誰でもない水面

「好い香りがする」
ふっと香ったその香りはどこかで知った香りな気もしたが、それがどこかは思い出せなかった。何故か安心感だけがふわふわと漂っている。利勝はすんすんと香りをたどり、それが宗矩から香っていることに気がついた。
「何か焚き込めているのか」
「いえ、特には……そんなに香りますか」
「失礼。何故か懐かしくて……気のせいのようだが」
そう言って目を伏せると、宗矩は笑う。
「咎めているわけではありません。むしろ流石、大炊殿はよくお気づきになられると感心したくらいで。きっと家の者が良かれと焚いたのでしょう。煙草の臭いを隠すためかもしれません……しかし、貴方があまりにも無防備に香りに寄ることは少し心配ですな」
そう言って利勝の手を取り笑うので、利勝は咄嗟にその手を払おうとした。
「別に無防備ではないし、こんなことをしてくるのは但馬殿しかおらん」
利勝の言葉に宗矩はワハハと笑う。宗矩には利勝がどう見えているのかがわからない。さては年端もいかない子供にでも見えているのではないだろうか。結局宗矩の手を利勝は払えなかったし、その武骨な指はむしろ利勝の指にすっと絡んできた。朗らかな笑いには似合わないその熱っぽい仕草は、利勝にするにはあまりにも艶やかなものだった。
別に自信がないわけではない。だが、自分の見た目を善いと思ったことなど一度もないし、好きになることも今後一切ない。自分はあくまでも与える側で、こんな風に与えられる側に回るとは思ってもいなかった。正直言って、怖いとすら思う。宗矩も、それを歓ぼうとする自分も。
昔の話だが、やっかまれて様々根も葉もないことを言われたり、時には暴力を振るわれたり……やった側は大して気にも留めてないだろうが、された側は覚えているというものだ。泥が沈殿した水のようで、たまにこうして揺れると、水面に泥が浮いてきてしまうような感覚がある。だから怖いのだ。知れてしまいそうで。宗矩が揺らすことで、土井が醜いと思っているものがすべて白日の下に晒されてしまうような気がするのだ。
「私の初恋は大炊殿なので」
「また、そうやっていい加減なことを……」
宗矩の言うことを鵜呑みにして喜べるほど、利勝は無邪気ではないのだ。その無邪気さは最初から持つことは許されなかったから。この手には疑いしか持っていないし、握りしめすぎてもう手から離れなくなった。でもそれでいいと思っている。それで生きていけるのだから。だが宗矩はそれではいけないという。そして何度も言うのだ。愛していると。
こんな関係になってからまだそうは経っていない。それにこうなったきっかけも大した理由ではない。宗矩に助けられたのだ。若くして出世した利勝には敵が多かったから、そこから宗矩に護衛を頼んでいる。護衛と言うには仰々しいが、実際助けられているので、彼のことは信頼している。謝礼を何度も渡そうとしたのだが宗矩はそれを固辞し、こう言った。
「好いている人を護るのは当然の事。ましてや礼の品など受け取れません」
「それでは困る。それでは私が利用しているようで居心地が悪いじゃないか」
「では、私と恋人になって頂けませぬか」
そんなふざけたことがあるかと、それまでの利勝ならそう思うだろう。いや、今も内心そう思っている。何が楽しくて自分などと恋仲になるというのだ。宗矩のことは、今のところ嫌いではない。だが、特別好きなのかと言われると難しい。
なんだか、好きだと思ってはいけない気がする。そう思うことが露見することで、とても嫌なことが起こる気すらするのだ。凝り固まった利勝の感情を、宗矩は否定することは一度もなかった。少しずつ体に触れ、言葉を尽くし、ただ利勝の言葉を待っている。きっと今もそうなのだと思う。
宗矩は利勝の指を柔らかく撫でながらこんな話をし始める。先ほどの香りは所在なさげに相変わらず漂っていた。
