そうとしなかった。
その代わりと言わんばかりに昨日の昼間に話したような他愛もない話ばかりしてくるので、忠三郎もあまり強くは言えずそれに付き合うほかはなかった。今日ほど自分の生来の話し隙というものが悪癖だと思ったことはなかった。与一郎はわかっていて話をそらしたのだ。わかっていながら乗ってしまう自分が、どこか情けない。
もちろん、嫌々付き合っていたわけではないが、話している最中もどこか心の奥でずっと引っかかっていたのは事実で、しかしそれを再び口に出す隙も余裕も与一郎が与えなかったというだけだ。年下の与一郎に手玉に取られているような気がして気に入らないが、仕方がなかった。
右近が怒った理由、与一郎が笑った理由。
忠三郎が本当のことに気がつく日は来るのだろうか。いつか時間が経てば、ああこれはそう言うことだったのだなと合点が行く日が来るのであろうか。
なんだか一生そんな日は来ない気がするし、明日にも気が付いているような気もする。なんだかとても曖昧だ。
「…殿、飛騨殿」
「……すまん、なんだ」
「聞いてませんでしたね。別にたいした話ではありませんよ。あなたが右近殿をどうすれば諦めるかという話をしていたのですがね」
それを聞いて口の中の酒を思い切り噴いてしまった。何を言っているんだという気持ちと、何を聞き逃していたんだと言う気持ちがそうさせたとしか言いようがない。
ああ、ああ、と与一郎がわざと厭そうな顔をした。
「人の話も聞かないばかりかお酒を噴いてお召し物を汚すなんて、飛騨殿は本当に子供のような人ですね」
「お前な、お前なぁ…!」
もうお前としか言葉が出てこなかった。言われた通りではあるのだが、納得はいかない。
いや言われたとおりであるからこそ、腑に落ちないのだ。そもそも誰のせいでこんなことに…と言いかけてやめる。すべて自分の所為かもしれないという疑念が、忠三郎を一瞬だけ臆病にさせた。
「話を聞いていなかったことについては謝る。だがお前、なんだ、その…」
言葉がどうしても濁るのを隠しきれないのを、与一郎がふふんと笑う。
「なんですか、前は諦めると言っていたではないですか、泣きながら」
「泣いてはいない」
「泣いてましたよ」
そこにあるのはいつもの応酬だった。
内容はともかく、与一郎との会話は忠三郎を安心させるのに十分なものだった。結局与一郎の意図はわからなかったが、それもきっと互いに誤解しているのだろう、と、酒の力もあったのだろうが楽観的に捉えるに至ってしまった。
そして忠三郎は与一郎に、確かに明日になったら右近に謝りに行こうと約束したのだった。なんだか全てがうまくいったような、すでに物事全てが解決したような気さえした。
しかし、その翌日もさらに翌日も、右近は二人に会おうとはしなかった。
右近が二人と顔を合わせたのは、それから七日も後の話になる。
欲しいものなんて何もない、あえて言うのならば主なる神による赦しが欲しい。そういう人生を送ってきたつもりだった。
その思いは現実になったかのように思えた。
周りは皆右近のことを信仰と生きながら心中した男のような顔で見るようになった。それはとても誇らしい、はずであった。
それは乖離と呼ぶべきであろうか。
実際に右近が思っていることと、右近が思う自分が思うことに明らかに違いが出てきていることに、気がついたのはいつのことだろう。
もちろん右近は自分の生きる道に悔いなんて持っていない。何よりこの生き方は神が賜うた道だ。全知全能である神が、敬愛し親しむべき神が右近に授けたたった一つの道だ。それを否定するつもりは毛頭ない。
では何故だろうか。あの時出た言葉は。なんだというのだろう…。
与一郎が笑ったとき、右近はとうとうこの日が来たのだと確かに悟った。
