それまで右近は自由に生きてきたと言っても過言ではなかった。
家族を持ち、領地を持ち、幸せに生活していた。大掛かりな復活祭もやった。信仰とは生活そのもので、身に染みているものだ。それに抗わず生きることに誇りすら抱いていた。
だから神の御名の下に、何もかも捨てざるを得なかったと周りは嘆くが、その魂は空を飛ぶ鳥のように軽やかであった。
祈ることで魂が、世が救われるのならば、この身はずっと祈りのために捧げよう。そのための人生を歩むのだ、そこに疑いなんてなかったし、その欠片すら右近は手にもしなかった。
…いつからだろう。大空を見ても飛びたいと思わなくなったのは。
それよりも、隣で微笑むこの男、忠三郎のそばにいたいと思うようになったのは。
地上に足がつき、初めて右近は自分の重みを知った。その魂は右近がそっと胸にしのばせるには、あまりにも…そう、あまりにも重いものだった。
どうしてだろう。これまで生きてきた中でこんなに惹かれるなんて。その横顔を盗み見ては思うのだ。快活さが人の形をしている、精悍だがどこか優しい、無邪気に笑う顔などまるで幼子のようだ。それにつられて笑う自分も、子どものように笑えているのだろうか。不釣合いではないだろうか。徐々に、そう考えるようになった。
この感情に名前がつくとしたら、なんだろう。
この不思議な感情の名前に気がつくまで、そこまで時間はかからなかった。
恋、などという甘い言葉。
それが許されないことだとか、笑われるようなものだということはもうどうでもいい。
右近は愕然としたのだ。
正しいと思っていた道に、正しいと思っていた人に、もちろん自分にも、裏切ってしまったような…裏切られたような、そんな気がしたのだ。
自分が誰かと恋に落ちるなんて、考えてもいなかった。
愛しい、こんなちっぽけな感情が、全てを疑う理由になってしまうなんて、頭の隅をよぎることすら右近はしていなかったと言うのに。
しばらく食事もろくに喉を通らなかった。自分の踏みしめている大地が、本当はもっと柔らかいどこかぐちゃぐちゃしたもので、立つどころか体を支えることすらままならない、そんな気分だった。
痩せた肩を忠三郎はいたく心配したが、右近にとってはもうそんなことどうでもよかった。体は軽くなるのに、軽くなるどころかどんどん重く沈んでいくようなこの気持ちはなんだと言うのだろう。
そして忠三郎の視線を感じるたびに、頰に血が集中するような、この居た堪れない感覚はなんだというのだろう。
少女ではないのだ、女ですらない。こんな自分が、どうして。
誰といても、何も話していても、右近の中にはこの自問という沈黙が絶えなかった。
人気のない静かでやかましい森の中をたった一人で歩いているような、孤独とも言い表せない。人生の中にたったひとりの人が入る込むだけでこんなに寂しさすら感じるなんて知らなかった。こんな長い沈黙に耐えきれるほど、右近は強くはなかったのだ。
その沈黙を打ち破ったのは、誰でもないその深い色の眼であった。
その眼は憂うように細められ、その先にある瞳はわずかに揺れていた。その瞬間、右近は長い長い夢から覚めたようなそんな感覚を覚えた。目の前の光景も、自分が呼吸をしているということすら、現実なのだと突きつけられるようなそんな感覚が、世界に鮮やかに色がつくその光景は、今も忘れられない。ああ、これは…憶えている。若いころに不忠ゆえに未だ消えぬ傷を負ったとき、目が覚めた時のあの瞬間に似ていた。世界の彩りをあの時は確かに神の指先と照らし合わせたものであった。
「これ以上、秘密を抱えているのはとても苦しいのです」
そう言って忠三郎が語り出した言葉たちは、右近が隠し通すつもりだった夢の断片を孕んでふわふわと右近の心の中に積もっていった。
何を言っているのだろう。知らない国の言葉なのだろうか。それならばもっと知りたい。知りたいと思うのに、知ってはならないそんな気がする。
理解するのに時間がいる。もっと、もっと時間が欲しい。外は夕暮れだった。太陽が眠りにつこうとしている。もう少し、もう少しだけ。それだけでいいのに。
それが、愛の言葉だということに気が付いた頃には、忠三郎は顔を真っ赤にして、うすら寒い季節だというのに額に汗すら浮かばせていた。そして右近と目を合わせることすらできないようで、俯いて、どこか叱られるのを待つ子供のようにもじもじとしていた。普段の忠三郎からは、まるで想像もできない。
愛しい…もはや右近にその感情に目を背けることすらできなかった。
愛しい。愛しい。
やっと名付けることができた。やっと向き合えた。これが正解かどうかなんて、もうどうでもいい。
「あの…高山殿」
忠三郎がそうやって目を合わせてくるのを、右近はずっと待っていたような気がした…!
何も言わなかった。何も言わず、右近は忠三郎の胸に飛び込んだ。抱きしめ、忠三郎の驚きの声も聞かず、ただ、その熱を奪い取った。
意味を察したのか、忠三郎も負けじと抱きしめてくる。それが、ただ、嬉しかった。
「すみません、すみません…」
忠三郎はずっと何かに謝っていた。何に謝るというのだろう。神だろうか、自分だろうか、ああ、ただ甘くて答えなんてわからない。むせかえるような甘い匂いがしたような気がした。
「謝ることなど…わたしは、ただ…」
あなたを、愛してもいいのだろうか…
それは本心だった。たったひとつ、空の器に入っていた最後の疑問。愛したいと思う気持ちとそれが真正面からぶつかってなにも見えない。
言葉がこんなに不自由なものだなんて知らなかった。本当に伝えたいことは言葉にしてしまうとあっという間に埋もれてしまう。
それから、世界は変わることはなかった。
何気ない日常はいつも通り穏やかににやかましく過ぎていく。
それでも二人の関係は変わった。二人きりで会うことが意味を持った。たったそれだけと思われるかもしれないが、大切なことだった。
「最近思うことがあるのです」
右近は忠三郎に話しかける。
「飛騨殿に出会わなければ、わたしは何も疑わずに生きていられたでしょう…それがいいことだとは今のわたしには思えません。しかし、あの頃はそれが正しい道だと思っていたのです。もちろん、どちらが正しいだなんて決めつけはできません。それでも、飛騨殿、わたしはあなたと出会えて…幸せです」