「本当に、私の初恋は大炊殿なのですけどね。貴方はとても酔うておりましたのでお忘れだとは思いますが」
利勝には思い出せない。昔、確かに心が荒むがまま、体の許容を越えて酒を飲んでいた記憶はある。どうやら宗矩はその時の話をしたいようだが……当然ながらまるで覚えていない。忘れるために呑んでいたのだから。
宗矩は利勝が曖昧な表情をしているのを、愛おし気に眺めていた。土井利勝に関わらず、今や要人となった徳川家を支える面々に関わる噂はとにかく多い。しかし彼の噂はおおよそたちの悪いものが多かったというか、純粋に趣味の悪いものだった。
彼自身の出生に関することなど、彼自身は知る由もない。当たり前だ。何人たりとも、生まれた時の記憶を持つものなどいない。けして口には出さないが、その心労は計り知れない。若いころはそれを晴らすため酒をよく飲んでいた。今も飲んではいるが、当時は宗矩から見ても無茶な飲み方をしていた。その場に居合わせたことがあるからよく知っている。
まだその頃は宗矩も若く、名もそこまで高くなかったから、あわよくば彼に取り入ろうということもできなくはなかった。だが、薄桃色に染まった利勝の頬は、まるでそんな宗矩の一瞬の稚拙な思いを見透かしているように宗矩の胸に押し付けられたのだ。熱を求めているのか、無防備に利勝は宗矩にしなだれかかって眠ってしまった。そのときに利勝は宗矩の心を確かに奪ったのだが、今に至るまで彼はそれに気が付いていないどころか、その事実すら忘れてしまっている。それを軽薄とは思わない。仕方がないことだし、むしろ都合がいい。あんなに愛らしい姿を、本人すら忘れた姿を自分が知っているのだ。
宗矩はその後再び利勝に会う機会があった。それをみすみす逃す宗矩ではなかった。経験も積んでいたし、多くの人を見ていた。だから、利勝がどのような人間と懇意にしているか、どのような人間から疎まれているかはほとんど把握していた。それだけ情報網は大切にした。先般の彼に関する良からぬ噂の全貌も、その間に知ったものだ。知れば知るほど、彼には自分が必要だと思った。
ただ、その一瞬を見逃さなかっただけだ。
「全く覚えていない。本当にそんなことがあったのか? 何かの勘違いではないだろうか」
「いえいえ、大炊殿がこの香りを懐かしいとおっしゃったのが何よりの証拠です。初めてお会いした時に、私はこの香りを焚き込めていたのですよ」
「……私を試したのか……?」
「そんなつもりは毛頭ございません」
宗矩はそう言って笑ったが、その目が大して笑っていないことに気が付かない土井ではなかった。まるで獲物を捕らえた禽がこちらを伺うような鋭い眼差しだった。利勝にとってその視線の意味を辿るのは苦しい。
「ではやはり、私を助けたのは偶然ではなかったということではないか」
そう言って思い出す。初めて……いや、初めてではないらしいのだが……宗矩と会った日のことだ。
あれは新月の晩だった。目の前で男が、もう一人の男を殴りつけている。殴られている男は先ほど確かに利勝に襲い掛かった者だった。しかし凶行に巻き込まれる直前に何者かに突き飛ばされた。利勝が顔を上げ、その姿を見た時にはもう優劣は決していた。
「な、何をしているのか」
こちらに背を向けている男は利勝には応えず、殴りつけていた男を蹴りだすようにする。蹴られた男は一目散に逃げだして、利勝がその顔を見る前にもういなくなっていた。
残された男は大きく溜息をつくと、こちらに振り返る。
「お怪我はありませんか」
それが宗矩との出会いだった。陳腐な話だが、本当にそうなのだから仕方がない。それに今思えば変な話ではあるのだ。結果としては利勝が暴漢に襲われそうになったところをたまたま居合わせた宗矩が助けたというのだが、まず前提として、利勝が一瞬でも一人になる時を少なくとも二人の男が見計らっていたことになる。宗矩は偶然というが、そうではないと思う。