ずっと隠し通してきた矛盾。それをこの自分より若くそして聡明な与一郎が突いてきたのだと真剣に思った。だから、とっさに出た言葉は今まで生きてきた中で一番取り消したいものになった。
胸が苦しい。頭に血が上ったのか吐き気と眩暈がした。目の前の景色が音を立てるように歪んだところで、小姓が慌てて飛びついてきた。倒れそうなところをすんでのところで支えたのだとその時は気がつかず、何を、と咄嗟に眉間に皺を寄せたのだ。
気がつくと忠三郎も当の与一郎もいなかった。どうやら忠三郎は与一郎を追いかけて行ったらしい。助かった。この状態で彼と二人にされても困るところだった。
目の前の状況に絶望し、息を吐き少し休むと口にすると、もう承知の上だったのであろう手早く床を用意された。身を横にするが眠れる気配はなかった。代わりとばかりに心臓が早鐘を打つ。背中から冷たい汗が出ているのがわかって厭な気持ちになったが、休むと言った手前、大人しくしていることにした。
太陽が昇っていくのを感じる。
ああ、この歳にもなってなんて大人気ないことをしたのだろうと、じわじわと後悔の芽があちこちに吹き出してくる。
一方で、信ずるものとして当然のことをしたのだともう一人の右近が言う。彼は今の自分によく似ていたがどこか冷酷な顔をしていた。冬の夜空のような、凍てつくほどに冷たい澄んだ眼をしていた。獲物を見つけた禽のそれに似ていた。そしてその眼はこう言うのだ。信仰とはそう言うものだと。正しさとはそういうことだと。高々と、淀みなく、一片の迷いもなく。しかし右近が思う信仰は、もっと暖かなものであった。人がいなければ信仰が生まれないことなんて、とっくにわかっている。それすらわからず盲目に信ずることを馬鹿にはしないが、少なくとも右近はそうではない。信仰とは生活そのものを言うのだ。人の生活の暖かさにそれは常に付きまとうのだ。右近が信ずる教えだけではない。昔からあった信仰も、根はおそらく一緒なのだ。だから、諍いは絶えないのだ。いつか分かり合えるはずなんて夢物語はしない。生活そのものに信仰が根を張るのならば、信仰が違えば他の信仰は脅威にすらなり得る。仕方のないことだ。
気がつけば小さな声で聖歌を口ずさんでいた。若い頃からの悪癖の一つ。困った時に小さく唱えるその言葉は、穢れを知らない清らかな歌だ。そう、これは子供の頃からのささやかな癖。若い頃の………何があるわけではないが、昔の思い出を徒らに弄る。
思い出すのはかつて高槻で初めて盛大に行った復活祭のことだった。
煌びやかさと慎ましやかさが共存する世界で、自分は何を思っただろうか。今何故かそれだけが思い出せない。しかしそれを思い出したら、余計に今の自分の惨めさと恥ずかしさで眠れなくなりそうだった。
…忠三郎は、与一郎に追いついただろうか。ぼんやりと考える。きっと追いついただろう……彼はどうするだろうか。与一郎の非礼に怒るだろうか。
わかっている。忠三郎は自分のことに想いを寄せているのだ。
わかっている。右近もまた忠三郎に恋しているのだ。
わかっている。与一郎はそれに気がついているのだ。
だから笑った。わかっている。
わかっている。たったそれだけ、たったのそれだけが、ひどく怖かった。この世の終わりのようにも思えた。
この想いを、歪みきったこの淫らで罰されるべき感情を、もしも世の中に放ってしまったらそれこそ世界の終わりだ。少なくとも右近の中ではそうなのだ。
いや、与一郎はきっと忠三郎や他のものに吹聴するような真似はしないだろう。ああ見えて繊細な彼のことだ。彼を疑うわけではない。それくらいの仲なのだ。わかっている。
ならば何故、焦ってこんな真似をしてしまったのか。
このような感情を持ってはいけないという矛盾か、それともまた違うものか。
違う、与一郎は悪くない。悪いのはすべて右近なのだ。
