鶺鴒は夜霧を越えて

行ってしまった。
多くの感染者を出した病は、嵐のように人々を巻き込んで行った。
そして彼らは海で南を目指し、旅立った。彼らを先導する男は与一郎の深く知る人であった。まるで嵐のあとの夜のような日々だ。風の音ばかりがいやに響いている。

結局彼の言っていた教えのことは、安っぽい詭弁にしか聞こえなかった。
与一郎ですらそうなのだから、おそらく多くの普通の人間もそう思っていただろう。

信じることは簡単だ。
信じるのをやめることも、おそらくは簡単だ。
簡単ではないのは、信じ続けることだろう。

与一郎は彼からの遺書とも恋文ともつかない手紙を見えないところに丁寧に仕舞った。
本当は細かく切り刻んで燃やしてしまいたかった。だが、どうしてもできなかった。せめて、目のつかないところに仕舞うしかなかった。
そして今夜のようなどうしようもなく気持ちが昂る夜などに、引っ張り出してはまたその言葉に目を通すのだ。
しかしその度に今日こそは燃やそう、と固める決意は、結局今の今まで果たされることはなかった。

昨年からの病で与一郎の目はだいぶ侵されていた。
もう多くのものは正しく与一郎には映らない。
死ぬまでそうなのであろう。まるで夜霧に一人立っているかのような不安が度々与一郎を襲う。
手を伸ばしたところで、一番その手を取ってほしい人は、とっくの昔に病で死んだ。その事実はどうしても変わらない。
皆が自分を置いていってしまう。悲しみよりも悔しさが勝った。

人に触れると孤独になる。
それはいつか必ず訪れる別れを、否応なく飲み込まざるを得ないからだ。
こういう世の中だから、数多の死を見てきた。
数多の別れを繰り返してきた。仕様のないことだ。
一人一人顧みてしまえば、それだけで一生が終わってしまう。
そんな数え切れない死の上で、与一郎は今生きている。
まるで夥しい数の墓石の上で生活しているようだ。
そしてそれらはいずれ、忘却に帰してしまう。それも仕様のないことだ。

孤独を癒すのは時間であり、けして神でも仏でもない。
それとも彼の言っていた、この世界にたった一人しかいないという全能の神ならば、それすら叶えてしまうというのか。
いや、わかっている。信仰し教えを守ることにこそ、意味はあるのだ。
少なくとも与一郎の知る世界では、秩序の中に必ず教えがあった。
彼が嬉しそうに語る理想の世界も、形や色は違えども、もしかしたら中身は同じだったのかもしれない。

一方で、与一郎が知る限りでは……教えだけではこの世界は回っていかない。
今日の飯がなければ明日の信仰は約束できない。
それは彼も、いや、彼自身が一番分かっていたはずだ。
何よりも現実主義者だった彼は、常に自らの理想と戦っていた。
彼の本当の敵は異教徒ではないし、ましてや時の為政者であった人々でもない。自分自身との矛盾だったのだ。
誰であれ自らが抱える些細な違いに悩むものだ。それは与一郎ですら経験している。しかし大抵の人間は、その違いを受け入れて…いや、あえて言葉を粗くするのであれば、諦めて、生きていく。

何故ならば、その矛盾こそが人間の証明であるからだ。
それを否定する彼は、では何であるのか。
彼が昔、与一郎に熱心に聞かせた話の中に、神の遣いの話があった。
その遣いたちは人のような形をしているが人ではなく、美しい姿形をしていて、いつまでも若く美しい。
彼らは神に仕え、この世界を守っている、と。
馬鹿馬鹿しい、と当時は思った。

しかしなんのことはない。おそらく彼自身が、その神の遣いだったのであろう。いまになって思えば、彼は人間ではなかったのだ。
そう思えば合点が行く。最後に相見えた時、すでに五十路を超え少しは草臥れていてもおかしくはないというのに、彼の容貌は美しく、隙がなかった。思わず目を見張ったものだ。墨染の髪に少し交じる白髪すら、元々なんの色も持っていなかったかのように張り詰めていた。
若い頃に抱いた、自分でも説明のできない感情が、忌々しくもそのままの形で遺っていた。
人ならざるものならば、その感情にだってなんとでも名前をつけられるだろう。

彼は、遠く離れた温暖な地で呆気なく死んだという。
風の噂だ。きっと彼の信じる神のみもとに戻っただけに過ぎないのであろう。

与一郎は今夜こそ、あの手紙を焼こうと決意した。