利勝はその晩、懇意にしていた自分より年の若いとある男と会っていた。仕事ではない。だから連れは少なかった。周囲は彼を利勝の秘蔵っ子と噂したし、彼の元に通う時はまるでそうであるかのように利勝自身振舞った。しかしそれは勘違いだ。彼との間には誓ってなんの関係もない。ただ、酒が好きだというから一緒に呑んでいたに過ぎない。
「いや……助かった。恩に着る」
「あまり夜半におでかけになるのは……特に今宵は月がありません。いろいろなものが隠れてしまうでしょう」
また宗矩もその噂を知っていたのだろうか。そう窘めるように言うので、利勝は自嘲気味に笑った。
「……そうだ、だから都合がいいと思ったのだがな……改めて礼をしたい、名前は」
「……いやいや、名乗るほどでは」
「それでは困る。礼をさせてくれ」
「ではこうしましょう。貴方がこうして夜にお出かけになるときに私を呼んでいただきたい。護衛いたしましょう」
宗矩はそう言って利勝の目を見た。その時初めて利勝は彼の目を見たのだ。何かを探るような目だ。だが、何故か悪い気はしない。子どもの頃から家康の落胤と噂され、好奇の目で見られることにほとほと飽きていた利勝だったが、それとも違う目線だったと思う。ただその目の強さを今もよく覚えている。
「なぜだ、それは礼にならんではないか」
「貴方に惚れたからです」
「は……?」
「名乗りが遅れました。私、柳生宗厳が五男、柳生又右衛門宗矩と申す」
それは互いに而立ごろの話だったと思う。今思い出してもやはりおかしな話だ。
それからこうしてたびたび会っている。そして気が付いたら恋仲ということにされていた。彼がいることが当たり前になった。距離はいつも近い。それは宗矩がそれなりに身分を高くした今でも変わらない。利用されたわけではないと思うし、むしろそうであった方が納得は行くのだが、宗矩の言葉はいつも一つで、それでいて頑なだ。
「大炊殿は多くの人の心を惹きますから」
「茶化さないでくれ。そんな戯けたことを言うのはお前だけだ……お前がおかしいんだ」
「別におかしなことではありませんが……まあ、私がその中で一番大炊殿への思いが強かったのでしょうな。実際それ以外も強いと思いますが」
そう言って宗矩はこの体に触れる。しばらく腕や胸や背中に触り、そっと抱きしめる。未だに彼がこうしてくると咄嗟に構えてしまう自分の弱さが悲しい。昔のように、謂れもない暴力に晒されるのではないかと思ってしまうのだ。もうそんなことはないはずなのに。
「怖がらなくてもいい」
利勝を抱いて宗矩がそっと囁く。何故そこにある恐怖心を彼が知っているというのだろう。利勝の盃の奥底にある濁りなんて知るわけがないというのに。宗矩には見えているのだろうか。上澄みを通り越した、ちっぽけで醜い姿を。
誰も見ない。見もしないで傷つけたそれはゆらゆらと水面を見上げている。外は危険だ。それだけは知っている。だから誰にもその姿は見せないのだ。だから覗き込んでくる宗矩が、恐ろしくも不思議なのだ。
「私をどうしたいんだ」
震える喉は、泡を作って少しずつ水面に投げる。問いはふわふわと浮いて、宗矩の手前ではじけた。彼はそれを見て不敵に微笑む。
「さあ……ただ、知ってほしいだけです。貴方の中の魅力に」
そう言う彼に答えられるだけの言葉を、今の利勝は持っていない。しかし宗矩の香りに包まれて、どこか気が大きくなったのだろうか。その香りが利勝の水に移って、まるで自分も彼の中の一部になったようなそんな気持ちにすらなる。
「私の……」
それでも言葉はまだ出てこない。いや、出してはいけないと思っている。自分なんかに魅力はないから、そんなことを言われても、利勝が返せる言葉はそれを否定するものだけだった。
……利勝には、宗矩に話していないことがまだあった。若いころのことだと笑って話せるほど、昔の話ではない。かといって、昨日ほど近い話でもない。辛うじて血は止まっているが、瘡蓋にはなっていない。まだそこには赤々しい傷が見え隠れするのだ。ただ、宗矩と出会う前の事ではある。
