「鶉を全て手放したそうじゃないか」
信綱の言葉に忠秋は顔を上げた。仕事中に珍しく雑談を振ってきたと思ったが、その内容だって仕事がらみだから特段忠秋を面白がらせるものではなかった。
彼の言う通り、忠秋は先日まで大量に飼育していた鶉を手放した。自らの意思だが、興味がなくなったわけではない。仕方のないことだったのだ。
「ああ、おかげで小屋ががらんどうになったよ。今度それも崩してしまおうかと思って」
「……惜しいことをしたな」
「なんでも政治の道具になるのだと勉強になったさ。私も少し浅慮だったよ。それにしても珍しい、伊豆殿は特に鶉に興味がないと思っていたから」
善い鳴き声の鶉の話をしても特段食いついてこなかった彼が、あまりにも残念そうな顔をするのは意外だ。それは面白く思う。
いや、言い方が悪いか。松平信綱という男は、政以上の趣味を持たないし、興味もないという顔をしている。忠秋も大概、世を想う気持ちが強いと自負しているが、彼のそれはまた違う何かだと思う。その時に最適な答えを出して実施し、それが上手く動き出した時の信綱の顔を忠秋は知っている。まるで無邪気なそれだった。それこそ禽のような、罪を知らない顔をするのだ。それがまるで鶉や忠秋を憐れむような表情をするのは、何とも言えない気持ちになる。
「別に今も興味があるわけではないが、お前があれだけ入れ込んでいたものを簡単に手放したのに少し面食らった」
「私を何だと思っているの。世のためにも鶉のためにもならないことを望むような人間じゃあないよ。あれを許してしまったら、大して飼育に興味もない奴が知識もなしに鶉に手を出してしまうじゃないか」
忠秋だって、好きであれだけの鶉を手放したわけではない。自らの選択ではあるが、用意された選択肢がいつも自分を喜ばせるものとは限らないのを知っているから。鶉をたちは信頼できるもの達に分与した。それも彼らの政治的立ち位置とは関係なく、飼育ができる者に限った。それが命を預かる者が最後にできる最低限の役目だ。
鶉の世話を主にしていたのは、忠秋が保護した血のつながらない捨て子たちだ。だから今は手放した鶉のことよりも、仕事を失った彼らにどういった役目を与えるかで忙しい。
信綱はそういった忠秋の言葉を聞いて、ふっと笑った。別に馬鹿にしたようなものではなく、純粋に面白がっている笑いだった。まあ、普段から簡単に表情を崩さない人間だから、見分けがつくのはごく親しい者だけだろう。その中に忠秋はいる。他意はなく、ただ同じ志を持つ者として。
「つくづく豊後殿らしい。欲の匂いがない人間だな」
「……私は強欲だよ。そうだ、伊豆に少しばかり難しい頼みがあるのだが、良いか」
「頼みの中身によるが、俺に叶えられるのならば」
「実は一羽だけ手元に鶉を残しているのだがな。あれだけはどうしても手放せなかった……伊豆殿に引き取っていただきたい」
それはそれは見事な鶉だ。忠秋をもってしても次にいつお目にかかれるかわからないほど、姿かたちも鳴き声も素晴らしい鶉だ。本来ならば然るべき技量のある人に任せるべきだが、忠秋は信綱にこの一番気に入った鶉を託したかった。そこには様々な理由があるのだが、そんなことを議論するほど忠秋は野暮ではなかった。
信綱は忠秋の言葉に面食らった顔をしたが、間もなく肩を僅かに揺らした。そして手許にある積みあがった仕事の群れたちを見て、こういうことを言った。
「私でいいのか、お前には不都合しかないだろう」
「むしろ伊豆殿にお任せしたい。そうすればすっぱりやめられる気がするんだ。どうだい、これでも私が無欲な人間と言えるか」
そう笑うと、信綱は息を吐き、左手で顎を少し触るとその手をひらりと翻し頷く。
「……わかった、引き受けよう。豊後殿はあくまで人の味方のようだ」
「当然だ。人がいるから世がある。世とは人のためにある。それが翻ることはありえん。強欲でなければこんなことを頼もうなんて思わないよ」
後日、忠秋は最後の一羽の鶉とそれを一番可愛がって育てていた孤児を信綱の元に託した。信綱は彼らを寛大な眼差しで見守った。そして時折様子を見に訪ねてくる忠秋と、鶉の鳴き声を背景に政を語らうのが信綱の楽しみの一つになっていった。
