たとえ愛が刃なれど

「愛とはなんでありましょうか」
忠三郎が突然そんなことを言い始めた。まるで外で遊んでいた子供が、何か面白いものを見つけてきたかのような表情だ。そこには凝りも濁りもない、澄み渡った感情が流れている。
そんな彼が聖書にしるされた愛という言葉に興味を示すとは、本当に忠三郎らしい。
「忠三郎殿は、どのように解釈しましたか?」
あまり質問に質問で返すのもよくないと思ったが、気になったので訊いてしまう。彼の考える愛が気になった。
「私は……今まで慈悲に近いものだと思っていました。愛しとも言いますし……ですが、それともまた違うものだと、聖書をお借りして読んでみたらそう思ったのです」
「なるほど、そもそもお寺など仏教では……愛とは慈悲ととられます。飛騨殿もご指摘のとおり、愛と書いてかなしいと読みますのはそう言うところからきているのでしょう。耶蘇の教えでは、愛には大きく分けて二つあるとされます」
右近の言葉に忠三郎の目がきらきらと輝く。新たな知識を取り込む若い者の、なんと眩いことであろうか。たまにその若さに本当に目がくらんでしまいそうになるが……右近はこう続ける。
「愛には性による愛、そして神から人間への愛にざっくり分けられます。このあたりは宣教師によっても解釈が違うので、飛騨殿も自らの考えを出していいのですよ。例えば信者同士の情愛も後者だとか」
「……つまり、その……」
そう言って忠三郎ははっと何かに気が付いたように頬を俄かに赤らめる。ああ、自分が見つけた道がこんな話題になるなんて思っていなかったわけではないだろうに……なんて可愛らしいのだろう。こんな風に思うような日が来るとはまさか思わなかった。
忠三郎と右近はあの誓いの後、何度かこうして会っている……むろん、特別な仲ではあるが、体の関係には至っていない。至らなくてもいいと忠三郎から言ってきたことだ。
そんな彼を試そうとするわけではないが……右近は忠三郎へにじりよりそっとその頬に触れる。わっと忠三郎が声を上げるので、しぃっと指を唇に押し当てた。
「ただし、耶蘇の教えでは男同士の関係は禁忌とされています、飛騨殿もよくわかっていらっしゃるとは存じますが……ふふ、そんな顔をなさらないでください」
「しかし……」
「飛騨殿は私をどうお思いでしょうね」
にこりと笑うと、忠三郎もつられて笑うが、言葉を詰まらせてしばらく考えているようだった。
ああ、彼が必死になって考えているこの時間を邪魔したくはないのだが、ふと昔宣教師から聞いた言葉を思い出して、口ずさみたくなった。
「愛があなたがたに語りかけたのなら、愛を信じなさい」
忠三郎が顔を上げるが、右近は続けた。
「たとえ、その声が庭を荒らす北風のように、あなたがたの夢を打ち砕いても。なぜなら、愛は、あなた方に栄光を与えると同様に、あなたがたを十字架につけるのです。愛はあなたがたを育て、また刈り込みます……」
「……聖書には、そのようなことは」
「ええ、この言葉は聖書の言葉ではありません。とある方から聞いた言葉です……しかし、聖書にも劣らない言葉だと私は思います。なぜなら、愛とは人の心に宿るもの。人の心とは移りゆくものです……愛は誰のものでもありませんし、愛は何も持ちません。それは人の心も同じこと。飛騨殿……愛すると言うことは、そういうことです」
忠三郎はその言葉を反芻しているようだった。そうしてしばらく目を動かし考えているようだったが、やがてそのまっすぐな目を右近に向けて、その手を取ってこう言った。
「たとえ今日が刈り入れの日だとしても、右近殿、私はあなたを愛します。この心が空のように移り変わっていっても、この気持ちは変わりません」
ああ、暖かい手だ。夏の日差しのようにそれは右近を包み込む。ふと先ほどの言葉の続きが脳裏をよぎる。
「……愛の翼があなたがたを包んだなら、愛に身を委ねなさい。たとえ、その翼に潜む刃が、あなたがたを傷つけても」
「傷つけません。俺の刃は、常に右近殿の外を向いています」
忠三郎は右近の手の甲にそっと唇を押し当てる。そして顔を上げた。なんと精悍でなんと純なことか……右近は彼を試そうとしたことを少し悔やんだ。これではイエスを試した救われない人々や悪魔とさして変わらないではないか。彼ほどに神に愛される人はいないだろう。右近が黙っているのをどう捉えたのかわからないが、忠三郎はその目を泳がせ始めた。
「え、と……その……つまり……」
そこで右近は忠三郎の手を握り返し、そっとその体を抱き寄せた。武骨で広い背中に手を回すと、忠三郎もそっとそれに応える。体温と、それとも違うなにか暖かいものを共有しているようだ。
「右近殿……」
「ならば私の翼もあなたを包みましょう」
もう右近の刃は忠三郎の前に融けてしまっているかもしれないけれども。もうこの身は翳るばかりかもしれないけれども……それは敢えて言う必要はないのではないだろうか。
「光栄です。右近殿……」
そうして二人はつよく抱き合った。対称的に、愛の刃は互いに背中合わせで互いを護ることを誓う。
そして右近はひとつの詩を忠三郎に教えた。それは先ほどと同じ詩の、婚姻について教えるものだった……。

愛し合っていなさい。
しかし、愛が足枷にならないように。
むしろ二人の魂の岸辺と岸辺の間に、動く海があるように。
おたがいに心を与えあいなさい。
しかし、自分をあずけきってしまわないように……。

それを聞いた忠三郎は右近に後日、十字を刻んだ短刀を贈った。二人の関係を象徴するように。二人の間にある海が最期まで穏やかであるように。