ただ、まるで疑問がなかったかと言われれば嘘になる。
何よりも捨ててはならないのは信仰だ。それは揺るがないが、もちろんそれだけでは立ち行かないことがわからない右近ではない。先述の通りだが…これまでの道がそう言っている。今までの歩みは信仰によって固められたものだと周りはいうが、そうだろうか。後悔ばかりだ。いうならば尖った石が敷き詰められた道の上を素足で歩くような感覚の日々だった。
もう、なにをどれだけ捨ててもその道が開けているような気がしないのだ。
もう捨てられるものは家族と友しかいない。それすら捨てられるだろうか。それすら捨てて手に入れた先に何があるというんだろうか。
そして何よりこの想いは、今更この身を焦がし続ける淡すぎて生々しい欲望はなんだというのだ。これを捨てた先にある未来とやらは、陽の光に包まれたものだというのだろうか。否定して、見ないふりをして、そしてそっと離れた先にあるものは、いったいなんだというのだ。もう一人の右近が言う。それこそが信仰の道だと。何もかも打ち捨てすてられる人間こそが善い人間なのだ。欲望などとは無縁な、清廉潔白な、罪の匂いのしない高山右近という人間を作り出すのだ。そして導くのだ。哀れな衆生を。導くのだ。その中にはもちろん忠三郎だって入っている。当然だ。彼は盟友だ。大切な彼をぱらいそに送り幸せになるためにはもうそれしか道は残っていないのだと。
……本当にそうだろうか。ふっと思い出した。高槻にいた頃、領民…という言葉は、右近はあまり好きではなかった。彼らは右近に従ってくれたが、右近にとって彼らは家族であり、同志であった。その彼らが、けして裕福とは言えない彼らこそ、信仰の前では気高く誇りに満ち溢れていた。きっとそれは自分なんかよりも、もっと。
記憶を触り、そっと抱きしめる。暖かいはずなのに冷たい。もうとっくに冷え切っているはずなのに、ほの暖かい。涙が溢れていることに気がついたのはいつだったろう。
その夜からしばらく右近は床から出られなかった。頭痛と吐き気が、酷くはないのだが波のように襲ってきたのだ。原因はわかっている。これは罰だ。保身に走った自分への。
自分への吐き気だ。自分への頭痛だ。
夜が来て朝が来て、やっと立って動けるようになった。それでも誰にも会う気になれず、右近は陣中だというのにずっと簡易的に作った祭壇の前にいた。神との対話だなんて烏滸がましいことは言わないが、右近は十字架を握りしめ、祈りながら考えそして問うていた。
しかし問いに答えは返ってこなかった。悪い人間に神は答えない。わかっている。右近は周りが思うような人間でないことくらい。なにより、忠三郎が思っているような人間ではないことくらい…悪い人間なのだ。
愛してしまったから。大切な盟友を、よこしまな目で見てしまったから。
そして…いつ気が付いたかというと、あまり断言はできないのだが、とにかく気が付いたのだ。忠三郎が右近を見つめるその視線に。
友人だとか親友だとか、言葉では言い表せないそんな想いを乗せた目は、なによりも右近の深く遠い場所を貫いて、絡みとっては離さない。
そしてその淵に立っていることに気が付いて、言葉を失ったのだ。男女ならば。いや、男女でも許されないのではないだろうか。この淵に立つことは。
その奥には何かがうごめいていた。右近は思う。これが地獄だと。この先にあるのはきっと地獄に違いないと。右近は怯えたし、尻込みもした。奥には否定も肯定もなくただ真実が死体のように罪の匂いをさせて転がっていた。それを拾い上げるなんてとんでもないと周りの人間は言うだろう。神ですら。だが、目をそらすことも、手を握りしめ下すことも、何も見なかったことにすることも右近にはできなかった。
数多くの勇気が必要だった。たいていの勇気は実行に移す直前にはじけ飛んでしまう。そして言うのだ…やめておけと。それに近づいてはならないと。