阿部忠秋には実子が居なかったが、彼の周りにいた子供は多い。多くが親を亡くし浮浪していた子どもたちだ。そのうちの一人を、松平信綱はとある事情で引き取ることになった。
「鶉番としてきました」
聞くと、忠秋の元に二年ほどいる子どもで、名前は
閑(かん)七(しち)というそうだ。その名も忠秋がつけたと言う。彼に似合わず妙な名前だ。真っ当な性格をしていると思ったが。
「よく勤めよ」
そう言うと、彼は緊張した顔のまま、頭をがばっと下げた。真面目な子どもだからと聞かされていたので、信綱は頷くと閑七の傍に寄った。痩せぎすで衣に着られてしまっているところなどは少し自分に似ていると思う。閑七が身を硬くするので、そう緊張するなと言っては見た。忠秋が信綱のことをどう閑七に話していたかは知らないし、むしろ知りたいくらいなのだが……どうもこの様子では気難しいと言って聞かせたようだ。全く、そんなことないくらい分かっているだろうに。
「鶉番とはなにをするのだ? 私は鶉を飼ったことがないから、お前に師事を乞いたいのだ」
「……う、鶉は、虫や草の種を食します。えっと……寒くなると渡りをしてしまうので、籠に入れて暖かいところに入れてあげて……」
閑七のたどたどしい話を、信綱は根気よく聞いた。鶉の雌は短命なこと、雄が騒いだら麻布などで籠を覆うといいことなど、彼はなんでも知っていた。信綱が質問をする頃には、流暢に、その頬などはいっそ気色ばむほどに語っていた。
「この鶉は雄なのか」
「この子は雄です。でも、卵から育てたので、掌にも乗ります」
「私の手にも乗るだろうか」
「はい、乗ると思います」
そう言って近寄ると、彼は籠を少し揺らして、鶉を掌に載せた。脚の力などは強かったが、確かにこうしてみると可愛らしいものだ。閑七が目をぱちぱちしているので、信綱は礼を言って鶉を籠に戻した。
「何か驚いていたが、どうした?」
「えっと……阿部様が仰る通り、松平様は鶉に好かれる方のようで……」
その言葉があまりにも素っ頓狂なので、信綱は一瞬その言葉の意味をまっすぐ考えてしまったが、すぐに忠秋のいたずらっぽい笑い顔が脳裏に浮かび、苦く笑うしかなかった。
「まったく豊後は……」
「いえ、いえ、違うのです……この子が教えてくれました。松平様は善い人だと」
「馬鹿を言うな、鶉が話すわけがなかろうに」
そう言うと閑七はなぜか、うん、うんと頷いて籠を抱いたので、信綱もあまり触れない方がいいのかとその時はそのまま下がらせた。
それから暫くして、仕事中声をかけてきた忠秋は信綱を見るなりこんなことを言い出した。
「閑七はどうだい、上手くやっている?」
「ああ、全くお前は変な子どもを私に遣ったな」
「なんのこと」
「とぼけるんじゃない、鶉と話せると言っていたぞ」
それを聞いて忠秋はアハハと笑う。まるでそう切り出すのを知っていたかのようでなんだかおもしろくない。
「ああ、閑七は喋れるから、鶉と」
「おい、お前まで可笑しくなるんじゃない。なんなんだ、まったく」
馬鹿にされているように感じてため息をつくと、すまんと忠秋は信綱の肩をたたく。宥められるのは癪だったのでその手をはじこうとしたが、逆に手をぎゅっと握られてしまった。何をすると口に出す前に、忠秋はすっと信綱の身体を己の腕の中に収め、抱きしめた。
「なっ……」
「だから知っているんだ、彼は。私が伊豆殿のことをどれだけ好いているか」
「……私もそれは初耳だ」
「そう? とっくに知っていると思っていた」
忠秋の腕の中は暖かい、気色の悪さどころか少しだけ安心した自分にも何か違和感があるが、あの忠秋がそう言っているのだ。少しだけなら聞いてやってもいいかと少しだけ身を任せていた。
「……それで」
信綱の言葉に忠秋は、ん、と返す。
「私が納得するまで教えてくれるんだろうな? この私のどこを好いているのかを」
「……知恵伊豆殿を納得させるのは大変そうだ。鶉に相談しないと、な」
「もう育てていないんだろう?」
「さあ、渡りで戻ってくるかもしれない」