利勝は……何度かその素性を隠して、知らない男と寝たことがある。今思えば愚かなことだった。芽吹きを待つ畑に空の桶を逆さにしても何にもならないように、むしろ土が乾いて種が死んでしまうように、その行為は争いしか生まなかった。
それがわからないわけではなかった。傷ならつくだろうと。知っていた。だが、利勝が利勝である所以を実感するには、もうそれしか手段がなかった。
真っ当な生まれでないこと、少なくとも生まれを疑われる出生であることは六歳で知った。あの優しい目をする恐ろしい男……家康こそが本当の父親なのではないかという疑いなんて、周りがする以上に自分が向けている。七歳で彼の子の傅役になった。それは利勝をあらぬ疑いから守ろうとした家康の配慮であることはわかった。実際に傅役と言っても、やったことなんて遊び相手くらいだ。しかしそれこそ異例な出世であり、更に利勝を苦しめた。
それらを払拭するために、誰よりも優秀でなければならないと信じていた。誰よりも大人で、誰よりも仕事ができなければならないと思っていた。実際、上手いこと利勝の特技が仕事に生きた。そうでなかった人生など最早考えられない。
真っ当に生まれることができなかった利勝は、誰よりもその真っ当さを求めた。しかしそれは、彼の中の話でしかない。穴ぼこだらけの器にどれだけ水を張ろうともそれらが満たされることはない。風が吹けば倒れてしまう。外との境界はいつも曖昧だった。
だから、人と肌を重ねているとその曖昧な境界がくっきりとわかるような気がして、やめることができなかった。渇いた肌を潤すことで、一時的にでも自分がわかるのだ。だから、縋るように男と寝た。幸いにも誰も利勝の素性を知ることはなかったから、そのことを知っているのは数少ない口の堅い近習のみだ。
だとしても愚かだった。結局誰にも打ち明けられずに、この年になるまで隠していた罪は今も利勝の体に貼りついている。それらは何も言わないが、その沈黙こそがまるで罰のように降りかかる。穏やかで優秀な利勝の、少し色の淡いところを押すともうそこには何もなく、かたちを失い消えていくのだ。
宗矩の直接的な睦言は、それらの傷をまるで麻布で拭うようなものだった。血が滲んで痛くて、でもどうしていいかわからない。嫌ではないが、昔のことまで思い出してしまう。ああ、だから嫌ではないのか。あの男たちと宗矩は同じだ。最初はそう思っていた。
だがそれは間違いだったらしい。宗矩はあくまでその傷についた血を多少乱暴だが拭っただけで、すぐにそこに何かがあることに気が付いたようだった。
「……何か、言いたい顔をされているが」
宗矩はそう言うと、まっすぐに顔を見てきた。自らの罪を話してはいけないと何十年も思ってきていた。それは死ぬまで続くとも。しかし今、目の前に差し出されている手が、利勝を優しく待っている。
利勝は俯いて……唇を二回噛むと、少しずつ話し始めた。何でもない風に、こんなこと誰にでもあるという無駄な装いをした。宗矩は茶化すことも口を挟むこともなく、ただ黙って聞いていた。何か言ってほしい淋しさは最初の僅かな時間だけだった。そこから利勝は堰を切ったように自らの経験を話した。順序もばらばらだった。あとからあとから嫌なことが出てくる。物陰に押し込められ体を触られたことや、謂れもない暴言を吐かれたこと、全部嫌だった。本当は全部否定したかった。できなかったから自分を否定した。そうして沈殿していた澱みがぷかぷかと浮き上がり、利勝の境界線はもうないようなものだった。昔見たぎやまんのようだ。色付きの透明のそこには確かに境界があるはずだった。涙はそれらを証明するように利勝の上気した頬を伝っていく。
それは利勝が自らの道をたどるための、最初の一歩だった。