ただ神のために仕えるだけだった右近に、最後に残されていたのは、それでも受け入れようとする小さすぎる勇気だった。その切っ先で、右近は自らを縛っていた何かを切り裂いた。
何度目かのある朝、右近はとうとう駆け寄り手を伸ばし、それを掴み取った。嫌な臭いなんてしなかったし汚くもなかった。それはひとの形をして温かさすら感じた。罪ではなかった。きっと、罪ではなかった。欲しいものだった。何もいらないと思っていた右近が最後に欲しいと思ったものだった。
「それだけ惚れているのならば直接言ってしまえばよろしいのに」
与一郎の言葉に酒を吹きこぼしそうになりながら、忠三郎はその憎たらしいほど整った顔を凝視した。
「お前、俺が言っていたことを聞いていたか?一から十までちゃんと聞いていたか?こう、大事な…五つめあたりとかそのあたりを聞き飛ばしてやいないか?」
「わざわざこの私が一から十まで聞いてやったから言っているんですよ」
姿勢一つ崩さずに、何も間違ったことは言っていないとばかりにしている与一郎が忠三郎より年下だなんてまるで思えない。生みの親に説教を食らっている時よりも変な緊張感を覚える。そもそもどうして怒られなければならないのだ。発端は間違いなく与一郎だというのに。
「だいたい、直接言うと言うけれどなぁ」
「言うんですよ、その思いをそっくりそのまま。あなたならできるでしょう?歴戦を戦い抜いてきた猛者なんでしょうあなたは。だいたい私からしてみたらあんな人形のような男、そう難しい案件とは思いませんが」
次から次から出てくる言葉の全てに棘があり、忠三郎の顔面に刺さるようだ。いつものことではもちろんあるのだが、なんだか今日は必要以上に刺々しい。
機嫌が悪いようだ。わからなくはないのだが、それにしても言葉使いが荒い。何より話すときの目が、忠三郎をもってしても少しうすら寒さを感じるくらい冷たい。
「お前、お前な、いくら俺相手でも言っていいことと悪いことが」
「それはもう聞きました。…そうですね、でしたら、明日もう一度右近殿のところに行きましょう」
話はそれからです、と与一郎はどこかを見て言った。その目は忠三郎を見ていなかった。忠三郎にはわからない…この男の考えていることが。
「また体の具合が悪いとか何とか言われるに決まってる。だいたい本当にお前のせいで調子を崩していたらどうするというのだ」
「そんな男には見えませんがね」
与一郎は相変わらずこちらを見ていない。なんだかそれが腹立たしくてこちらもつい言葉が刺々しくなる。
「…お前とは違うのだ」
「私はこれでも病弱なのですよ」
「お前のそれは子どもの頃の話だろう?」
「さあどうでしょうね」
ふふ、と与一郎が笑う。その笑い方は与一郎の年には不相応な老獪なものだったので思わず眉間に皺が寄る。
お前に何がわかると言ってしまいたくなるがそれは言わないし言えない。与一郎は知っているから。この二人しか共有しえない秘密を。知っているから、忠三郎の右近への想いを。何度も何度も相談したしそのたびに諦めろと諭された。彼の言葉はいつも正しく輝く。それはわかっている。わかっていてもどうしても諦められないのだ。それを与一郎はいつも笑っていた。諦めの悪いお方と。その時の笑い方と今の笑い方があまりにも違いすぎて、つい相手が年下だということを忘れて頭に手をやってしまう。
「お前がたまにわからなくなる」
「そうでしょうか、私ほど分かりやすい人間もいませんよ」
「だいたいお前が…まあ、これは言っても答える気はなさそうだが」
「よくお分かりで」
くつくつと笑う与一郎の、その目がようやくこちらを見た。
老獪でいて無邪気な子供のような目をしている。心底面白いとでも言いたいのだろうか。この状態が面白いと思える与一郎がもはや不穏だ。
「わかった、明日朝にまた迎えに来る…お前は何をするつもりだ?」
「特に何もするつもりはありませんよ。ただ」
「ただ?」
「そろそろほとぼりが冷めてそうだなと思っただけです」
忠三郎が去った後、与一郎は一人夜空を眺めていた。
別に算段があるわけではない。右近という男ならばきっとあの言葉に後悔しただろう。何度も何度も自分を責めたはずだ。七日も経つのだ、怒りよりもそちらの方が強くなっているに違いない。
この関係を壊すつもりは毛頭ない。自分のためではない。もちろん右近のためでもない、なによりも大切なあの愚かな友人のため。
与一郎はただ、幼い頃のことを思い出していた。なにも知らず、忠三郎に連れられて街に出た思い出。喧騒に紛れ離れまいとその背中に触れたときの最初の感情は、今もまざまざと思い出せる。
この男のことが好きなのだろう。仄かな感覚が確信となったのは、そう遠くない未来でのこと。それからは言うまでもないが、まあ互いに大人になった。さらに右近と出会い忠三郎は驚くほど変わった。それは友人としては喜ばしいことなのかもしれない。だがもうきっと昔のように触れ合うことはなくなったのだ。なによりも大切な人ができたから。自分よりもずっと。それだけは、純粋に寂しい。
右近のことは好きだ。しかしなにも感じないわけではない。それなりに嫉妬もしている。どうして忠三郎のその道筋に立つ人間が自分ではなくあの男だったのだろうと思う。だがそれを表に出せるほど与一郎はもう若くもないし、いうほど老獪でもない。だからこそこの関係を崩すわけにはいかないのだ。この不器用な二人の関係を、観測するのは自分に科せられた罰だとすら感じる。守り、繋ぐ役目を果たしてこそ、二人の関係に自分という存在を思い知らせることでしかもう与一郎の嫉妬を払う方法はないのだ。
ちょうど良い頃合いを見計らって最低限の謝罪で済むならばそれに越したことはないだろう。それは決めていた。今日、忠三郎がやってくる前から。
雲ひとつない夜空に月と星とが並んでいた。あまりにも揃いすぎていて与一郎には面白くない。あの二人の関係のようだった。
それは昨日と同じように祭壇の前でひとり祈りをささげていた時だった。二人がやってきたと聞いて、右近はこれも神の道標だとすら思ったのだった。
今もまだ、受け入れているというと違う気もするけれど。
まだこの手に残っていると思える自分の本当の想いへの残滓を、拭うように手を払い、右近は立ち上がった。
「この度はとんだ失礼を」
与一郎のその言葉に一番驚いたのは右近ではなく忠三郎であった。彼は身を思い切り翻し、与一郎を凝視すると、言葉を発したいようだが舌がもつれているのか妙な裏声になっている。
「お前、お前どうした、どういうつもりだ」
「煩いですよ、人が謝ってる最中に」
「謝る、謝るだと」
そのやりとりはいつも通りだった。その経緯を考えればいつも通りではないのだが、少なくとも右近にとっては、なぜか安心するほどにいつも通りだった。
思わず笑ってしまう。ふふふ、と笑う右近に真っ先に反応したのも忠三郎だった。何かを期待しているその無邪気な目を、右近は今まで何よりも恐れていた。それにこたえられる人間ではないと。それは罪そのものだと。だが今はなぜだろう。その目線が、とても愛おしい。その想いに向き合うと決めたから、今はとても自然でいられる。
だから右近も素直に頭を下げ、非礼を詫びることができた。
「こちらこそ失礼なことを言ってしまいました。私としたことが恥ずかしい限りで…」
「いえいえ、大人気ないことをしてしまい面目無い」
忠三郎はそのやり取りをぽかんとして見ていたが、だんだん疑問が湧いてきたのだろう、なんだなんだと右近と与一郎を交互に見て言う。
「お、俺があれだけ気を揉んだのはなんだったんだ…」
「飛騨殿にもご心配をおかけしました。越中殿も私も、少し思い違いをしていたようです…それに」
そう笑って手を取る。忠三郎の顔がみるみる紅潮していく。ああ、こういう反応をしてしまうのか…ずっと恐れていた先の事実は、思ったよりもわかりやすかったし、右近が思うほど辛いものではなかった。それに、忠三郎の手の暖かさがなによりも物語っている。間違ってなんかいないと。罪でも罰でもないと。
「あ、あの、その」
動揺を隠せない忠三郎の手を包むように手を重ねる。勇気を出すのだ。その一歩を、踏み出すのだ。言ってしまいたい。なんて言葉を使おう。最後まで迷った。
「私の勘違いだったら恥ずかしいのですが、多分私も、飛騨殿と同じ想いのようですよ」
「…そ、それは…」
忠三郎が手を握り返した。ああ、やはり暖かい。
大丈夫だ、とわけもなく思った。きっと忠三郎となら、この先も進んでいける。右近はもう誰にも嘘をつかなくて良い。そうすら思った。
二人の様子を見かねたのだろうか。与一郎があからさまなため息とともに口を開く。
「二人して顔染めて何をやってるんですか…耶蘇の教えとやらはやはりわかりませんなぁ」
「お前、茶化すな」
忠三郎が飛び跳ねるように振り返る。多分だが、与一郎の存在を忘れていたのだろう。そういうところもきっと好きだ。
笑ってこう返す。
「むしろ残念ながら教義を破ることにはなりますが…」
「いいんじゃないですか、俺はどのみちどちらにも興味ありませんけど」
「越中殿には素質があると思うのですが」
「どっちの意味でですか、失礼なこと言いますね」
与一郎が眉根を寄せて睨むが、不思議と怖くはない。むしろ可愛らしさすら見て取れる。与一郎は全て知っていたのだろう。聡い彼のことだ。わからないはずがない。だが、それについて詫びるのは今は違う気がする。おどけてあえて生真面目に答える。
「もちろんこの教えについてですよ、そうですね、私が思うに越中殿は…」
「わかりましたわかりました、あとはお二人でよろしくやっといてください…俺は帰ります」
右近の言葉を遮って与一郎が立ち上がると、忠三郎はあからさまに動揺した様子で立ち上がろうとする。それでも手を離すことがなかったのが可笑しい。
「待て待て待て待て待て、与一郎、頼む、置いていかないでくれ、いま二人きりにされたら俺は今ここで過ちを犯しそうだ。いいのか、いや、よくない」
「いいじゃないですかそれで、右近殿も嫌がらないでしょうよ。お邪魔虫は退散しますよ」
「飛騨殿、過ちとはどういうことですか?」
「えっ、いや…」
「俺がここにきたのは右近殿に謝るためです。あんた達のじゃれあいを見るためじゃあないんですよ。要は済みました、では右近殿、また」
頭を下げ与一郎は踵を返し去っていった。その後ろ姿に、忠三郎はおい、と声をかけたが、振り返ることはなかった。その姿は、誰よりも孤高だったと右近は記憶している。
それから…特に何があったわけではない。戦が終わった後も三人や他のものを誘って茶の席を設けたり、花を愛でたり、交流そのものに変化はなかった。
だが確実に、忠三郎と二人で過ごす時間は長くなったと思う。
今夜右近は忠三郎に触れてみようと思う。もっと深く、もっと近く。それは過ちではなく、罪でもなく、罰でもなく。
そういうことは自分には関係ないと思っていた右近にとって、これは一種の賭けのようなものだった。
忠三郎は何と言うだろうか、どういう反応をしてくれるだろうか。この身に、もしあのしなやかな指が触れることがあるなら……右近は、どうすればいいだろう。
明日の朝、ふたりがどうなっているかはまだわからない。だがきっと、あの小田原での出来事を笑い話にすることができるのではないだろうか…そう願いながら、右近は忠三郎のもとに急ぐのであった。